第81話 零号中央庫の呼び出し、昇降機と貴賓浴場の鍵が出る

 無いことにされた物は、たいてい地下へ落ちる。


 金も。


 薬も。


 湯もだ。


 帳簿から消えた物ほど、だいたい上等に残る。



 王都兵站区が常設になった翌朝。


 最初に届いた家族届け札の返りは、母からだった。


 短い。


 だが、十分にいい紙だった。


『扉はちゃんと閉まります。炭の減りも前の部屋より遅いです。妹は夜明け前に少しだけ咳をしましたが、前よりずっと眠れています』


 上出来だ。


 部屋は効いている。


 だが、まだ足りない。


 咳が残るなら、薬か湯の質をもう一段上げたい。


 ちょうどいいところへ、昨日の黒封筒が机の端で待っていた。


 零号中央庫照合請求。


 王都兵站区主カイル・ルーヴェン。


 本日午前、第七码場地下昇降口へ出頭。


 同伴三名まで。


 わかりやすい。


 かなりではなく、露骨にいい呼び出しだ。



「兵站区主」



 ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を着たまま送金机の列を眺めている。



「何です」



「今日は何を取るんですか」



「無いことにされた倉です」



「嫌な言い方ですね」



「高い物ほど、そういう場所へ入るので」



「……王都っぽいです」



 若い親衛隊長は、妙に納得した顔でうなずいた。


 悪くない。


 だいぶ悪くない。



 ミレイユは、もう黒封筒の写しを見終えていた。


 帳簿箱を抱えたまま、口元だけ少し上げる。



「零号、ですか」



「知ってますか」



「商人は、帳簿にない棚ほど好きなんですよ」



「理由は」



「そこへ上等な物が溜まるからです」



 好きな答えだ。


 かなり好きだ。



 セレナは、王都兵站区の朝列を一度だけ見てから言った。



「私は行く」



「護衛なので」



「違う」



 副司令は短く言う。



「こういう地下倉は、上で紙が勝っても、下で槍が出る」



「助かります」



「ノイルも連れていけ」



「俺もですか!?」



 若い親衛隊長の声が少しだけ裏返る。



「主車と寝台札はルッツに預ける」



 セレナが言う。



「今日はお前の目も要る」



「……わかりました」



 一拍置いて、ノイルは少しだけ胸を張った。



「地下手当、出ますか」



「出します」



 俺は即答した。



「零号照合手当、銀貨一枚」



「やります」



 早い。


 いい返事だ。



 ミレイユが、横であきれたように笑う。



「あなた、こういう時でもそこなんですね」



「生活がかかっているので」



「知っています」



 王都兵站区主室を出る前に、ルッツへ机を渡す。


 湯札。


 寝台札。


 見える箱札。


 家族届け札。


 全部、いつもの列だ。



「半刻で戻りますか」



 ルッツが聞く。



「戻らなければ、昼からはお前の声で回してください」



「受入副官だけじゃなく、王都の呼び込みまでか」



「手当は出します」



「ならやる」



 助かる。


 そういう男は本当に助かる。



 第七码場地下昇降口は、王都兵站区の西端、兵站浴場西棟のさらに裏にあった。


 石畳の角。


 古い倉壁。


 表から見れば、ただの薪置き場にしか見えない。


 だが、床石の継ぎが違う。


 重い物を上下させるための線だ。


 そして、そこに立っていた男の顔も、いかにも倉庫の顔だった。


 薄灰の外套。


 細い体。


 髪も眉も色が薄い。


 指だけが白くて、乾いている。


 笑わない目だ。


 零号記録保管官ヴァルター・ゼルム。


 名乗る前から、そういう顔だった。



「前線本営主カイル・ルーヴェン」



 男は、こっちを見るより先に印章を見た。



「違います」



 俺は答えた。



「今日は王都兵站区主です」



 ヴァルターの目が、ほんの少しだけ細くなる。



「どちらでもいい」



「よくありません」



 一歩遅れて、ハルバードが石段を下りてきた。


 第一兵站評議官は、今日も青黒い外套のままだ。


 だが、昨日より少しだけ眠そうだった。



「よくある」



 彼は短く言った。



「零号では、肩書きの違いは面倒になる」



「なら、今日は王都兵站区主で」



 俺が返すと、評議官はほんの少しだけ口元を動かした。


 笑ったかもしれない。


 たぶん気のせいだ。



「同伴は」



 ハルバードが聞く。



「副司令セレナ、親衛隊長ノイル、ロスタ商会買付人ミレイユ」



「多い」



 ヴァルターが即座に言う。



「零号は記録庫だ。商人を入れる場所ではない」



「契約と価格が絡むなら、商人の目は要る」



 ハルバードが遮る。



「それに、昨日からお前の上は"物はない"と言い切れていない」



 ヴァルターは何も言わなかった。


 だが、その沈黙は上出来だった。


 少なくとも、物はある。



 昇降口の鉄扉は二重だった。


 外側が倉庫風の板扉。


 内側が、もっと厚い鉄扉。


 その横に、小さな制御箱がある。


 ヴァルターはそこへ細い黒鍵を差し込んだ。


 かちり、と鳴る。


 だが、俺の目はそこじゃない。


 制御箱の下に、もう一つ小さな点検蓋がある。


 鍵穴が二つ。


 しかも、片方は最近磨耗している。


 よく使われた鍵の削れ方だ。


 記録庫の昇降口にしては、少しだけ熱い。



「兵站区主」



 ノイルが小声で言う。



「何かありますか」



「石鹸の匂いがします」



「地下なのに?」



「だからです」



 ミレイユも、すぐ気づいたらしい。



「あと、温いですね」



 商人女は床石に視線を落とす。



「湯路が下を通ってる」



「記録庫にしては贅沢です」



 セレナが低く言った。



「倉庫じゃなく、他にも何かあるな」



 ヴァルターの肩が、そこでほんの少しだけ動いた。


 いい反応だ。


 かなりいい。



「その点検蓋も開けてください」



 俺が言うと、零号記録保管官はすぐに首を振った。



「不要だ」


「昇降機の制御には関係ない」



「関係あります」



 俺は答える。



「鍵穴が二つあるので」



「整備用だ」



「最近使ってますね」



 床の温度。


 鍵穴の削れ。


 石鹸と湯気の匂い。


 十分だ。


 ハルバードが、そこで初めてヴァルターをまっすぐ見た。



「開けろ」



 短い。


 だが、重かった。



「第一兵站評議席の照合請求だ」



 ヴァルターは露骨に嫌そうな顔をした。


 だが、逆らえない。


 仕方なく、腰の鍵輪を外す。


 細い銀鍵。


 それを点検蓋の左へ差し込んだ。


 右は合わない。


 そこで男の手が一瞬止まる。


 やはりだ。



「右も」



 俺が言うと、ヴァルターは無言で別の鍵を探した。


 だが、出ない。


 ないのだ。


 隠しているのか、持っていないのかはわからない。


 どちらでもいい。


 開ければいいだけだ。



「兵站区主印、借ります」



 俺はハルバードへ言った。



「使え」



 王都兵站区主印を、右の印座へ押す。


 ぴたり、と噛んだ。


 点検蓋が、低い音を立てて半歩だけ開く。



「……は?」



 ヴァルターの顔が初めて本気で崩れた。


 好きな顔だ。



「現場の区画印でも開くんですね」



 ミレイユが言う。



「上は知らなかったのかも」



 中には、細い真鍮棒と小箱が入っていた。


 小箱を開く。


 きれいに並んだ鍵札が出る。



 零号昇降機起動鍵

 貴賓浴場北鍵

 差止箱庫副鍵

 零号黒便受箱鍵



 いい。


 かなりではなく、本当にいい。


 ノイルが、思わず本音で言った。



「……うわ」



「静かに」



 セレナが言う。



「気持ちはわかる」



 若い親衛隊長は、こくこくと何度も頷いた。



「兵站区主」



「何です」



「貴賓浴場って、上の人のやつですよね」



「そう書いてあります」



「地下にあるんですか」



「そのようです」



「すごいな……」



 ミレイユが、貴賓浴場北鍵を見たまま小さく息を吐いた。



「これ、かなり高いですよ」



「まずは見ます」



「その返しは好きです」



 よろしい。


 その言い方は悪くない。



 さらに、小箱の底に薄い帳面が一冊あった。


 零号昇降記録。


 開く。


 数字は短い。


 だが、内容は濃い。



 暖房石補充 昨日

 湯瓶搬入 二日前

 肉缶棚替 三日前

 差止箱移送 今朝



 死んでいない。


 それどころか、かなり動いている。


 上出来だ。


 零号は“無いことにされた倉”どころじゃない。


 現役の、かなり上等な地下だ。



「差止箱って何です」



 ノイルが聞く。



「たぶん」



 俺は帳面の頁を閉じた。



「止めた金か、止めた荷です」



「嫌ですね」



「そうですね」



 ハルバードが、そこで初めてはっきりと嫌そうな顔をした。


 評議官のそういう顔は珍しい。


 良いものを見た。



「降りるぞ」



 彼は短く言う。



「今のうちに見ておきたい」



 昇降機籠は、思っていたより大きかった。


 四人乗りじゃない。


 荷箱を下ろすための広さだ。


 床は鉄格子。


 側面は木と鉄。


 鎖が太い。


 かなり重い物を上下させている籠だ。


 その時点で、だいぶ気分がいい。



「零号照合手当、ここで払います」



 俺が言うと、ノイルが目を丸くする。



「今ですか」



「地下で逃げられると困るので」



「そういう理由なんですね」



「そういう理由です」



 銀貨一枚を渡す。


 若い親衛隊長は、まじまじと見てから腰袋へ入れた。



「ありがとうございます」



「生きて戻ってください」



「はい」



 セレナは何も言わなかった。


 だが、銀貨を受け取ってすぐに外套の内側へ入れる。


 良い動きだ。


 ミレイユは、銀貨より先に零号黒便受箱鍵の方を見ていた。



「商人ですね」



 俺が言うと、彼女は平然と返す。



「速さの匂いがするので」



「その通りです」



 昇降機が、きしりと鳴る。


 鎖が回る。


 ゆっくりと、下へ落ちていく。


 王都の石の下。


 区画のさらに下。


 無いことにされた物の底へだ。


 暗い。


 だが、冷たくはない。


 途中で、はっきりわかるくらい空気が変わった。


 温い。


 石鹸。


 薬草。


 それから、肉を煮た時の濃い匂いまで混じる。



「兵站区主」



 ノイルが、かなり小さな声で言う。



「地下なのに、上よりいい匂いします」



「そうですね」



「嫌な予感しかしません」



「同感です」



 昇降機が止まる。


 ごん、と低い音。


 扉が開いた。


 目の前にあったのは、ただの倉じゃなかった。


 石床。


 磨かれた真鍮灯。


 白い湯気の流れる細い通路。


 左右の壁には、扉と札が並んでいる。



 貴賓浴場

 差止給金箱庫

 零号黒便室

 高位医療箱棚



 その奥。


 通路の先の棚には、見えただけでも山ほど箱が積まれていた。


 薬箱。


 肉缶。


 毛布束。


 暖房石箱。


 しかも、どれも最近動かした跡がある。


 車輪痕。


 湯の滴。


 新しい靴跡。


 全部、まだ生きている。



 いい。


 かなりではなく、最高だ。



 だったら次は、


 帳簿から消された肉と薬と毛布を、


 山のまま数えていけばいい。

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