第87話 未払い遺族箱、死んだ兵の家へ金が走る

 遺族金は、箱に入っている時がいちばん腐っている。


 死んだ兵にはもう使えない。


 だから、残された家へ届いて初めて金になる。



 王都兵站区の昼は、朝より少しだけ静かだった。


 零号照合棚の前にいた兵たちが、今度は別の列へ流れていたからだ。


 戦死通知。


 保留札。


 折れた封筒。


 そういう紙を握った女や老人が、石畳の端で立ち尽くしている。


 悪くない景色ではない。


 だが、見ないふりをする景色でもない。



「兵站区主」



 ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を着たまま小さく言う。



「……増えてます」



「そうですね」



「遺族金の人たち」



「ええ」



「見てると、ちょっと腹に来ます」



「正常です」



 若い親衛隊長の顔は、昨日よりずっと良かった。


 だからこそ、こういう顔もちゃんとできる。


 悪くない。


 相当悪くない。



 サラが、子どもの手を引いて前へ出る。


 薄い喪布。


 何度も折りたたまれた戦死通知。


 それから、擦り切れた保留札。


 その札の字は、差止給金箱庫で見たものとまったく同じだった。



「兵站区主」



 女が言う。



「……あるんですか」



「あります」



 俺は答えた。



「見ました」



「じゃあ」



 喉が詰まるみたいに言う。



「今日、動きますか」



 そこで、少しだけ息を吸う。


 紙ではなく、今日の仕事として答えるために。



「動かします」



 言い切る。


 それで十分だった。


 サラの肩が、ほんの少しだけ下がる。



「評議官」



 俺はハルバードへ向いた。



「差止給金箱庫を、今からもう一度開けます」



 第一兵站評議官は、遺族の列を順に見た。


 戦死通知。


 保留札。


 痩せた子ども。


 全部、昨日より露骨だった。



「理由は十分だな」



 低い声で言う。



「ヴァルター、開けろ」



 零号記録保管官は、本気で厄介そうな顔をした。



「評議官」


「遺族金は、上位審査中の箱も多い」


「全放出は――」



「全放出しない」



 俺は遮った。



「今日いる家からです」


「今日ここへ来ている家の分だけ、まず動かす」



 ヴァルターは何か言い返そうとした。


 だが、サラの後ろにいた老女が、くしゃくしゃの紙を高く上げた。



「息子のだ」



 短い声だった。



「もう半年待った」



 それだけで十分だった。


 零号記録保管官の言葉は、そこで止まる。



 昇降機が下りる。


 鎖が鳴る。


 王都の石の下の、温くて薬草臭い通路へ。


 貴賓浴場。


 零号黒便室。


 高位医療箱棚。


 その並びの先にある、差止給金箱庫の扉をまた開ける。


 重い音だった。


 今日の音は、昨日より少しだけ気分がいい。



 棚はまだ並んでいる。


 北辺第二砦 未払。


 第三遠征団遺族金 保留。


 前線工兵手当 差止。


 冬期追加炭代 不存在処理済。


 嫌な札だ。


 だが、今日はいちいち読んでやる。



「兵站区主」



 ノイルが、小さく言う。



「どれですか」



「第三遠征団遺族金です」



 差止給金箱庫副鍵を差し込む。


 箱は三つあった。


 一つ目は鉄縁の細箱。


 二つ目は深い木箱。


 三つ目は、封蝋のやけに多い小箱だ。


 まず一つ目を開ける。


 中には、銀袋ではなく薄い封が並んでいた。


 宛名つきだ。


 家ごとに束ねられている。


 いい。


 かなりいい。


 そして、かなり悪い。



【《野戦工房》起動】

【資材を認識します】


【第三遠征団遺族金封 十九】

【埋葬料返戻封 七】

【冬期炭代補助封 十一】

【遺族照合帳 一】

【不存在印付副帳 一】



 上出来だ。


 つまり、金は「まだ処理していない」のではない。


 もう、配る形まで作って止めていた。


 それがいちばんひどい。



「……最低ですね」



 ミレイユが、珍しく笑わずに言った。



「そうですね」



「待っていた家に、届かなかったんじゃなくて」


「止めていたんですね」



「ええ」



 ハルバードが、そこで初めて箱の中の一通を手に取った。


 第一兵站評議官の指が止まる。


 封の表には、きれいな字でこうあった。



 第三遠征団歩兵マルク・サーン遺族金

 妻サラ宛



 その下に、小さく金額。



 大銀貨一枚

 銀貨三枚

 銅貨八枚



 十分だ。


 喪家にとっては、十分すぎる。


 炭が買える。


 薬も買える。


 家賃も少し持つ。



「これです」



 俺は言った。



「今日、上へ持っていくのは」



 ヴァルターが、そこでようやく口を開く。



「照合が要る」


「遺族本人確認も」


「受領印も」



「やります」



 俺は即答した。



「だから机が要るんです」



 いい顔だ。


 気に入った。


 記録保管官のくせに、やることを自分で口にした。


 だったら全部やらせればいい。



 二つ目の箱も開ける。


 こちらは未亡人だけじゃない。


 老親宛。


 弟妹宛。


 親権代行宛。


 いろんな名義が混じっていた。


 戦争の後ろ側だ。


 好きではない。


 だが、見えた方がいい。



 三つ目の小箱には、金じゃなく印が入っていた。


 差止印。


 不存在印。


 保留印。


 全部、黒赤い。


 机の上で人を殺す印だ。


 かなり嫌な箱だった。



「兵站区主」



 ノイルが、その印箱を見て顔をしかめる。



「これ、押すために残してたんですか」



「そうでしょうね」



「金より嫌です」



「正常です」



 ハルバードが、その印箱を一度だけ見てから言った。



「上へ持て」


「封と帳だけでいい」


「印は残せ」



 残す。


 それでいい。


 今日の主役は印じゃない。


 まずは金だ。



 上へ戻る。


 王都兵站区の中央へ、長机を二つ出す。


 ひとつは受領机。


 もうひとつは遺族便机だ。


 ノイルが、板を抱えて先に走った。



 零号遺族金机


 手数料なし

 本人確認優先

 黒便・地上急ぎ対応



 いい板だ。


 短い。


 だが、よく効く。



「兵站区主」



 ミレイユが、帳簿箱を抱えたまま言う。



「今日は商売じゃないですね」



「半分は」



「残り半分は?」



「今後の信用です」



「好きです」


「そういう順番」



 彼女はすぐに、受領控え簿と黒便控え簿を並べた。


 さらに、受領札を書く若い書記まで呼び寄せる。


 早い。


 やっぱりこの女は早い。



 最初に名前を呼んだのは、ノイルだった。


 若い親衛隊長の声は、昨日までより少しだけ低くなっていた。



「サラ・サーン」



 サラが前へ出る。


 子どもの手を、強く握ったままだ。


 俺は封を一通、机へ置いた。


 薄い。


 だが、中は重い。



「第三遠征団歩兵マルク・サーン遺族金」



 一語ずつ読む。



「大銀貨一枚」


「銀貨三枚」


「銅貨八枚」



 サラの喉が動く。


 子どもは、銀貨の音ではなく母の顔を見ていた。



「本人確認を」



 ハルバードが言う。


 冷たい。


 だが、今日はその冷たさが必要だ。


 戦死通知と保留札を並べる。


 宛名。


 部隊番号。


 配偶者名。


 全部合う。



「受領を」



 ペンを出す。


 サラは、震える手で自分の名を書いた。


 そのあとで、ようやく金を抱える。


 大銀貨一枚。


 銀貨三枚。


 銅貨八枚。


 音がした。


 とても生々しい音だった。



「……これで」



 サラが言う。



「炭が買える」



 短い。


 だが十分だ。



「靴も」


 後ろの子どもが、小さく言った。


 それで、サラは泣いた。


 声を上げない泣き方だ。


 良いとか悪いとかじゃない。


 ただ、遅すぎた金が今届いた泣き方だった。



 次。


 老母エネア。


 息子ルフト戦死。


 銀貨八枚。


 埋葬料返戻、銀貨二枚。


 冬期炭代補助、銀貨一枚。


 老女は、金より先に戦死通知へ手を置いた。


 それから、受領簿へ指印を押す。


 最後に、銀貨をひとつだけ持ち上げて言った。



「これで墓石が立つ」



 そこもまた強かった。


 兵たちが、そこで本当に静かになった。



 次。


 片腕のない男が持ってきた、戦死した弟の保留札。


 妻は病で来られない。


 だから代行だ。


 黒便へ回す。


 受領先は外城東。


 ミレイユがすぐに黒便控えを書き始める。



「遺族便は手数料なしです」



 彼女が言う。



「今日は、そこから取る日じゃないので」



「珍しいですね」



 俺が言うと、商人女は鼻先で笑う。



「今日ここで遺族金が動いた方が、明日から兵も文官もこっちを信じるでしょう」



「その通りです」



「だから安いんです」


「今日は」



 悪くない。


 やっぱり悪くない。



 黒便番リンネが、黒箱を三つ並べる。


 王都北二区。


 外城東。


 南三区。


 遺族便専用の小札まで差した。



「兵站区主」



 黒便番が小さく言う。



「こういう箱、上の人間は好きじゃないです」



「何でです」



「死んだ家に金が届くと、生きてる兵の顔が変わるから」



 上出来だ。


 言葉として、かなり上出来だ。



 実際、変わっていた。


 王都兵たちの顔が。


 湯札を握っていた兵も。


 薬湯札を切った文官も。


 みんな、遺族金机を見ている。


 そこへ金が届くかどうかは、自分の先の話でもあるからだ。



「兵站区主」



 北巡回帰りのあの騎兵が、低く言った。



「ここなら、死んでも家に届くのか」



 ざわめきが止まる。


 強い問いだった。


 答え方を間違えると軽くなる。



「届かせます」



 俺は答えた。



「死なない方がいいですけど」



 そこで少しだけ笑いが戻る。


 いい。


 重くしすぎない方が長く効く。



 だが、その兵は真面目な顔のままだった。



「それだけで、だいぶ違う」



 短く、そう言った。


 十分だ。


 かなり十分だ。



 受領は続く。


 封が開くたびに、紙の上で止まっていた金が動く。


 炭になる。


 薬になる。


 墓石になる。


 靴になる。


 鍋になる。


 ちゃんと生活に落ちる。


 そのたび、王都兵站区の空気が少しずつ変わっていく。


 兵の顔が変わる。


 文官の目も変わる。


 商人まで、少しだけ黙る。


 こういう日は、金が一番よく喋る。



 ノイルは、名前を呼ぶたびに声が少しずつ通るようになっていた。



「次、外城東!」


「次、北二区!」


「遺族便の方、こっちです!」



 若い親衛隊長のそういう声は、悪くない。


 見送るだけじゃなく、ちゃんと渡す側の声だ。



 その時だった。


 受領机の横で、ミレイユの手が止まる。


 封を一通めくったところで、商人女の顔つきが変わった。



「兵站区主」



「何です」



「これ、止まってます」



 見る。


 封の表には名前がある。


 金額もある。


 だが、受領台帳の該当欄には、赤い印が押されていた。



 不存在



 嫌な字だ。


 差止でも保留でもない。


 存在しないことにする印だ。


 ひどい。



「でも封はあるんですね」



 ノイルが言う。



「ええ」



「名前も金もあるのに?」



「そうです」



 悪質だ。


 かなり悪質だ。


 今日配った他の封にも、同じ印が混じっている可能性がある。



 ハルバードが、その副帳を引き寄せた。


 赤い不存在印。


 押したのはヴァルターの棚だろう。


 第一兵站評議官の顔が、また一段だけ硬くなる。



「記録保管官を呼べ」



 低い声だった。



 ヴァルターが来る。


 相変わらず薄灰の外套のまま。


 だが、零号遺族金机の列を見た瞬間に、少しだけ足が止まった。


 ここまで人が集まるとは思っていなかった顔だ。


 気に入った。



「説明しろ」



 ハルバードが、副帳を指で叩く。



「封はある」


「金額もある」


「宛名もある」


「なのに不存在印とは何だ」



 ヴァルターは、そこでようやく言い訳を出した。



「一時処理だ」


「上位再審まで、帳簿上だけ消しておく」



「何のために」



 俺が聞くと、零号記録保管官は黙った。


 いい。


 答えにくい時の沈黙だ。



「兵站区主」



 ミレイユが、小さく言う。



「次ですね」



「ええ」



 俺は赤い不存在印を指先で弾いた。


 硬い。


 そして、ひどく軽い。



「金は動かしました」



 俺は言う。



「でも、帳簿の上ではまだ死んだままです」



 ノイルが、その赤い印を睨んだまま言った。



「これ、消したいですね」



「そうですね」



「かなり」



 若い親衛隊長のその顔は、昨日までよりずっと良かった。


 怒るべき場所が、ちゃんと見えている顔だ。



 零号遺族金机では、まだ受領が続いている。


 死んだ兵の家へ、金が走る。


 王都兵の顔が変わる。


 家族の夜が少し変わる。


 だが、帳簿はまだ追いついていない。


 だったら次は、ひとつしかない。



 不存在の赤印を、


 あの記録保管官自身の手で消させればいい。

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