第73話 高くて遅い王都兵站宿を、前線湯と即送金で食い破る
宿は、
暖かいだけでは勝てない。
早くて、
待たせなくて、
その日のうちに金が届くと、
ようやく本当に強くなる。
軍務院前兵站市で、
一番長い列になったのは寝台札じゃなかった。
即送金札だ。
北便帰りの兵。
出頭待ちの文官。
外城で足止めされた商人。
みんな、くしゃくしゃの宛名紙を握って並んでいた。
王都の兵でも、
結局いちばん先に送りたいのは家の金だ。
そこは辺境と変わらない。
「兵站城主」
ノイルが、送金机の列を見ながら言う。
「寝台よりこっちが長いです」
「そうですね」
「王都の兵って、もっと余裕あるのかと思ってました」
「余裕のある顔なら、こんなに並びません」
「すごいな……」
若い親衛隊長は、本気で感心していた。
悪くない。
そういう顔は悪くない。
ミレイユは、もう三人目の送金客の控えを書き終えていた。
帳簿箱の横に、
封蝋台。
控え札。
市内脚便札。
きれいに並んでいる。
「兵站城主」
「何です」
「かなり効いてます」
「どのくらいです」
「送金所が明朝処理なのに、こっちは日暮れ前受領です」
「兵はそこで財布を開きます」
「商人もです」
その時、
向かいの待機宿の前がざわついた。
人垣が割れる。
番頭じゃない。
もっと上の顔だ。
濃紺の外套。
腹は出ていない。
だが、値段を決める側の顔をしている。
王都兵站商同盟頭、
ベルナール・グレインだ。
男は軍務院前兵站市の列を一息で見て、
まず湯札の板ではなく、送金机の列で目を止めた。
いい目だ。
どこが喉か、わかるやつの目だ。
「カイル・ルーヴェン」
ベルナールが言う。
「王都の兵站相場を壊す気か」
「並ばせているのはそちらです」
俺が答えると、
男は鼻で笑った。
「相場は壊れん」
「客が安い方か、早い方へ動くだけだ」
一拍置いて、
ベルナールは後ろの書記へ顎をしゃくった。
大きな板が出る。
その場で新しい札が立った。
王都兵站商同盟 緊急優待札
一泊 銀貨一枚五十銅
湯 銀貨一枚
箱預り 銀貨二枚から
送金受付 明朝一番
朝食別
寝具別
ざわめきが走る。
列の兵たちが板とこっちを見比べる。
数字だけ見れば、一泊は少し下がっている。
だが、
湯は別。
箱も別。
送金は明朝。
朝食別。
寝具別。
好きだ。
こういう札は好きだ。
高くて遅いのが、よく見えるからだ。
「兵站城主」
ミレイユが、小さく笑う。
「足し算、しましょうか」
「お願いします」
彼女はすぐに前へ出た。
指で、向こうの板を一行ずつ叩く。
「一泊、銀貨一枚五十銅」
「湯をつけると銀貨二枚五十銅」
「箱預りをつけると銀貨四枚五十銅」
「送金は明朝一番」
「朝食別」
「寝具別」
一拍置く。
「つまり、今ここで冷えた兵が、今夜ひと晩まともに回るまでに、まだ何枚も払うわけです」
列がどっとざわついた。
好きなざわめきだ。
自分の金で、やっと計算し始めた顔のざわめきだ。
ベルナールの目が細くなる。
「商人が他所の板を勝手に読むな」
「読ませるために立てたんでしょう」
ミレイユはにこりと笑った。
「私、そういうの大好きなんです」
いい。
その返しはいい。
俺はそこで、新しい板を二枚出した。
待っていた。
こういう顔を。
王都待機支度札
湯
短休寝台半刻
即送金控え
熱パン
銀貨二枚
王都夜越し通し札
寝台
湯
即送金控え
朝パン
銀貨四枚
向こうより安い。
しかも早い。
しかも、こっちはすでに湯気が立っている。
列の目が変わらないわけがない。
「……安いな」
北便帰りの騎兵の一人が、思わず言った。
「今すぐ入れるなら、そっちだろ」
別の兵も続く。
「送金が明朝ってのがきつい」
「今日中に家へ入れたい」
そこだ。
そこがいちばん強い。
「今日中に送ります」
俺は言った。
「王都南区、北区、外城内なら日暮れ前」
「控え札つき」
「受領札も戻します」
若い兵の一人が、半信半疑の顔で聞く。
「ほんとか」
「今からやりますか」
俺が聞き返すと、
男は少しだけ戸惑ってから銀貨三枚を出した。
「妻と、娘だ」
「娘が熱を出してる」
「薬代を今日入れたい」
いい。
かなりいい客だ。
ミレイユが、即座に封蝋台を引き寄せた。
「宛名」
「王都南三区、石段裏七」
「金額」
「銀貨二枚」
「文言は」
兵は一瞬だけ迷って、
それから言った。
「熱が下がるまで、炭を切らすな」
短い。
だが十分だった。
ミレイユがそれを書き、
封をして、
控え札を切る。
その間に、俺は市内脚便の札を箱から抜いた。
青い天秤の小札だ。
ロスタ商会王都支店の急ぎ便。
ちゃんと速い札だ。
「これで日暮れ前です」
俺が言うと、
兵はまだ半分疑っていた。
だが、銀貨はもう出した。
あとは結果だ。
すぐにロスタ商会の若い脚夫が走り出す。
王都の石畳へ溶けるように消える。
その速さを見た周囲の兵たちの顔が、
また少し変わった。
「本当に走った」
「そりゃ走るだろ」
「向こうは明朝だぞ」
「……こっちのが早いな」
いい。
欲しかった反応だ。
「兵站城主」
ノイルが、送金机の脇で目を丸くしている。
「これ、今見た兵、絶対また来ますよ」
「でしょうね」
「俺でも来ます」
「あなたはもうここにいます」
「たしかに」
若い親衛隊長は、妙に納得した顔でうなずいた。
悪くない。
ベルナールは、それでもまだ涼しい顔を崩さなかった。
だが、言葉が少し変わった。
「送金は責任が重い」
「遅れたらどうする」
「受領札を戻します」
俺が答えると、
男はすぐに被せる。
「それでも遅れる時はある」
「そちらもでしょう」
「だから王都の相場がある」
「だから、待ってる兵が嫌がっている」
そこで、向かいの待機宿に並んでいた老兵が、はっきりと口を挟んだ。
「俺は嫌だな」
全員がそっちを見る。
老兵は、外套の首を押さえながら続けた。
「朝まで待てって言われるのが一番嫌だ」
「金は送れる時に送った方がいい」
「熱も湯も、その時ほしい」
短い。
だが、すごく強かった。
ベルナールの顔が少しだけ動いた。
王都の相場より、
今この場の欲の方が強いと見えた顔だ。
ミレイユは、その一拍を逃さない。
「兵站城主」
「何です」
「出します?」
「何を」
「こっちの本命です」
いい。
待っていた。
そういう顔で。
俺は新しい板を一枚、机の真正面へ立てた。
家族送金札
即送金
湯
熱パン
短休寝台
銀貨三枚
列が、はっきり揺れた。
兵だけじゃない。
文官も、
使者も、
商人まで目を止める。
「家族送金……」
誰かがそう呟いた。
そこだ。
名誉じゃない。
相場でもない。
家族だ。
薬代。
炭代。
部屋代。
そういうところへ金が届くかどうかが、一番効く。
ベルナールが、低く言う。
「俗だな」
「ええ」
俺は答えた。
「かなり強いので」
最初に動いたのは、城門前でも湯札を買ったあの騎兵組だった。
隊長格の男が、迷わず銀貨を置く。
「家族送金札、三」
「妻、娘、母の分だ」
「助かります」
ミレイユが、すぐに書く。
「王都南三区」
「北二区」
「外城東」
三通。
脚夫が二人増える。
列が伸びる。
もう、止まらない。
送金机の前だけが、熱を持っていく。
王都兵の肩が、目に見えてこっちへ傾く。
貴族家の執事まで、
しれっと主車待合卓を追加で押さえに来た。
「主人が待機宿を嫌がっている」
男は言う。
「湯気が足りんそうだ」
「主車卓は銀貨三枚です」
「安いな」
この手の客は、本当にいい。
金があるやつほど、待ち時間と不快を嫌う。
そこへは、きれいに刺さる。
その時だった。
ロスタ商会の若い脚夫が、最初の受領札を持って戻ってきた。
まだ日が高い。
早い。
最高だ。
「王都南三区、石段裏七」
脚夫が言う。
「銀貨二枚、受領」
「受領者、妻マリナ」
「伝言」
小さな紙が添えられている。
墨は荒い。
だが、急いで書いた家の字だ。
『薬屋へ走ります。娘に炭も足します。助かりました』
隊長格の騎兵の顔が、そこで本当に変わった。
肩が落ちる。
目の奥の張りが少しだけ緩む。
「……早いな」
「日暮れ前と言ったので」
俺が答えると、
男はすぐにもう一枚、銀貨を置いた。
「明日分も頼む」
「助かります」
これ以上わかりやすい勝ち方は、そうない。
周りの兵が、それを見て一斉に動いた。
家族送金札。
即送金札。
主車卓。
熱パン。
湯札。
全部が連動して売れ始める。
ベルナールの向かいの待機宿は、
見る見る列が薄くなった。
番頭の顔が死ぬ。
そりゃそうだ。
遅くて高い側は、
今この場では弱い。
「兵站城主」
ノイルが、完全に興奮した顔で言う。
「これ、めっちゃ勝ってませんか」
「見ればわかります」
「王都でもいけるんですね」
「王都の方が、待つ人が多いので」
「すごいな……」
悪くない。
その感想は悪くない。
だが、ベルナールもただでは引かなかった。
男は、今度は待機宿ではなく俺を真正面から見た。
「カイル・ルーヴェン」
「何です」
「ここまでやるなら、もう待機地の余興では済まない」
「でしょうね」
「明日、人前で潰す」
その時点で、答えは見えていた。
公開だ。
評議席を閉じた部屋で済ませる気がなくなった。
それだけ、こっちが効いたということだ。
そして、ほとんど同時だった。
王都軍務院の青い腕章をつけた使者が、馬を飛ばして待機地へ入ってきた。
若い。
だが顔が固い。
公文だ。
「前線本営主カイル・ルーヴェン!」
「そうですが」
使者は馬上で巻紙を広げた。
「第一兵站評議席より通達!」
「明朝の出頭を、公開評議へ変更!」
「場所、王都中央軍務院前大石壇!」
「提出物、生存名簿、給金台帳、前線本市売上、橋通行記録、送金控え、契約書一式!」
待機地の空気が、また変わった。
兵も。
商人も。
宿の番頭も。
みんな聞いた。
いい。
これはいい。
「兵站城主」
ミレイユが、笑いを隠しきれない顔で言う。
「大石壇って、かなり目立つ場所ですよ」
「そうでしょうね」
「王都の真ん中です」
「知っています」
「好きです」
「どうぞ」
ベルナールは、そこで初めて本気で嫌そうな顔をした。
王都兵站商同盟頭のその顔は、
かなり高かった。
「なら、明日で終わりだ」
吐き捨てるように言う。
「辺境の荷車ごときが、王都の席で勝てると思うな」
「勝つかどうかは、明日見ればわかります」
俺は答えた。
「ただ、今日の列はもう見えているので」
その一言で十分だった。
今この待機地で、
誰の前に列ができているかは、
もう全員が見ている。
主車待合卓。
家族送金札。
湯札。
寝台札。
熱パン札。
即送金札。
全部、こっちだ。
王都の相場より、
今ここで暖かくて早い方が勝つ。
それが今日の数字になった。
だったら次は、
その数字と名簿と給金台帳を、
王都の真ん中の机へ叩きつければいい。
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