第98話 王冠供給総監に『王家専用』札を自分の手で外させる

 王家専用の札は、鍵より意地が悪い。


 扉を閉めなくても、

 木片一枚で、

 「お前は後だ」と言えるからだ。



 朝一番に届いた返札は、母の字だった。


 短い。


 だが、ちゃんと朝の話になっていた。



『今朝は自分で外套を着ました。

 粥のあとで、少しだけ窓のそばまで歩きました。

 でも、湯のあとの方がやっぱり楽そうです』



 上出来だ。


 かなりではなく、

 素直に上出来だった。


 夜は越えた。


 朝も戻り始めた。


 だから今日は、

 その戻りを止めている札の番だ。



「兵站区主」


「何です」


「今日は、あの黒いやつですね」



 ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を整えながら聞いてくる。



「ええ」


「だいぶ気に入らないです」


「正常です」


「俺、今日はけっこう怒ってます」


「それも良い傾向です」



 若い親衛隊長のそういう顔は、悪くない。


 前よりずっと、怒る場所がはっきりしている顔だ。



 王都兵站区の中央へ、長机を三つ並べる。


 左に、王冠未着箱副帳。


 中央に、黒札箱。


 右に、受領返札と継続診札控え。


 その前へ、ミレイユがもう板を立てていた。



 王家専用取消机



 好きな名前だ。


 何をする机か、一目でわかる。



「兵站区主」


「何です」


「今日はかなり高いですよ」


「何がです」


「この机で落ちる音です」



 ミレイユは黒札箱を指先で軽く叩いた。



「木札って、机へ置かせるとよく響きますから」



 悪くない。


 実に悪くない。



 ハルバードが、青黒い外套のまま長机の前へ立つ。


 その右にオズヴァルト。


 左にセレス。


 少し離れてリンネ。


 さらに後ろでケルムが腕を組んでいる。


 王冠側の顔ぶれとしては、かなり揃っていた。



「始める」



 第一兵站評議官の声は低かった。


 だが、よく通る。


 王都兵站区の列まで、きれいに届く声だ。



 兵も。


 文官も。


 遺族も。


 家族便の列の客まで、みんなこっちを見ている。


 いい。


 見られている方が強い。



「争点は単純だ」



 ハルバードが言う。



「王家専用札、離宮限定札、上級優先札」


「この三つが、遺族追給、前線追送、王冠家族便、王冠医療診札をどれだけ止めていたか」


「今日はそれを、札と帳で確認する」



 オズヴァルトは、露骨に不愉快そうな顔だった。



「そんなもの、制度上の区分にすぎん」



「区分ですね」



 俺は王冠未着箱の副帳を開いた。



「では読みます」


「王冠遺族追給七、王家専用枠優先につき繰延」


「前線追送金九、離宮限定便優先につき繰延」


「北二区小児温食四、上級家系優先につき繰延」


「王冠医療診札六、王家家系枠満了につき後回し」



 一行ずつ置く。


 短く。


 わかりやすく。


 列の顔が、それだけで変わる。


 いい。


 帳簿は、読ませる行を間違えなければ強い。



 サラが、遺族金机の列から一歩だけ前へ出た。


 薄い喪布のまま、小さく言う。



「昨日まで、うちの追給もその札で止まってたの?」



「ええ」



 俺は答えた。



「帳簿の上では」



 次に、北巡回帰りのダインが口を開く。



「王冠塔夜番の追送も、それか」



 リンネが、すぐに黒便本帳を開いた。



「王冠塔夜番追給札四、受領」


「返札もあります」



 黒便番の女は、返札を一枚だけ高く掲げた。



『三日ぶりに銀を見たと、塔の若いのが本気で黙った』



 短い。


 だが、強かった。


 王都兵の列まで静まる。


 前線の夜番の顔が、そこへきれいに落ちるからだ。



 セレスも、白い診札束から一枚抜いた。



「小児診札は、昨日までここで止まっていた」



 離宮侍医長は、細い指で黒札を示す。



 王冠医療診札

 上級家系優先



「この札があるだけで、咳のある子は後ろへ回る」



 そこへ、子どもを抱いた若い母親が、思わずみたいに口を挟んだ。



「……昨日、うちも後ろだった」



 空気がまた一段だけ変わる。


 いい。


 机の上の札が、今ここにいる人間の顔と結びついた。



 ハルバードが、そこで一枚の紙を出した。


 白い。


 厚い。


 見た瞬間に嫌な紙だとわかる紙だ。



 王家専用札維持確認書



 オズヴァルトの眉がはっきり動いた。



「……何だ、それは」



「簡単だ」



 第一兵站評議官が言う。



「お前がまだ王家専用札を維持したいなら、ここへ署名しろ」


「本日以後も、遺族追給、前線追送、小児温食、王冠医療診札を、王家専用枠優先のため繰延する」


「そう、自分の手で書いてある」



 好きな紙だ。


 かなり好きだ。


 維持したいなら、責任ごと持てという紙は、本当に強い。



「馬鹿馬鹿しい」



 オズヴァルトが吐き捨てる。



「そんなものに署名するわけがない」



「なら外せ」



 ハルバードは即答した。


 短い。


 重い。


 十分だ。



「今、この場でだ」



 静まり返る。


 兵站区の湯札机まで、一瞬だけ止まった。


 強い言葉だった。



 オズヴァルトは、しばらく何も言わなかった。


 それから、黒札箱を見た。


 列を見た。


 遺族の顔を見た。


 最後に、王冠未着箱副帳へもう一度目を落とす。


 終わりだ。


 そういう顔だった。



「……どれからだ」



 絞り出すように言う。



「全部です」



 俺は答えた。



「一つ残ると、また後ろへ回るので」



 ノイルが、小さく息を呑む。



「兵站区主」


「何です」


「今の、だいぶ好きです」



 悪くない。


 若い親衛隊長のそういう反応は悪くない。



 最初の札は、王冠家族便札掛けだった。


 細い黒木の札。


 吊り穴つき。


 表に、こう焼いてある。



 王家専用



 オズヴァルトは、それを外す時だけ少しだけ手が止まった。


 やはり、そこが喉だったらしい。


 だが、止まっても遅い。


 外す。


 木札が机へ落ちる。


 かちり、と鳴った。


 いい音だ。


 実にいい。



「裏へ」



 ハルバードが言う。



 オズヴァルトは札を裏返し、裏面へ自分の手で書く。



 兵・文官・家族可



 署名。


 日付。


 王冠供給総監オズヴァルト・バルディア。


 上出来だ。


 これでもう、その札は逃げられない。



 次。


 離宮温食庫の札。



 離宮限定



 これも外す。


 今度は、少しだけ乱暴だった。


 気に入らないらしい。


 だが、気に入らなくても外れる時は外れる。



 裏へ書く。



 王都兵站区受渡可



 署名。


 日付。


 いい。


 温食箱の行き先が、やっと表へ出た。



 次。


 王冠医療診札束の前札。



 上級家系優先



 セレスが、それを見たまま言う。



「そこは小児と咳を先に」



 離宮侍医長の声は冷たかった。


 だが、必要な方へ冷たい声だ。



 オズヴァルトは顔をしかめたが、逆らえない。


 裏面へ書く。



 小児・咳・夜番優先



 セレスが、その文字だけはちゃんと見届けた。


 良い。


 こういうのは、専門家の目の前で書かせるのが効く。



 最後に。


 王冠未着箱副帳の差込札。



 一般追給繰延



 これが一番悪質だった。


 金も封もあるのに、紙だけで後ろへ回すための札だ。


 俺はそれを指で叩いた。



「これもです」



 オズヴァルトは、今度ははっきりと嫌そうな顔をした。



「ここまでやるのか」



「遺族金がかかっているので」



 俺は答えた。



「前線の夜番もです」



 一拍置く。



「だから、ここです」



 王冠供給総監はそこで、ようやく筆を取り直した。


 その手つきはまだきれいだった。


 だが、さっきまでより少しだけ乱れている。


 良い。


 そういう乱れは好きだ。



 裏面へ書く。



 遺族・前線優先



 署名。


 日付。


 それで終わりだ。


 王家専用札と、離宮限定札と、上級優先札と、繰延札。


 全部、自分の手で外させた。


 机の上に並んだ黒札は、どれももう死んでいる。


 最高だ。


 かなりではなく、本当に最高だ。



 ノイルが、はっきり聞こえる声で言った。



「……すごいですね」



「何がです」



 俺が聞くと、若い親衛隊長は机の上を見たまま答えた。



「木札なのに、今めちゃくちゃ重かったです」



 その感想はかなり正しい。


 紙と木は、たまに剣より重くなる。



 そこへ、ミレイユが待ってましたとばかりに新しい板を立てた。



 王冠家族便札 家族可

 離宮温食札 兵站区受渡可

 王冠医療診札 小児・咳・夜番優先

 王冠追給札 遺族・前線優先



 露骨だ。


 だが、今日は露骨な方がいい。


 ここまでやったなら、見える形で流した方がもっと効く。



 最初に動いたのは、やはりサラだった。



「王冠追給札、一」


「黒便で」



 薄い喪布の女は、迷わず言った。



「炭が切れる前に、今日欲しい」



「受領返札は夕鐘前です」



 ミレイユが答える。



「助かる」



 次に、ダイン。



「前線追送、王冠塔へ一本」


「夜番追加だ」



 リンネがすぐに黒箱を引いた。



「今日の線ならまだ間に合う」


「じゃあ頼む」


「もちろん」



 そして、昨日まで診札の後ろで止められていた若い母親も前へ出た。



「王冠医療診札、一」


「子どもの分」


「今日は小児優先です」



 セレスが静かに言う。



「先に通す」



 列の空気が、一気に変わる。


 強い。


 止めていた札が外れると、人は本当に早い。



 離宮温食札も飛ぶ。


 兵。


 文官。


 侍女。


 執事。


 みんな同じ顔だ。


 今は、ただ早く受け取りたい顔をしている。


 そこが気持ちいい。



「兵站区主」



 ミレイユが帳簿を見ながら言う。



「かなり出ます」


「そうですね」


「黒札を外した直後は、財布が軽いです」


「商人ですね」


「知っています」



 悪くない。


 実に悪くない。



 その時だった。


 黒金の鈴が、地下から一度だけ鳴った。


 乾いた。


 高い。


 いつもの黒便の返りとは少し違う音だ。


 リンネの顔が、そこで変わる。



「違う」



 黒便番の女は、ほとんど反射で階段口へ走った。


 すぐに戻ってくる。


 顔色が悪い。



「兵站区主!」



「何です」



「王冠通行印が一つ足りない!」



 空気が止まる。



「どれです」



 俺が聞くと、リンネは息を切らしながら答えた。



「北方本戦線王冠塔行き!」


「黒金便車も一台、戻り線にいない!」



 いい。


 いや、状況としては最悪だ。


 だが、次の喉としては最高だった。



 ケルムだ。


 王冠護衛長の姿が、いつの間にか長机の後ろから消えている。


 見ればわかる。


 そういう時に、門番はだいたい箱と鍵を持って逃げる。



「……やったな」



 ハルバードが低く言う。



 第一兵站評議官の目が、主室の奥――離宮地下機関線の方角へ細くなる。



「王冠通行印と黒金便車を、奥へ落としたか」



 リンネが頷く。



「主車線です!」


「王冠塔行きの直通!」


「今追わないと、そのまま主枢へ逃げる!」



 オズヴァルトの顔が、そこで初めて本気で白くなった。


 自分の札を外させられている間に、護衛長が本命を持って逃げたのだ。


 良い顔だ。



 ノイルが、すぐに槍へ手をかける。



「兵站区主」



「何です」



「次、あれですよね」



 若い親衛隊長の目は、もう答えを知っている顔だった。



「ええ」



 俺は机の上の、まだ温かい新札を見た。


 家族可。


 兵站区受渡可。


 小児・咳・夜番優先。


 遺族・前線優先。


 全部、今やっと動き始めた札だ。


 ここで王冠通行印を逃がされたら、また遅くなる。


 それは駄目だ。



「列は続けます」



 俺はミレイユとセレスとリンネへ向いた。



「家族便も追給も止めない」


「医療も続ける」


「でも、王冠通行印と黒金便車は今から取り返します」



 ハルバードが、短くうなずく。



「行くぞ」



 それで十分だった。



 王家専用札は外した。


 離宮限定札も、上級優先札も、全部机の上で死んだ。


 だったら次は、


 離宮地下機関線へ潜って、


 黒金便車と王冠通行印そのものを奪えばいい。

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