第70話 正式認可、前線本営主になって雪原の橋と倉と湯を全部回す

 権利は、奪った瞬間より、印が落ちた朝のほうが重い。


 湯も。


 橋も。


 給金も。


 もう一日ちゃんと回ったと、誰の目にも見えるからだ。


 補給塔と給金庫を奪った翌朝。


 旧前線本営の空気は、昨日より少しだけ人の住む場所に近づいていた。


 橋頭堡の灯はまだ生きている。


 前線本市の湯札机にも列がある。


 旧前線大浴場からは、朝の白い湯気が細く上がっていた。


 士官寝台室の窓も、ちゃんと曇っている。


 悪くない。


 いや、十分すぎる。


 ノイルが、白毛皮の親衛外套を着たまま走ってくる。


「兵站城主」


「何です」


「見てください」


「見てます」


「本営の兵、また湯札切ってます」


「そうですね」


「しかも今日、昨日より普通の顔です」


「一晩寝たので」


「すごいな……」


 若い親衛隊長は、ほんとうに感心した顔をしていた。


 悪くない。


 湯と寝台の効き目を、昨日のうちに覚えた顔だ。


 その時だった。


 橋の南側で、青銀の旗が揺れた。


 短い供回り。


 印箱二つ。


 巻物箱三つ。


 さらに、鍵輪箱まで見える。


 いい。


 これはかなりいい。


 クルト・ゼーベックだ。


 北方補給監は、橋頭堡の石畳へ降り立つなり、まず補給塔を見た。


 次に、前線本市。


 浴場棟。


 士官寝台室。


 給金庫。


 それから、縄で縛られたガルド・ハイゼンを見た。


 最後に、俺を見て短く言う。


「……残したな」


「ええ」


 俺は答えた。


「暖かい方が勝ったので」


 クルトの口元が、ほんの少しだけ上がる。


「知っている顔だ」


 長机を三つ並べる。


 左に、司令部の机。


 中央に、俺。


 右に、ガルド。


 その前へ、


 補給塔の灯返し記録。


 給金庫。


 兵糧札。


 ガルドが自分で二重線を引いた配給札。


 前線本市の売上台帳。


 大浴場札の束。


 橋通行札。


 救護寝台名簿。


 全部を並べる。


 広場じゃない。


 雪原の本営だ。


 だが、こういうのは人の見える場所でやる方がいい。


 前線本市の客も。


 本営から流れてきた兵も。


 橋番も。


 みんな止まってこっちを見ている。


 クルトが、まず配給札を持ち上げた。


 明朝本配給。


 士官優先。


 大浴場使用不可。


 そこへ引かれた二重線を、指でなぞる。


「旧前線守備監ガルド・ハイゼン」


 低い声だった。


「補給塔と橋頭堡を私物化」


「給金庫を盾に兵糧札を吊り上げ」


「大浴場と士官寝台を囲い込み」


「前線本市停止を図り」


「その上で、暖房と寝台と橋から金を抜いた」


 一拍置く。


「反論は」


 ガルドは、昨日よりかなり寒そうな顔をしていた。


 だが、それでも吐き捨てる。


「前線は秩序が要る」


「兵も商人も温い方へ流れる」


「私は守っていただけだ」


 クルトは、そこで前線本市の売上台帳を開いた。


「橋通行札」


「湯札」


「寝台札」


「薬札」


「護衛席」


 順に読み上げる。


 数字は十分だ。


 しかも、その横には本営兵の名まで並んでいる。


「流れたのは兵だけではない」


 クルトが言う。


「橋も、荷も、金も、客もだ」


「それだけ、お前の側が高くて冷たかったということだ」


 ガルドは何も返さなかった。


 返せない顔だ。


 そこへ、フェルドが前へ出る。


 痩せた元補給下役は、もう昨日よりずっとましな顔をしていた。


「守備監は、兵にいつも言ってた」


 一拍置く。


「明日払う」


「明日暖房石を回す」


「明日寝台を割る」


 それから、前線本市の湯気を一度見る。


「こっちは、昨日払った」


「昨日温めた」


「昨日寝かせた」


 短い。


 だが十分だった。


 橋頭堡番の年寄りも続く。


「橋もそうだ」


「こっちは灯を返した」


「あっちは止めて抜いた」


 薬商隊の主まで、一歩出る。


「箱を預けるなら、守る方へ預ける」


「それだけだ」


 悪くない。


 こういう証言は、とても悪くない。


 クルトはそこで、最後の紙を開いた。


 白くて、厚い。


 印も多い。


 裁定紙だ。


「旧前線守備監ガルド・ハイゼン」


 また、静かになる。


「補給塔群の不正停止」


「給金庫の私的運用」


「橋頭堡通行の恣意的閉鎖」


「大浴場・士官寝台室の囲い込み」


「前線本市停止未遂」


「以上により、旧前線守備監職を解任」


 どっと空気が弾けた。


 前線本市側から、思わずみたいな声が上がる。


「やった!」


「落ちた!」


「当然だ!」


 ノイルが一番大きかった。


「兵站城主!」


「まだです」


 俺が答えると、若い親衛隊長は咳払いした。


「……はい!」


 だが、ここからだ。


 欲しいのは、相手の失脚だけじゃない。


 その後に残る橋と湯と権利だ。


 クルトは次の巻物を開いた。


「第一」


 雪原の風が、紙を少しだけ揺らす。


「橋頭堡および補給塔一号・二号の正式管理権を、第八側へ移管」


 ざわめきが熱へ変わる。


 橋が正式にこっちのものになる。


 それは大きい。


「第二」


 クルトが続ける。


「旧前線大浴場棟、士官寝台室、温石室、洗濯場の運営権を、第八側へ移管」


 さらに、もう一枚。


「第三。雪原貯蔵庫と付属医療箱、暖房石、冬靴、毛布束の運用権も、第八側へ委任」


 好きだ。


 橋も。


 湯も。


 寝台も。


 毛布も。


 全部、露骨に好きだ。


「第四」


 クルトはそこで、少しだけ間を置いた。


「橋通行、暖房、寝台、預り荷、護衛相談の複合徴収権を正式認可」


 ミレイユが、横で本気で息を呑んだ。


「……それは、かなりいいですね」


「商人の顔ですね」


「商人ですので」


 まだ終わらない。


 クルトはさらに続けた。


「第五。給金庫の現地再配分権を、お前へ」


 雪原の本営で、一番欲しかった権利だ。


 給金箱がただの箱じゃなくなる。


 腹と顔色を変える箱になる。


 強い。


 本当に強い。


「最後だ」


 クルトは、一番厚い巻物を開いた。


「官名は長い」


 その時点で少しだけ笑いが起きる。


 前にも見た流れだ。


「旧前線兵站城本営代行運営統括主幹」


 一拍置く。


 北方補給監は、ほんの少しだけ口元を上げた。


「現場では、前線本営主でいい」


 前線本市が爆ぜた。


 兵。


 商人。


 職人。


 橋番。


 みんな一度に声を上げる。


「おおっ!」


「本営主!」


「また上がった!」


 ノイルが一番大きかった。


「前線本営主!」


「どうも」


 俺が答えると、若い親衛隊長は本気でうれしそうに笑った。


 悪くない。


 かなりではなく、本当に悪くない。


 クルトは青銀の小印箱を開く。


 中には、新しい印が入っていた。


 車輪。


 槍。


 鍋。


 橋。


 その奥に、低い本営棟の形。


 前線本営主印。


 重い。


 手の中で、ちゃんと重い。


「受け取れ」


「はい」


 掌へ落ちる。


 机より先に。


 箱より先に。


 これは腹へ来る。


 これで橋を回せる。


 湯も回せる。


 寝台も、給金も、本営そのものも回せる。


 強い。


 かなりどころではなく強い。


 その時だった。


 クルトが、もう一つ箱を開けた。


 中には鍵が五本。


 長さも重さも違う。


「橋頭堡総鍵」


 一つ目。


「補給塔群総鍵」


 二つ目。


「旧前線大浴場主鍵」


 三つ目。


「士官寝台室総鍵」


 四つ目。


「雪原貯蔵庫総鍵」


 五つ目。


 いい。


 こういう並びは本当にいい。


 ノイルが、思わず本音を漏らした。


「……すごいですね」


「見ればわかります」


「いや、なんかもう、鍵の響きがすごいです」


「そうですね」


「前線本営主って、だいぶ偉いですね」


「少しだけです」


「どこがです!?」


 笑いが広がる。


 いい。


 こういう空気は必要だ。


 だが、ここで終わらせない。


 好きなものは、その場で生活へ落とす。


 それが大事だ。


「聞け」


 俺はすぐに声を張った。


 前線本市が、また静まる。


「本日より、橋頭堡も、大浴場も、寝台室も、正式にこっち持ちだ!」


 ざわめき。


「だから今夜から増やす!」


 一拍置く。


「大浴場の一般枠を二倍!」


「士官寝台室の一般開放枠を六増設!」


「橋通行札は本日限り、子どもと怪我人を無料!」


「本営兵の湯薬札、今夜だけ銀貨一枚引き!」


「さらに」


 ここで、給金庫の上へ手を置く。


「今夜の鍋は、給金庫から肉を増やす!」


 どっと沸いた。


 兵が笑う。


 商人も息をつく。


 前線本市の空気が、一段だけ柔らかくなる。


 いい。


 これだ。


 権利は、風呂と寝台と鍋へ落ちた時に一番効く。


 メイナがすぐに言う。


「医療棟側の寝台、二つ空ける」


「熱のあるやつと凍傷のやつ、そこへ回す」


「助かります」


 ブラムも負けない。


「前線厩舎、あと四頭分増やせ」


「こいつらもう戻らねえ」


「やります」


 エルザはすでに金貨袋を持っていた。


「本営主」


「何です」


「橋と湯と寝台が正式になったなら、毛皮九台で押さえるわ」


「高いですよ」


「でしょうね」


 毛皮商の番頭は笑った。


「でも、正式な方がもっと売りやすい」


 わかっている顔だ。


 強い。


 かなり強い。


 ミレイユも帳簿を抱えたまま、すでに次を見ている。


「前線通し札、値上げですね」


「どのくらいです」


「橋・湯・寝台・薬・預り荷。まとめて銀貨四枚」


「上がりましたね」


「正式になったので」


「好きです」


「知っています」


 その時、クルトがもう一つだけ長い鍵を取り出した。


 これまでの五本より、もっと長い。


 古い。


 だが、手入れはいい。


「何です」


「本営主室鍵」


 短く答える。


「今まで守備監ガルドが使っていた部屋だ」


 いい。


 その響きは、とてもいい。


「行きますか」


 セレナが言う。


「ええ」


 旧前線本営主室は、補給塔二号の裏手、石段を上がった先にあった。


 厚い扉。


 重い鍵穴。


 中へ入る。


 広い。


 主車より広い。


 大きい机。


 厚い寝台。


 書棚。


 壁一面の地図。


 小さいが深い浴槽。


 温石箱もある。


 さらに、窓からは橋頭堡と前線本市の両方が見えた。


 好きだ。


 こういう部屋は好きだ。


 ノイルが、扉の外から半歩だけ身を乗り出して言う。


「……でかい」


「ええ」


「机もすごいです」


「そうですね」


「風呂まであります」


「あります」


「本営主、めっちゃ偉いですね」


「どうやら」


 若い親衛隊長は、かなり本気で感動した顔だった。


 悪くない。


 こういう反応はいい。


 クルトはその机の上へ、もう一つ薄い巻物を置いた。


「まだある」


「何です」


「無視できなくなった話だ」


 開く。


 王都中央軍務院。


 第一兵站評議席。


 正式出頭命令。


 内容は短い。


 前線本営再稼働についての説明。


 移動兵站城および前線本市の運用報告。


 旧第三遠征団の資産横流しに関する証言提出。


 日時は十日後。


 場所は、王都中央軍務院第一兵站評議席。


 いい。


 かなりいい。


 いや、響きは少し嫌だが、中身はいい。


 向こうから呼んできた。


 こっちを無視できなくなったということだからだ。


「本営主」


 クルトが言う。


「雪原の橋と湯と給金庫を回した」


「ええ」


「なら次は、王都の席を回せ」


 セレナが低く笑う。


「ついに中央か」


「ええ」


 俺は答えた。


「向こうから来いと言ってるので」


「嫌な顔で行きそうだな」


「かなり」


 ノイルが、扉の外で息を呑んだ。


「王都……ですか」


「そうみたいです」


「本営主が?」


「見ればわかります」


「すごいな……」


 その時、ミレイユが机の端へ銀貨三枚をそっと置いた。


「何です」


「送金です」


「母と妹へ?」


「ええ」


「炭と薬と、少し良い毛布用で」


 彼女は小さくうなずいた。


「届きます」


「お願いします」


「その代わり」


「何です」


「王都へ行くなら、前線本市の売上台帳を全部持って行ってください」


「当然です」


「好きです」


「知っています」


 主室の窓の外では、


 橋頭堡の灯が揺れ、


 前線本市の湯気が上がり、


 大浴場へ人が流れ、


 寝台室の窓が曇っていた。


 全部、こっち側だ。


 全部、もう正式だ。


 悪くない。


 かなりではなく、本当に悪くない。


 俺は前線本営主印を机へ置いた。


 次に、橋頭堡総鍵。


 補給塔群総鍵。


 大浴場主鍵。


 士官寝台室総鍵。


 雪原貯蔵庫総鍵。


 並べるだけで、気分がいい。


「本営主」


 ノイルが最後に聞いてきた。


「何です」


「俺らも、王都行くんですか」


「たぶん」


「主車で?」


「そうでしょうね」


「……最高です」


 若い親衛隊長のその返しは、とても素直でよかった。


 前線本営は取った。


 橋も。


 湯も。


 寝台も。


 給金庫も。


 全部、こっちへ回った。


 だったら次は、


 この暖かい方を、


 王都の真ん中へ持ち込んでやればいい。


 ――第七章・旧前線兵站城本営編 了

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