第88話 零号記録官に『不存在』の判を自分で消させ、遺族金を列へ流す
不存在の赤印は、戦死通知より遅く家を冷やす。
金があるのに、帳簿の上で無いことにされるからだ。
昨夜、妹の咳は一度も起きなかった。
だから今朝は、別の家の止まった金を動かす番だった。
王都兵站区の中央には、もう列ができていた。
薄い喪布を巻いた女。
戦死通知を握った老父。
保留札を何度も折り返した未亡人。
その後ろに立つ子どもたち。
顔つきは昨日の兵と同じだ。
待ちすぎて、期待の仕方が下手になった顔だ。
悪くない景色ではない。
だが、見ないふりをしていい景色でもなかった。
「兵站区主」
ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を着たまま小さく言う。
「増えてます」
「そうですね」
「遺族金の人たちです」
「ええ」
「今日、動きますか」
「動かします」
若い親衛隊長は、そこで少しだけ息を吐いた。
良い顔だった。
怒る場所を、もうちゃんと見つけられる顔だ。
その横で、ミレイユはもう板を抱えていた。
「名前、これでいいですか」
板には、太い字でこう書いてある。
零号不存在取消机
「わかりやすいですね」
「見た瞬間、何をされる側の机かわかるので」
「助かります」
長机を二つ並べる。
左に、戦死通知と保留札。
右に、差止給金箱から持ち出した副帳と封。
真ん中に、赤い不存在印の印箱。
さらに、その横へ黒い小印箱を一つ置いた。
存在戻し印。
露骨だ。
だが、こういう日は露骨な方がいい。
ハルバードが、その机の前で短く言った。
「今日ここで、不存在を消す」
青黒い外套の評議官は、いつもより少しだけ声が低かった。
良い声だ。
紙で人を切る前の声じゃない。
今日は、紙で人を戻す側の声だった。
ヴァルターは、その机を見るなり本気で嫌そうな顔をした。
「……ここでやるのか」
「ここでやる」
ハルバードが答える。
「列が見ている前でだ」
「記録処理は公開でするものじゃない」
「不存在にする時は、人目を避けたらしいな」
零号記録保管官は、そこで口をつぐんだ。
それで十分だった。
「赤印箱を机へ」
ハルバードが言う。
「自分の判なら、自分の手で消せ」
ヴァルターはしばらく動かなかった。
だが、兵も文官も遺族も、全部が見ている。
逃げるわけにはいかない。
ついに男は、腰の革箱から赤い印箱を出し、机へ置いた。
かちり、と小さく鳴る。
いい音だ。
「兵站区主」
ノイルが小さく聞いてくる。
「ほんとにやらせるんですね」
「そのための机です」
「だいぶ好きです」
「どうぞ」
最初の封を選ぶ。
表に、きれいな字で名前がある。
第三遠征団工兵アルト・ヘルト遺族金
妻ミナ宛
その右下に、赤い不存在印。
ひどい。
だが、わかりやすい。
「説明を」
俺が聞くと、ヴァルターは不機嫌そうに言った。
「一時処理だ」
「上位再審まで、記録上だけ消しておく」
「封はあるんですね」
「ある」
「金額もある」
「ある」
「宛名もある」
「ある」
一拍置く。
「それで不存在ですか」
零号記録保管官は、返事をしなかった。
良い沈黙だ。
答えにくい時の沈黙は、たいてい喉の場所を教えてくれる。
「ミナ・ヘルト」
ノイルが、初めて名前を呼ぶ。
声がきれいに通った。
前よりずっと良い。
喪布の若い女が、子どもの手を引いて前へ出る。
目の奥が乾いている。
もう何度も、期待して、空振ってきた目だ。
「これですか」
俺が封を見せると、女の喉が見えるくらい強く動いた。
「……それ」
「夫の名前です」
「本人確認を」
ハルバードが言う。
戦死通知と保留札を並べる。
部隊番号。
配偶者名。
全部合う。
そこで、俺はヴァルターへ向いた。
「消してください」
「……」
「今です」
零号記録保管官は、露骨に顔をしかめた。
だが、やるしかない。
赤い不存在印へ、ペンで二重線を引く。
その上から、黒い字で書く。
存在確認済
さらに、存在戻し印。
最後に、ヴァルター自身の署名。
硬い音がした。
紙が、人一人ぶん戻る音だ。
「受領を」
ミナは、震える手で自分の名前を書いた。
封を開ける。
大銀貨一枚。
銀貨二枚。
銅貨九枚。
それを見た瞬間、女の顔が崩れた。
「……これで、棺屋の借りが返せる」
短い。
だが十分だった。
後ろの子どもは、銀貨じゃなく母の顔を見ていた。
それでいい。
十分にいい。
ざわめきが広がる。
列の後ろまで、はっきり広がる。
「本当に出た」
「赤印を消したら出るのか」
「今まで何だったんだ……」
兵たちの顔まで変わっていた。
湯札の列の兵も。
見える箱札を握っていた文官も。
みんな、遺族金机を見る顔になっている。
そこへ金が届くなら、自分の先も少しはましになるとわかるからだ。
「次」
ノイルの声が、もう一段だけ強くなる。
「老父ボル・エイン!」
白髪の男が一歩前へ出た。
手は震えている。
だが、目だけは強い。
「息子ルフト」
老人が言う。
「掘削班だ」
封を出す。
ここにも赤い不存在印。
ヴァルターの手つきが、さっきより明らかに荒い。
いい。
自分の判を消すのは、やはり気分が悪いらしい。
気に入った。
「存在確認済」
また書かせる。
署名も。
老人は受領簿へ指印を押し、封を開けた。
「銀貨八枚。
埋葬補助、銀貨二枚。
冬期炭代、銀貨一枚」
老父ボルは、銀貨を一つだけ持ち上げて言った。
「これで墓石が立つ」
いい。
ひどくいい一言だった。
次。
次。
次。
未亡人。
老母。
弟。
腕のない代行人。
それぞれの家へ、本来行くはずだった金が戻っていく。
そのたびに、ヴァルターは赤印へ二重線を引く。
存在確認済と書く。
戻し印を押す。
署名する。
繰り返しだ。
繰り返すほど、見ている方は気持ちいい。
かなりではない。
本当に気持ちいい。
「兵站区主」
ノイルが、小さく言う。
「人一人を消すのって、こんなに軽いんですね」
「軽いですね」
「戻すのも、紙一枚なんですね」
「今日のところは」
「……最低です」
「その通りです」
ミレイユは、そこで別の板を立てた。
本日戻し済
遺族金封 六
埋葬補助 四
冬期炭代 五
露骨だ。
だが、見せた方がいい。
数字になると、人は現実として飲み込みやすくなる。
ハルバードも、その板だけは止めなかった。
むしろ一度、静かにうなずいたくらいだ。
「兵站区主」
ミレイユが言う。
「これ、増えます」
「どのくらいです」
「兵の顔が変わるくらい」
その予想は正しかった。
遺族金机の列を見ていた若い兵が、ぽつりと言ったのだ。
「……ここなら、俺が死んでも家に届くのか」
空気が止まる。
強い問いだ。
軽く返すと嘘になる。
「届かせます」
俺は答えた。
「死なない方がいいですが」
少しだけ笑いが戻る。
それで十分だ。
兵の顔が、前より一段だけこっちへ寄る。
死んだ後の話でさえ、こっちの方がましだと理解した顔だ。
ここは強い。
ヴァルターは、十通目を消したところで、ついに言った。
「全部やったら夜になる」
「全部です」
ハルバードが即答する。
「今日は列の前でやる」
「本帳が追いつかん」
「追いつかせろ」
零号記録保管官の喉が、目に見えて詰まる。
そこで、俺は副帳の一番後ろをめくった。
赤印つきのまとめ頁だ。
不存在移送済
主簿反映待ち
その右下に、小さく記号がある。
零主。
主扉の記号だ。
「これですか」
俺が指で叩くと、ヴァルターの目が一瞬だけ揺れた。
「主簿って」
零号記録保管官は返事をしない。
「どこにあります」
「……零号主扉の奥だ」
ついに言った。
良い。
すごく良い。
列の後ろにいた文官まで、その言葉で顔を上げた。
「副帳からは消せる」
ヴァルターが、吐き捨てるように言う。
「だが、本帳に戻さなければ仮戻しだ」
「明日の棚卸で、主簿へ反映しなければまた宙に浮く」
なるほど。
気持ちの悪い仕組みだ。
だからここで止めていたのだろう。
副帳では出せる。
だが、本帳が奥で握っている。
好きじゃない。
だが、喉の場所としては最高だ。
「ハルバード評議官」
俺は向いた。
「聞きましたね」
「聞いた」
第一兵站評議官の目が、冷たく細くなる。
「主簿があるなら、照合はそこまで行う」
その時だった。
階段口の方から、細い鈴が鳴った。
黒便室の音だ。
リンネが息を切らして駆け上がってくる。
黒い前掛けの若い女は、今日は顔色が悪かった。
「兵站区主!」
「何です」
「下で台車音!」
全員の視線がそちらへ向く。
「零号主扉の前に、箱が寄ってる!」
「黒便室の返し鉄路も止まった!」
「誰かが主簿と印箱を奥へ移してる!」
いい。
かなりいい。
いや、状況としては最悪だが、次の獲物としては最高だ。
ヴァルターの顔が、そこで完全に白くなった。
「……違う」
「何がです」
俺が聞くと、零号記録保管官は何も言えなかった。
遅い。
もう顔が全部答えている。
「主扉の奥ですね」
ノイルが、小さく言う。
「ええ」
俺は答えた。
「今夜の本命は」
若い親衛隊長の目が、さっきまでと違う熱を持った。
湯や銀貨の熱じゃない。
喉元が見えた時の熱だ。
「兵站区主」
「何です」
「それ、逃がしちゃ駄目ですよね」
「その通りです」
ハルバードが、短く命じる。
「列は続けろ」
そして俺たちへ向く。
「主扉へ行くぞ」
遺族金机の上では、まだ赤印が消され続けている。
金は動いている。
列も切れていない。
だが、奥では本帳と印箱が逃げようとしている。
だったら次は、一つしかない。
零号中央庫の主扉をこじ開けて、
黒便印と差止箱ごと、
まとめて拾えばいい。
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