第82話 零号中央庫、帳簿から消された肉と薬と毛布が山で出る
無いことにされた物ほど、数えた時の手応えがいい。
腹と熱に直結する物なら、なおさらだ。
昇降機の扉が開いた先は、ただの地下倉じゃなかった。
石床は乾いている。
壁には真鍮灯。
空気は温い。
しかも、薬草と石鹸と煮た肉の匂いまで混じっていた。
嫌な予感しかしない。
だが、そういう時ほど当たりは大きい。
「零号中央庫だ」
ヴァルターが言う。
薄灰の外套の男は、相変わらず嫌そうな顔だった。
「照合だけだぞ」
「持ち出しは認めていない」
「今のところは」
俺は答えた。
「まず数えます」
通路の左右には、扉と棚が並んでいた。
貴賓浴場。
差止給金箱庫。
零号黒便室。
高位医療箱棚。
どれも名前が露骨だ。
好きだ。
こういう地下は、隠してるくせに札だけは正直だから好きだ。
ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套の襟を握ったまま呟く。
「兵站区主」
「何です」
「上より、こっちの方があったかいです」
「そうですね」
「ちょっと腹立ちます」
「正常です」
最初の棚へ寄る。
高位医療箱棚。
木箱の角は新しい。
札も新しい。
最近まで動かしていた顔だ。
《野戦工房》を流す。
【《野戦工房》起動】
【資材を認識します】
【高位医療箱 十二】
【薬湯塩箱 十七】
【肉缶箱 二十四】
【乾燥果実箱 十八】
【毛布束 七十三】
【内窓布巻 四十】
【暖房石箱 九十一】
【差止給金箱 十一】
いい。
かなりいい。
いや、素直に最高だ。
「……うわ」
ノイルの声が、また素になった。
「静かに」
セレナが言う。
「気持ちはわかる」
高位医療箱を一つ開ける。
中は、上等だった。
薄青の熱冷まし。
黒い咳止め滴。
凍傷油。
火傷用の塗り薬。
包帯も、前線で見たやつよりずっと白い。
メイナがいたら飛びつく箱だ。
いや、俺だってかなり飛びつきたい。
「兵站区主」
ミレイユが、箱の中身を見たまま言う。
「これ、今日の列が変わりますね」
「どのくらいです」
「兵だけじゃなく、文官と家族持ちが寄ってきます」
「咳止めが見えてるので」
「商人ですね」
「知っています」
次に、肉缶箱を開ける。
丸い缶だ。
王都の上等な保存食。
しかも、ただの肉じゃない。
塩肉。
脂入り。
香草まで入っている。
横の乾燥果実箱には、干し杏と黒葡萄まであった。
「これ、兵に出していいんですか」
ノイルが聞く。
「よくない顔してますよ、保管官さん」
たしかに、ヴァルターの顔はひどかった。
「そこは貴賓用だ」
零号記録保管官が言う。
「勝手に開けるな」
「照合です」
俺は答えた。
「閉めたままじゃ数えにくいので」
さらに、毛布束。
分厚い。
軽くない。
冬の夜に欲しい重さだ。
内窓布まで巻いてある。
王都南三区の部屋へそのまま持っていきたいくらい、良い布だった。
思わず、母からの紙を思い出す。
鍵が閉まる。
炭の減りが遅い。
でも、咳はまだ少し残る。
この毛布と内窓布なら、かなり違う。
「兵站区主」
ノイルが、毛布束を見上げたまま言う。
「これ、兵に配ったら顔変わりますね」
「そうですね」
「あと、子どもにも」
「ええ」
「かなり強いですね」
「かなりです」
その時だった。
セレナが、通路の一番奥の鉄箱列を見て足を止めた。
「こっちだ」
差止給金箱庫。
名前がひどい。
好きだ。
だが、ひどい。
差止給金箱庫副鍵を差し込む。
重い音。
中にあったのは、鉄縁の小箱がずらりと並んだ棚だった。
箱の側面へ、薄い札が差してある。
北辺第二砦 未払
第三遠征団遺族金 保留
前線工兵手当 差止
冬期追加炭代 不存在処理済
空気が、ほんの少しだけ変わった。
ノイルも。
ミレイユも。
セレナも。
みんな、その札の字を見て止まった。
「……不存在、って」
ノイルが小さく言う。
「箱あるのに?」
「あるから困るんです」
俺は答えた。
「帳簿では無いことになっているのに、実物はここにあるので」
ハルバードが、そこで初めて露骨に嫌そうな顔をした。
第一兵站評議官のそういう顔は珍しい。
「ヴァルター」
低い声だった。
「説明しろ」
零号記録保管官は、口を固くしたまま答える。
「差止だ」
「上位判断待ちの箱だ」
「不存在処理は、あくまで一時的な記録上の――」
「上位って誰です」
俺が聞くと、男は黙った。
いい。
そういう沈黙は好きだ。
答えにくい相手が上にいる時の沈黙だからだ。
差止箱は、今は開けない。
ここで全部いじると、今日の回が重くなりすぎる。
だが、存在を見た。
それで十分だった。
あとで効く。
「兵站区主」
ミレイユが静かに言う。
「ここ、かなり美味しいです」
「ええ」
「嫌な意味で」
「その通りです」
ハルバードは差止箱列を一度だけ見て、それから短く言った。
「先に出す物を決めろ」
「今日は全部は動かせん」
正しい。
現物は山だ。
だが、いきなり全部は回せない。
だったら、今一番効く物からだ。
「高位医療箱を二」
俺は言った。
「毛布束を十」
「肉缶箱を一」
「内窓布を四」
「暖房石を六」
ノイルが目を丸くする。
「差止箱は」
「今は触りません」
「なんでです」
「一回で全部気持ちよくなりすぎると、次が弱いので」
セレナが小さく笑った。
「最低だな」
「好きでしょう」
「否定しない」
ヴァルターがすぐに口を挟む。
「持ち出しは認めていないと言ったはずだ」
「認めてください」
俺は答えた。
「今、王都兵站区の上で列ができてます」
「熱のある兵も、咳のある文官も、子どもを抱えた母親もいます」
「ここに薬と毛布があるなら、上で待たせる理由がありません」
ハルバードが、そこで一歩だけ前へ出た。
細い銀縁眼鏡の奥の目が、ヴァルターへ向く。
「照合請求の対象物資だ」
「現物確認のため、一部搬出を認める」
「私の名でだ」
零号記録保管官の顔が、はっきり歪んだ。
いい顔だ。
「……勝手にしろ」
「ありがとうございます」
ノイルが毛布束へ飛びつく。
若い親衛隊長は、こういう時だけ妙に速い。
白毛皮外套の上から、さらに灰白の毛布を抱える姿は、少しだけおかしい。
だが、悪くない。
「兵站区主」
「何です」
「これ、めっちゃ重いです」
「だから暖かいんです」
「すごいな……」
高位医療箱はミレイユとセレナで運ばせる。
俺は肉缶箱と暖房石箱を持つ。
ハルバードまで、自分で内窓布巻を一本持った。
第一兵站評議官にしては、かなり珍しい景色だ。
だが、そういうのは嫌いじゃない。
昇降機が上へ戻る。
鎖が鳴る。
地下の温い空気が少しずつ薄くなる。
代わりに、王都兵站区の冷たい待機地の匂いが近づく。
扉が開いた瞬間、顔が動いた。
列の兵。
文官。
商人。
みんな、俺たちの抱えている箱を見る。
薬箱。
毛布。
肉缶。
暖房石。
上等な物ほど、離れたところからでもわかる顔をしている。
「何だ、それ」
北巡回帰りの騎兵が真っ先に言う。
「薬です」
「毛布です」
「肉です」
俺が一つずつ答えるたびに、列の顔がはっきり変わる。
説明はいらない。
欲しい物の名前は、短い方が強い。
メイナを呼ぶ。
若い救護長は、高位医療箱を見た瞬間に息を呑んだ。
「……これ、零号?」
「そのようです」
「中、触っていい?」
「そのために持ってきました」
彼女はすぐに蓋を開ける。
咳止め滴。
熱冷まし。
凍傷油。
目が、露骨に変わった。
「兵站区主」
「何です」
「これ、一人二人じゃない」
「何人いけます」
「かなり」
「上出来ですね」
その横で、ノイルは毛布束を抱えたまま困っていた。
誰から渡すかで迷っている顔だ。
いい。
そういう迷いは嫌いじゃない。
「子どもからです」
俺が言う。
「その次に年寄り」
「そのあと、熱のあるやつ」
「わかりました!」
若い親衛隊長は、すぐに列の前へ出た。
「子ども、こっちです!」
「毛布、一枚ずつ!」
「熱のある人はメイナさんのところ!」
最初に毛布を受け取ったのは、王都兵ではなく、子どもを抱えた文官の女だった。
薄い手。
青い顔。
だが毛布を受け取った瞬間に、肩がほんの少し下がる。
いい。
こういうのは効く。
メイナは、その子へ咳止め滴を一滴だけ垂らした。
母親の目が、そこで本当に変わる。
感謝の顔だ。
かなり直接的なやつだ。
「……助かります」
「今のところは応急分だけです」
メイナが答える。
「でも、夜よりましになる」
肉缶は、すぐ鍋へ入れた。
マルタがいない代わりに、王都兵站区の鍋番がいる。
缶を開けた瞬間、肉と脂と香草の匂いが強く立った。
列が、また動く。
腹の方だ。
「兵站区主」
ミレイユが、かなり良い顔で言う。
「これ、また売れますね」
「でしょうね」
「薬と毛布と肉が一緒に来るの、かなり卑怯です」
「上から落ちてきたので」
「好きです」
「どうぞ」
彼女は、もう木札を書き始めていた。
零号応急札
毛布
薬
熱肉汁
銀貨二枚
さらに、もう一枚。
零号毛布札 一枚 銀貨一枚
零号薬湯相談 要診断
いい。
やはり商人は早い。
その時、ハルバードが内窓布を広げた。
第一兵站評議官の手でそれをやるのは、妙な景色だった。
だが、その布を王都兵站区の簡易寝台の窓へ当てた瞬間、冷たい風が目に見えて減った。
列の兵が、それを見た。
「……あれ、欲しいな」
誰かがそう呟いた。
いい。
欲しいと思わせたら、もう半分はこっちの勝ちだ。
「兵站区主」
ノイルがまた小さく言う。
「これ、今日だけでもかなり強いです」
「そうですね」
「でも、まだ上に貴賓浴場ってありましたよね」
「ありました」
「……やばいですね」
「たぶん」
その言葉のところで、ちょうど湯気の匂いが一段だけ変わった。
石鹸。
薬草。
そして、地下で嗅いだあの匂いだ。
貴賓浴場北鍵が、腰袋の中で少しだけ重く感じた。
上にはもう列がある。
薬も毛布も肉も効いた。
だったら、次は一つしかない。
存在しないことになっていた湯を、
そのまま王都兵と文官の列へ流せばいい。
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