第89話 王都地下決戦、零号主扉をこじ開けて黒便印と差止箱を奪う

 主簿は、閉じた扉の奥で一番人を殺す。


 戦死通知で一度。


 不存在印で二度目だ。


 零号不存在取消机の前には、まだ列が切れていなかった。


 サラが大銀貨を抱え、老父が墓石代を数え、子どもが母の顔を見ている。


 悪くない。


 だが、奥の主簿が逃げれば、今日戻した金は明日また宙に浮く。



「兵站区主」



 ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を着たまま小さく聞いてきた。



「今消した赤印、また戻りますか」



「主簿が奥で生きている限りは」



 若い親衛隊長の顔が、そこで一段だけ硬くなる。



「じゃあ、行きます」



「ええ」



 俺は答えた。



「上は続けてください」



 ミレイユへ向く。



「遺族金机は止めない」


「戻し済みの封は今日のうちに出せるだけ出す」


「黒便が死んでいても、地上急ぎへ流してください」



「好きです」


「そういう指示」



 商人女は、もう帳簿箱を抱え直していた。



「こっちは回します」


「だから、奥の箱だけ取ってきてください」



 メイナにも言う。



「咳診札も止めない」



「わかってる」



 若い救護長は短く答えた。



「上で止まる方が死ぬ」



「助かります」



 ハルバードが、零号不存在取消机を一度だけ見てから言う。



「列は続けろ」



 一拍置く。



「主扉は、俺たちで行く」



 昇降機に乗る。


 俺。


 セレナ。


 ノイル。


 ハルバード。


 リンネ。


 五人だ。


 ちょうどいい。


 王都の石の下へ沈む鎖の音は、昨日より少しだけ重かった。


 零号黒便室の返し鉄路は、本当に止まっていた。


 湯気の匂いはある。


 だが、黒箱の往復音だけが死んでいる。


 その先の通路から、別の音が聞こえた。


 車輪だ。


 重い箱を載せた台車の音だ。



「兵站区主」



 リンネが小さく言う。



「奥で動かしてる」



「主扉の先ですか」



「たぶん」



 黒便番の女は、指で通路の先を示した。



「零号主扉の向こうに、本簿庫と印庫がある」


「普段は、私でも入れない」



 いい。


 それなら、余計に入りたい。


 通路の突き当たりに、主扉はあった。


 高い。


 厚い。


 ただの鉄扉じゃない。


 左右に二本の鎖柱。


 中央に印座。


 その下に、二つの鍵穴。


 そして、扉の前にはもう台車が三台並んでいた。


 差止箱。


 黒い印箱。


 帳簿箱。


 全部、乗せる前提の並びだ。



 その横に、ヴァルター。


 零号記録保管官の薄灰外套が、今日はやけに白く見えた。


 さらに、庫守が四人。


 細剣持ちが二。


 棍棒持ちが二。


 記録番にしては武装が良い。


 好きじゃない。


 だが、わかりやすくていい。



「止まれ」



 ヴァルターが言う。



「ここから先は零号主簿庫だ」


「照合請求の範囲を越えている」



「越えていません」



 俺は答えた。



「不存在印を消した本帳が、今まさにその先へ逃げようとしているので」



 零号記録保管官の目が、ほんの一瞬だけ揺れる。


 いい反応だ。



「副帳の戻しなど仮処理だ」



 ヴァルターが低く言う。



「主簿へ反映しなければ、日跨ぎで全部また沈む」



「知ってます」



 俺は即答した。



「だから来ました」



 ノイルが、小さく息を呑んだ。



「兵站区主」



「何です」



「今の、だいぶ嫌ですね」



「そうですね」



「今日戻した家、また沈むってことですよね」



「主簿が逃げれば」



 若い親衛隊長の目が、一気に冷える。


 良い顔だ。


 怒る場所が、もうきれいに見えている顔だ。



「開けろ」



 ハルバードが短く命じる。



「第一兵站評議席の照合請求だ」



 ヴァルターは首を振った。



「断る」


「本簿庫は上位裁可なしでは」



「だから俺が来た」



 第一兵站評議官の声は低い。



「鍵と印を使え」



 零号記録保管官は、しばらく動かなかった。


 だが、もう台車が並んでいる時点で遅い。


 隠しきれていない。


 仕方なく、男は細い黒鍵を一つ目の鍵穴へ差し込んだ。


 かちり、と鳴る。


 片側だけだ。


 もう一つは開かない。


 予想通りだ。



「印座へ」



 ハルバードが言う。



 王都兵站区主印を押す。


 ぴたり、と噛む。


 だが、扉は半歩しか動かない。


 内側から何かを噛ませている音だ。



「兵站区主」



 リンネがすぐに床を指した。



「内側、台車でつっかえてる」



「見ればわかります」



 扉の下の隙間から、車輪の影が見えていた。


 好きな塞ぎ方だ。


 つまり、台車ごと奪える。



「ノイル」



「はい」



「三つ目の鎖柱、下段の切替棒を」



「どれです」



「黒く擦れてるやつです」



「わかりました!」



 若い親衛隊長が飛ぶ。


 主扉の右柱にしがみつき、下段の棒へ手をかける。


 そこへ庫守の細剣持ちが突っ込んできた。


 速い。


 だが、直線だ。


 セレナが半歩だけ前へ出る。


 槍が一閃する。


 剣を持つ手首のすぐ横を裂いた。


 深くはない。


 だが、十分だ。


 細剣が床へ落ちる。



「触るな」



 副司令の声は短かった。


 重い。


 かなり重い。



 ノイルが切替棒を引く。


 ごん、と鈍い音。


 鎖柱の中で、滑車が動く。


 いい。


 これで荷台を引ける。



 俺は通路脇の補修箱から、鉄楔を二本引き抜いた。


 《野戦工房》を少しだけ流す。


 楔の角度が変わる。


 噛みやすい形になる。



 主扉の隙間へ差し込む。


 押す。


 ごり、と嫌な音。


 扉が少しだけ開く。


 さらに押す。


 もう一歩。


 中が見えた。


 台車だ。


 主簿箱を載せた重い台車が、わざと扉へ斜めに突っ込んである。



「いい」



 思わず口から出た。



「かなりいいです」



「何がだ」



 ガードの棍棒持ちが怒鳴る。



「台車ごと取れるので」



 俺は扉の隙間へ手を入れた。


 熱い。


 主簿箱の鉄帯は冷たいのに、奥の空気だけが乾いて熱い。


 紙焼き槽がある匂いだ。


 好きじゃない。


 だが、喉の位置としては最高だ。



「回せ!」



 俺が言う。



 ノイルが滑車を回す。


 鎖が鳴る。


 つっかえ台車が、ほんの少しだけ手前へ寄る。


 それで十分だった。


 主扉が半身ぶん開く。



 中は広かった。


 高い棚。


 主簿箱列。


 黒い印箱棚。


 差止箱の移送台車。


 それから、奥に赤い炉口。


 やはりだ。


 紙焼き槽だ。


 しかも、その手前の細い鉄路へ、もう黒い箱が二つ載っていた。


 主簿箱と印箱だ。


 燃やす気満々の並びで、好きじゃない。



「止めろ!」



 ヴァルターが初めて本気で怒鳴った。



「炉へ落とせ!」


「本簿と不存在印箱を先だ!」



 庫守が動く。


 台車を押す。


 細剣持ちの残りが前へ出る。


 棍棒持ちも来る。


 良い。


 そういう日は良い。


 どこが一番大事か、向こうが自分で叫んでくれるからだ。



「副司令!」



「わかってる!」



 セレナが主扉の中へ滑り込む。


 狭い。


 だから槍が生きる。


 最初の庫守の肩を払う。


 次の細剣を石床へ縫う。


 庫守は強くない。


 だが、時間は稼げる。


 それが一番面倒だ。



「リンネ!」



「はい!」



「返し鉄路、どっちが生きてる!」



「左!」



「黒箱、乗ってる!」



「三つ!」



 十分だ。


 主簿台車を、炉じゃなく返し鉄路へ食わせればいい。



 俺は主扉の内側へ飛び込み、主簿台車の連結金具へ手をついた。


 《野戦工房》を流す。


 連結具が変形する。


 炉行きの直線から、返し鉄路の横枝へ噛む形へ。



「ノイル!」



「はい!」



「切替棒、二本目!」



「こっちですか!」



「黒便室と同じ音のやつ!」



 若い親衛隊長が、今度は迷わなかった。


 引く。


 高い音。


 返し鉄路の先で、待っていた黒箱三つがぐらりと動く。


 重い。


 だが、下りだ。


 戻ってくる黒箱の重みが、そのまま主簿台車へ噛む。



 ごん、と主簿台車が横へ跳ねた。


 炉行きの細路を外れ、返し鉄路へ斜めに乗る。


 庫守が悲鳴を上げる。



「押せ! 戻せ!」



 ヴァルターが怒鳴る。


 だが遅い。


 黒箱の返りが、本簿台車をまとめて手前へ引いてくる。


 差止箱台車ともぶつかる。


 箱が崩れる。


 封が散る。


 紙が舞う。


 良い。


 最高だ。


 向こうが隠していた物ほど、散る時の音がいい。



 その瞬間、黒い小印箱が一つ、主簿台車の上から滑った。


 零号黒便印だ。


 炉口の縁へ落ちる。


 まずい。


 あれは要る。


 かなり要る。



「ノイル!」



 若い親衛隊長が、ほとんど反射で飛んだ。


 白毛皮の外套が、零号の乾いた空気を裂く。


 石床へ膝をつきながら、炉口の手前へ腕を差し込む。


 熱い。


 だが届く。


 黒い小印箱を掴む。


 転がる前に、本当にぎりぎりで止めた。



「取った!」



 声が少し裏返る。


 だが、上出来だ。


 すごく上出来だ。



「生きてますか!」



「熱いですけど生きてます!」



「それなら十分です!」



 好きなやり取りだ。



 その一拍の間に、ヴァルターは逃げようとした。


 主扉の奥。


 さらに奥の裏階段へ向かう。


 腰には零号主扉の主鍵輪。


 左手には赤い不存在印箱。


 あれもいる。


 逃がすとまた面倒だ。



 俺は床へ散った差止封を踏み越え、細い鉄棍を拾う。


 昨日、工兵から奪った細工具だ。


 短い。


 だが十分だ。



「記録保管官」



 俺は呼ぶ。



「手を離してください」



 ヴァルターが振り向く。


 顔が白い。


 そして、ひどく嫌そうだ。



「嫌だ」



 正直でいい。



「それがあれば、まだ戻せる」



「何をです」



 俺は聞いた。



「死んだことですか」


「遺族金ですか」


「兵の薬ですか」



 零号記録保管官は何も言わなかった。


 だから、もういい。


 俺は鉄棍を投げた。


 狙うのは身体じゃない。


 鍵輪だ。


 腰で鳴る音は、だいたいよく通る。


 鉄棍が、鍵輪へまともに当たる。


 鍵が跳ねる。


 床へ落ちる。


 ヴァルターが反射でそちらを見る。


 その瞬間に、セレナが追いついた。


 槍の石突きが男の膝裏を払う。


 零号記録保管官は、そのまま主簿棚の前へ崩れた。


 不存在印箱が床へ転がる。


 嫌な赤い印面が、こっちを向く。


 好きじゃない。


 だが、今日で終わりにできるなら悪くない。



「ハルバード評議官」



 俺は鍵を拾って差し出した。



「主鍵です」



 第一兵站評議官は、それを受け取ってから、ヴァルターを見下ろした。



「零号記録保管官ヴァルター・ゼルム」


「鍵と印から手を離せ」


「今日ここで、お前はもう"見えない"側に立てない」



 冷たい声だった。


 好きな声だ。


 紙を切る時より、少しだけ人間寄りの声だったからだ。



 主簿台車を止める。


 差止箱も拾う。


 黒便印箱は、ノイルから受け取った。


 熱い。


 だが、ちゃんと重い。


 良い箱だ。



 開ける。


 中には、黒い小印が三つ。


 零号家族便印。


 零号医療便印。


 零号最優先印。


 上のやつだけが使っていた速さが、そのまま並んでいた。


 最高だ。


 かなりどころじゃない。


 素直に最高だ。



「兵站区主」



 リンネが、主簿棚の一番上を指した。



「黒便本帳も」



 見る。


 薄い黒革帳が三冊。


 王都南三区。


 北二区。


 外城東。


 それぞれの到着時刻、受領印、優先札の割込み記録までついている。


 好きだ。


 こういう帳面は好きだ。



 隣には、もっと嫌な帳もあった。


 貴賓湯割当本帳。


 高位医療給付帳。


 存在しないことにしていた湯と薬の配り先だ。


 全部、具体物の名前で書いてある。


 読める。


 すぐ読める。


 それがいい。



 差止箱の中身もざっと見る。


 遺族金封。


 未払手当封。


 不存在印副帳。


 それから、黒い大箱が一つ。


 零号中央庫主扉主簿。


 あからさまだ。


 好きだ。



「兵站区主」



 ノイルが、まだ少し火照った顔で言う。



「これ、全部持って帰るんですか」



「全部です」



「主簿も」


「ええ」



「印も」


「ええ」



「差止箱も」


「見ればわかります」



 若い親衛隊長は、そこで少しだけ笑った。



「すごいな」



「でしょうね」



 悪くない。


 その感想は悪くない。



 上へ戻る前に、ハルバードが主扉の内側を一度だけ見回した。


 紙焼き槽。


 主簿棚。


 黒便鉄路。


 差止箱。


 全部、まだ熱を持っている。


 それが逆に良かった。


 今まで本当に動いていた証拠だからだ。



「兵站区主」



 第一兵站評議官が言う。



「これだけあれば、王都兵站区どころの話では済まん」



「そうですね」



「遺族金も、湯も、薬も、黒便まで握っていた」



「ええ」



「上は嫌がる」



「知っています」



「それでも出すか」



 俺は黒便印箱と差止箱、それから主簿を順に見た。


 遺族金が届く。


 咳が止まる。


 家族へ金が走る。


 それを止めていたのが、ただの地下の棚だと見えた今、答えは一つだ。



「出します」



 そう答えると、評議官はほんの少しだけ口元を動かした。


 笑ったかどうかは、たぶん気のせいだ。


 だが、悪くない気のせいだった。



 昇降機で上へ戻る。


 鎖が鳴る。


 黒便印箱。


 差止箱。


 主簿箱。


 全部、重い。


 良い重さだ。


 人の生活に落ちる重さだ。



 扉が開いた瞬間、王都兵站区の列が一斉にこっちを見る。


 湯札の列。


 遺族金机。


 家族届け札。


 全部が、いま上がってきた箱を見る。


 好きな視線だ。


 かなり好きだ。



「兵站区主!」



 ミレイユが一番早かった。



「どうです」


「かなりです」



 俺は黒便印箱を高く見せる。



「零号家族便印」


「零号医療便印」


「零号最優先印」


「全部あります」



 王都兵站区が、どっと沸いた。



「おおっ!」


「黒便だ!」


「まだ今日走るのか!?」



 遺族金机の列まで、一段だけ前へ寄る。


 強い。


 その反応が、もう答えだ。



 俺はすぐに新しい板を立てた。



 零号家族便札

 本日黒便可


 零号医療便札

 本日黒便可


 零号遺族便

 本日優先



 リンネが、もう黒箱を並べ始めている。


 ノイルも、熱い指を気にする暇もなく宛名札を抱えた。


 ミレイユは黒便控え簿を開く。


 メイナは医療便の小箱を作り始める。


 全部が一気に回り始める。


 いい。


 最高だ。


 主扉はこじ開けた。


 黒便印も取った。


 差止箱も、本簿も、こっちへ来た。


 だったら次は、


 この鍵と印と箱を、


 王都の机の上で正式な権利へ変えるだけでいい。

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