第90話 正式認可、零号中央庫主になって王都と前線の金・薬・湯を全部回す

 権利は、地下で奪った夜より、朝の列が切れない時のほうが重い。


 湯も。


 薬も。


 遺族金も。


 ちゃんと人の顔を変えたあとで、印が落ちるからだ。



 零号主扉をこじ開けた翌朝。


 王都兵站区の空気は、昨日より少しだけ柔らかかった。


 零号遺族金机には、もう朝から列がある。


 零号照合棚の前にも、毛布と内窓布を見に来る兵と文官がいる。


 兵站浴場西棟一号からは、薬湯の白い湯気が上がっていた。


 悪くない。


 かなりではなく、本当に悪くない。



 朝一番の返札は、母からだった。


 短い。


 だが、かなり良い紙だった。



『昨夜は一度も起きませんでした。

 今朝、妹が自分でパンを取りに行きたいと言いました。

 久しぶりです』



 そこで、少しだけ指が止まる。


 一度も起きなかった。


 それだけで十分だ。


 かなり十分だ。



「兵站区主」



 ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を着たまま覗き込んでくる。



「良いやつですか」



「かなり」



「じゃあよかったです」



 若い親衛隊長のそういう返しは、やっぱり素直でいい。



 その時だった。


 王都兵站区の中央へ、青黒い長机が四つ運び込まれた。


 第一兵站評議席の机だ。


 さらに、印箱。


 巻物箱。


 鍵箱。


 それから、護衛つきでヴァルターまで連れてこられる。


 零号記録保管官の薄灰外套は、今朝はやけに色が悪かった。


 好きな顔だ。



 ハルバードが、机の前で短く言う。



「始める」



 ざわめきが止まる。


 兵も。


 文官も。


 遺族も。


 商人も。


 みんな、零号遺族金机と長机の間で足を止めた。


 いい。


 見られている方が強い。



 机の上へ、全部が並ぶ。


 零号中央庫主簿。


 差止給金箱。


 黒便印箱。


 不存在印箱。


 貴賓浴場割当本帳。


 高位医療給付帳。


 遺族金副帳。


 零号黒便本帳。


 好きな机だ。


 かなり好きだ。


 隠していたものが、全部物の形で並ぶ机はやっぱり強い。



 ベルナールまで来ていた。


 王都兵站商同盟頭は、湯札の列と黒便控え机と長机を見比べて、本気で嫌そうな顔をしている。


 それでいい。



 ハルバードが、最初に零号主簿へ手を置いた。



「零号記録保管官ヴァルター・ゼルム」



 低い声だった。



「不存在印濫用」


「差止給金箱の不正停滞」


「零号黒便の私的優先運用」


「貴賓浴場・零号医療棟の囲い込み」


「主簿焼却未遂」



 一拍置く。



「反論は」



 ヴァルターは、少しだけ唇を動かした。


 だが、結局出てきた言葉は細かった。



「制度保全のためだ」



「制度ですね」



 ハルバードが言う。



「その結果、死んだ兵の家に金が届かず、咳のある子どもが上の湯の外で待たされた」



 第一兵站評議官は、そこで零号遺族金机の列を一度だけ見た。


 喪布の女。


 老父。


 子ども。


 全部、見える。


 そこが強い。



「零号記録保管官ヴァルター・ゼルム」



 また静かになる。



「本日付で解任」



 どっと空気が弾けた。


 兵たちの顔が、明らかに変わる。


 遺族金机の列まで、少しだけ前へ寄る。


 いい。


 こういうのは効く。



 ヴァルターは何も言えなかった。


 だから、さらにやる。



「不存在印箱を置け」



 ハルバードが命じる。



「黒便印箱も」



 零号記録保管官は、露骨に嫌そうな顔をした。


 だが、もう遅い。


 赤い不存在印箱。


 黒い黒便印箱。


 自分の手で、机へ置く。


 かちり、と鳴った。


 良い音だ。


 かなり良い。



 ハルバードは、次に黒便印箱を開いた。


 零号家族便印。


 零号医療便印。


 零号最優先印。


 並んでいるだけで、かなり気分がいい。



「次だ」



 第一兵站評議官が、新しい巻物を開く。



「第一」


「零号中央庫の照合を正式完了と認める」



 ざわめき。



「第二」


「零号黒便室、零号貴賓浴場、零号医療棟、零号照合棚を、王都兵站区の現地運用下へ移す」



 さらに続ける。



「第三」


「差止給金箱、遺族金封、未払手当封の再配分権を、カイル・ルーヴェンへ委任」



 強い。


 かなりではなく、本当に強い。



「第四」


「零号家族便印、零号医療便印、零号最優先印の使用権を、王都兵站区へ認可」



「第五」


「王都兵站区から前線本営への零号黒便試行線を認める」



 いい。


 これだ。


 王都と前線が、つながる。


 ただの地下の便利便じゃない。


 ちゃんと、こっちの線になる。


 かなりいい。



 リンネが、思わずみたいに息を呑んだ。



「……前線まで?」


「見ればわかります」



 俺が答えると、黒便番の女はほんの少しだけ笑った。



「好きです」


「そういうの」



 ハルバードは、まだ終わらない。



「第六」


「零号貴賓湯の一般開放枠を常設化」


「零号医療診札の発行を常設化」


「遺族便・医療便の当面手数料を停止する」



 兵も。


 文官も。


 母親たちも。


 そこで本当に顔を変えた。


 ただの偉い紙じゃない。


 今日の湯と薬と金の話になったからだ。


 それが強い。



 ベルナールが、そこで初めて露骨に顔をしかめた。



「相場が死ぬ」



 小さくそう漏らす。



「良かったですね」



 ミレイユが横から言う。



「遅くて高い方が、やっと本気で困るので」



「商人風情が」



「商人ですので」



 好きだ。


 こういうのは好きだ。



「最後だ」



 ハルバードが、一番厚い巻物を開いた。


 その時点で、もう少しだけ笑いが起きる。


 長い官名の空気だ。



「王都兵站零号中央庫運用統括主幹」



 一拍置く。



「現場では、零号中央庫主でいい」



 王都兵站区が爆ぜた。


 兵。


 文官。


 商人。


 遺族。


 黒便番。


 みんな一度に声を上げる。



「おおっ!」


「零号中央庫主!」


「また上がった!」



 ノイルが一番大きかった。



「零号中央庫主!」



「どうも」



 俺が答えると、若い親衛隊長は本気でうれしそうに笑った。


 悪くない。


 かなり悪くない。



 ハルバードが、今度は鍵箱を開く。



「受け取れ」



 零号主扉主鍵。


 零号主簿庫主鍵。


 零号黒便室主鍵。


 零号医療棟主鍵。


 零号貴賓浴場主鍵。


 差止給金箱主鍵。


 重い。


 どれも、ちゃんと重い。


 湯も。


 薬も。


 金も。


 家への速さも、そのまま鍵になっている重さだ。



 さらに、王都兵站区主印の横へ、もう一つ小印箱が置かれる。


 零号中央庫主印。


 黒い枠。


 中央に箱。


 その上に鍋と車輪と黒便線。


 好きな印だ。


 かなり好きだ。



「兵站区主」



 ノイルが、鍵輪を見て目を丸くする。



「何です」



「めっちゃ増えてます」



「そうですね」



「しかも全部、だいぶ偉そうです」



「偉くなったので」



「そういう問題か……」



 若い親衛隊長のそういう顔は、いつ見ても悪くない。



 そこで終わらせない。


 こういう日は、すぐに生活へ落とす。



「メイナ」



「はい」



「零号医療棟主鍵です」



 若い救護長へ渡す。



「今日から、零号医療棟はあなた管理」


「診札の順番も、寝台の割り振りも、湯の温度もです」



 メイナは鍵の重さを確かめるみたいに、指で鳴らした。



「かなり偉いね」



「責任も増えます」



「薬が切れないなら、悪くない」



「助かります」



 次。



「リンネ」



「はい」



「零号黒便室主鍵」



 黒便番の女が、一歩前へ出る。



「家族便、医療便、最優先便。全部、今日からあなたの帳面へ」


「ただし、前線本営への試行線も足します」



 リンネの目が、はっきり変わった。



「……好きです」



「でしょうね」



「かなり忙しくなる」



「その分、銀貨二枚追加です」



「最高」



 悪くない。


 かなり悪くない。



 最後に。



「ノイル・フェス」



「はい!」



「零号主室前室一号鍵」



 若い親衛隊長は、一瞬だけ固まった。



「……前室」



「零号親衛前室です」



「黒便室、医療棟、主扉階段、全部に顔を出す役です」


「ついでに、夜は主室前で寝ます」



 一拍置く。



「内窓布つきです」



 ノイルの喉が、ごくりと動いた。



「俺のですか」



「今のところは」



「……すごいな」



「見ればわかります」



 若い親衛隊長のそういう顔は、やっぱり良い。


 部屋と鍵と役がそろうと、人は露骨に前を向く。


 そこが好きだ。



 その時だった。


 黒便室から、細い鈴が鳴った。


 リンネが、もう反射みたいに走る。


 すぐに戻ってきた。



「兵站区主!」



「何です」



「南三区!」



 黒箱を開く。


 母からだ。



『今日は一度も咳が出ませんでした。

 妹が、自分でパンを取りに行きました。

 帰ってきてすぐ寝てしまったので、たぶん本当に楽なんだと思います』



 短い。


 だが、十分だ。


 十分すぎる。


 そこで、ようやく胸の奥の何かが少しだけ下りた。



「かなり良いですね」



 ミレイユが静かに言う。



「ええ」



「次は」



「何です」



「家賃だけじゃなく、机も椅子ももう少し良くしましょう」



 商人らしい言い方だ。


 だが、悪くない。



「お願いします」



 俺は答えた。



「ついでに、零号小児診札を常置で」


「黒便医療便は毎夜一本」



「もう書いてます」



 ミレイユは、すでに帳面へ書きつけていた。



 南三区石段裏九

 零号小児診札 常置

 黒便医療便 毎夜

 内窓布交換 冬前もう一度



 いい。


 具体的でいい。


 こういうのは、本当に強い。



 そのあとで、零号主室を開ける。


 主扉の奥。


 主簿庫のさらに横。


 零号中央庫主室。


 広い。


 王都兵站区主室より、さらに広い。


 大机。


 本簿棚。


 黒便用の小投函口。


 薬箱棚。


 それから、奥に小さいが深い浴槽まである。


 かなりいい。


 いや、素直に最高だ。



「……でかい」



 ノイルが、前室の扉から呆然と見ていた。



「ええ」



「机もやばいです」



「あります」



「お風呂まであります」



「あります」



「零号中央庫主、だいぶ偉いですね」



「少しだけです」



「どこがです!?」



 笑いが起きる。


 いい。


 こういう温度は必要だ。



 主室の机へ、まず置く。


 王都兵站区主印。


 零号中央庫主印。


 零号主扉主鍵。


 零号黒便印箱。


 差止給金箱主鍵。


 並べるだけで気分がいい。


 かなり気分がいい。



 その机の一番下の引き出しに、古い黒金の封筒が一つだけ残っていた。


 零号主簿よりさらに奥に入っていた物らしい。


 表題を見る。



 王冠直通供給線照合命



 いい。


 かなりいい。


 いや、良くはない。


 だが、次としては最高だ。



 中を開く。


 薄い地図。


 王都離宮地下庫。


 零号中央庫。


 北方本戦線王冠塔。


 それらを結ぶ、黒金の細い線が一本。


 さらに、下に短く書いてある。



 零号中央庫主は、九日後までに王冠供給線の現況照合を行うこと。



 王都の底は取った。


 だが、その上に、さらに王家だけの速い線がある。


 わかりやすすぎるくらい、次の喉だ。



「兵站区主」



 ノイルが、小さく聞いてくる。



「何です」



「また、すごいやつですか」



「かなり」



「王都の一番奥?」



「たぶん、もっと上です」



 若い親衛隊長は、黒金の地図と俺の顔を見比べて、少しだけ笑った。



「じゃあ次も、行くんですね」



「そうでしょうね」



「……すごいな」



 悪くない。


 その感想は悪くない。



 零号中央庫は取った。


 遺族金も。


 薬も。


 湯も。


 黒便も。


 全部、こっちへ回り始めた。


 母と妹の夜も、ちゃんと少し良くなった。


 だったら次は、


 王家だけが握っていた本当の供給線まで、


 拾いに行けばいい。



 ――第九章・零号中央庫編 了

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