第72話 軍務院前兵站市、湯札と寝台札が王都兵に飛ぶように売れる

 待たされる兵は、辺境でも王都でも同じ顔をする。


 寒い。


 腹が減る。


 眠い。


 その三つが揃った顔の前に、

 湯と寝台を置けば、

 だいたい財布は開く。


 王都中央軍務院前の兵站待機地は、

 思っていたよりずっと広かった。


 広い。


 だが、整ってはいない。


 石畳はある。


 柵もある。


 帳場もある。


 けれど、待たされている人間の顔は、どれも良くない。


 北便帰りの騎兵。


 出頭待ちの文官。


 荷を持った商人。


 貴族家の使い。


 みんな、外城の風の中で、自分の順番が来るのを待っている。


 しかも、その待機宿がまた高かった。


 待機地の向かい側。


 古い兵站宿の板札に、こうある。


 外城待機宿 一泊 銀貨二枚

 湯別 銀貨一枚

 箱預り 銀貨二枚から

 朝食別

 馬別


 高い。


 しかも遅い顔だ。


 悪くない。


 こういう相手は、こっちの値段がよく映える。


「兵站城主」


「何です」


「王都なのに、みんな顔が死んでます」


 ノイルが、主車の窓から外を見ながら言う。


「待たされてるので」


「湯もないんですか」


「向こうは別料金ですね」


「うわ……」


 若い親衛隊長は、向かいの板札を見て本気で引いた顔をした。


「じゃあ、開けますか」


「そのために来ました」


「ですよね」


 主車を待機地の中央寄りへ止める。


 第八湯。


 第八窯。


 第三寝台車。


 第八預り庫。


 白牙馬と冬戦馬を混ぜた牽引列まで、そのまま並べる。


 もはや荷車列ではない。


 動く宿場そのものだ。


 待機地の兵や商人が、ひと目でそれとわかる顔をした。


 ミレイユが、すでに帳簿箱を抱えていた。


「兵站城主」


「何です」


「場所、良いですね」


「列の真横なので」


「好きです」


「どうぞ」


 彼女は机の位置を指で示す。


「両替と送金は主車の右」


「湯札と寝台札は中央」


「金庫預りは第八預り庫の前」


「主車待合卓は左」


「王都兵は、だいたい『少しだけ座りたい』顔をしてます」


「見ればわかります」


 ノイルと親衛が、板机を広げる。


 湯気が立つ。


 パン窯の匂いが流れる。


 その時点で、列の前の空気が少しだけ動いた。


 いい。


 まだ何も売っていないのに、もう勝ち筋が見えている。


 木札を並べる。


 軍務院前湯札 一人 銀貨一枚

 軍務院前寝台札 一人 銀貨二枚

 軍務院前通し札 湯・寝台・朝湯 一人 銀貨三枚

 金庫預り札 銀貨二枚から

 主車待合卓 二人用 銀貨三枚

 即送金札 一件 銀貨一枚

 親衛護衛席 一人 銀貨二枚

 熱パン札 一個 銅貨五枚

 熱スープ札 一杯 銅貨五枚

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 わかりやすい。


 露骨で、いい。


 城門前で湯札を買った北巡回帰りの騎兵組が、真っ先に寄ってきた。


 隊長格の男は、昨日と同じように第八湯と第三寝台車を見てから聞いてくる。


「今すぐ入れるのか」


「入れます」


「湯は」


「今すぐです」


「寝台は」


「番号順で」


「箱は」


「預かります」


 男は、向かいの待機宿を一度だけ見た。


 それから、迷わず銀貨を置く。


「通し札を四」


「部下の分もだ」


 早い。


 助かる。


 ノイルがすぐに木札を切る。


「軍務院前通し札、四!」


「湯は右からです!」


「寝台番号はあとで呼びます!」


 若い親衛隊長の声は、王都の待機地でもよく通った。


 悪くない。


 その声に引かれるみたいに、次の客も来る。


 出頭待ちの若い文官。


 目の下に隈がある。


 手には帳面箱。


「……主車待合卓、本当に暖かいのか」


「湯付きです」


「書き物は」


「できます」


「箱は」


「鍵つき棚が使えます」


 文官は、そこで初めて主車を正面から見た。


 窓。


 卓。


 湯気。


 そして、白毛皮の親衛が立つ扉。


 明らかに、向かいの待機宿より上等に見える。


「銀貨三枚か」


「二人用です」


「相棒の書記も入る」


「なら安いな」


 銀貨が落ちる。


 向かいの待機宿の番頭が、そこで初めて顔をしかめた。


 まだ何も言わない。


 だが、嫌な顔はこっちからでもよく見えた。


 いい。


 もっとそういう顔になってほしい。


 主車待合卓が埋まり始めると、

 今度は商人の顔が変わった。


 毛皮商。


 紙問屋。


 北便の油商。


 それに、黒紺の上着を着た貴族家の小執事までいる。


 みんな、同じ顔だ。


 待ちたくない。


 荷は守りたい。


 湯は欲しい。


 つまり、客だ。


「兵站城主」


 ミレイユが小さく言う。


「主車待合卓、もう一卓出せますか」


「出せます」


「出しましょう」


「そのほうが早いですね」


「王都は、席の取り合いになると財布が開きます」


「商人の顔ですね」


「商人ですので」


 《野戦工房》を少しだけ流す。


 主車の側板から、折り畳み卓がもう一つ滑り出る。


 椅子二脚分。


 湯差しつき。


 その場で新しい札を足す。


 主車待合卓 二人用 銀貨三枚

 主車待合卓 湯差し追加 銅貨五枚


 貴族家の執事が、すぐに銀貨を置いた。


「それ、取る」


「主人が評議前で冷えるのを嫌う」


「正しいです」


「君たち、辺境の荷車じゃなかったのか」


「今は主車です」


 執事は少しだけ黙ってから、素直に言った。


「悪くない」


 ミレイユの両替と送金机も回り始める。


「即送金、こっち!」


「封蝋あり、控えあり!」


「王都南区も北区も出せます!」


 王都兵の一人が、半信半疑の顔で聞く。


「今ここで送れるのか」


「送れます」


「軍の正式送金所は」


「明日の午後だろ」


 横から別の兵が吐き捨てる。


「しかも順番待ちで、手数料まで高い」


「じゃあこっちでいいな」


 銀貨がまた落ちる。


 強い。


 送金まで始まると、兵は本気でこっちを“便利な側”と認識する。


 熱パンと熱スープも効いた。


 待機地で長く立たされた兵は、まず匂いで動く。


 厨房車の前に列ができる。


 銅貨五枚のパン札。


 銅貨五枚のスープ札。


 数字は大きくない。


 だが、今すぐ腹へ落ちる食い物はいつだって強い。


 そこへ、橋頭堡でも見たのと似た顔の若い兵が、小さく聞いてきた。


「兵站城主」


「何です」


「寝台って、今夜ほんとに空いてるんですか」


「あります」


「王都なのに?」


「向こうが高いので」


「……それ、だいぶいいですね」


 ノイルがすぐに割って入る。


「寝台札、こっちです!」


「番号順です!」


「主車席とは別です!」


 若い兵が札を受け取りながら、ノイルの白毛皮外套を見て言った。


「王都の兵じゃないよな」


「第八側です」


「その外套、いいな」


 ノイルは少しだけ嬉しそうな顔をした。


「働いたので」


「そういう顔だな」


 悪くない。


 選ばれた側の空気は、王都でもちゃんと効く。


 午後に入る頃には、

 軍務院前待機地の空気が完全に変わっていた。


 こっちの机の前に列。


 向かいの待機宿は薄い。


 その差を、一番よくわかっている顔が寄ってきた。


 待機宿の番頭だ。


 腹が出ている。


 外套は上等。


 だが、手は綺麗すぎる。


 湯と寝台から金を抜いてきた手だ。


「誰の許可でやってる」


 最初の一言がそれだった。


 ミレイユが、帳簿箱を抱えたまま柔らかく笑う。


「待機中の商売です」


「ここは軍務院前だぞ」


「見ればわかります」


 俺は待機宿の板札を指さした。


「向こうが一泊銀貨二枚」


「湯別、箱別、朝食別」


「こっちは通し札で銀貨三枚です」


 番頭の顔が険しくなる。


「安売りするな」


「高すぎるだけでは」


 向こうの列にいた商人が、思わずみたいに笑った。


「それな」


「朝まで待たされて、箱別で、湯別だぞ」


「こっちの方がよほど早い」


 番頭はそちらを睨んだが、もう遅い。


 客が先に言ってしまっている。


 強い。


 こういう時は、本当に強い。


 さらに、ミレイユがもう一押しする。


「しかもこちら、送金も今すぐです」


「王都兵さんたち、かなり並んでますよ」


 番頭がそちらを見る。


 王都兵が、普通に並んでいる。


 しかも、王都兵の方が向こうを見ようともしていない。


 湯札。


 寝台札。


 即送金札。


 主車待合卓。


 欲しい物が、全部こっちに並んでいるからだ。


「兵站城主」


 ミレイユが横目で言う。


「次、足しますか」


「何を」


「まとめ札です」


 その答えは、俺ももう見えていた。


 並んでいる顔が同じだからだ。


 待たされて、冷えて、書類を持っていて、明日の朝も早い。


 なら、欲しいものは決まっている。


「足します」


 新しい板を一枚、すぐ切る。


 評議朝支度札

 朝湯

 熱パン

 主車待合卓三十分

 銀貨二枚


 さらに、もう一枚。


 軍務院前兵站市


 いい。


 ここで名をつける。


 名がつくと、列はもっと早く伸びる。


 ノイルが目を輝かせた。


「兵站城主」


「何です」


「兵站市って、ここでもやるんですね」


「列があるので」


「王都でも」


「王都だからこそです」


「……すごいな」


 軍務院前兵站市の板を立てる。


 その瞬間、向かいの待機宿の番頭が、本気で嫌そうな顔をした。


 よし。


 効いている。


 評議朝支度札は、思った以上に早く売れた。


 評議院へ入る前に、

 湯へ入りたい。


 温かい卓で書類を整えたい。


 熱パンを腹へ入れたい。


 そういう顔ばかりだったからだ。


 若い書記が銀貨二枚を置く。


 執事も置く。


 王都兵の中にも、仲間と金を出し合って主車卓を取りに来るやつが出た。


 ミレイユが、帳簿にさらさら書き込みながら言う。


「かなりいいですね」


「どのくらいです」


「午前だけで銀貨二十は越えます」


「上出来です」


「しかも、向こうの列をこっちが吸っている」


 その通りだった。


 待機宿の方は明らかに客が減っている。


 暖かい卓があり、

 送金も早くて、

 しかも待機地から動かなくていい。


 こっちの方が便利なのは一目でわかる。


 番頭が吐き捨てるように言う。


「こんな真似、長く続かんぞ」


「でしょうね」


 俺は素直に答えた。


「だから今日のうちにたくさん売っておきます」


「……嫌な兵站城主だな」


「知っています」


 その時だった。


 向かいの待機宿の奥から、

 別の男が出てきた。


 外套が違う。


 上等だ。


 指輪も太い。


 年は五十前後。


 腹は出ていないが、顔が高い場所の顔をしている。


 番頭より、もっと上だ。


 そいつは軍務院前兵站市の列をひと目見て、すぐにミレイユではなく俺を見た。


「君がカイル・ルーヴェンか」


 声は低い。


 だが、値段を決める側の声だ。


「そうですが」


「王都兵站商同盟、ベルナール・グレインだ」


 来た。


 思っていたより早い。


 だが、悪くない。


 むしろちょうどいい。


 ベルナールは、主車待合卓の列と、湯札机の列、それに向かいの待機宿の薄くなった列を順に見て言った。


「王都の相場を壊す気か」


 いい。


 その一言で十分だ。


 相手がどこを喉だと思っているか、もう見えた。


 だったら次は、

 高くて遅い王都兵站宿を、

 前線湯と即送金で真正面から食い破ればいい。

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