第69話 本営決戦、補給塔と給金庫を奪って前線の腹を折る
給金庫は、
奪うだけじゃ半分軽い。
腹を空かせた兵の目の前で開けた時に、
ようやく本当の重さになる。
旧前線大浴場を開けた翌朝、
橋頭堡と前線本市の間は、昨日よりさらに混んでいた。
湯札の列。
薬札の列。
橋通行札の列。
そして、こっそり混ざる本営兵の列だ。
悪くない。
というより、もうかなり露骨だった。
痩せた本営兵が、銅貨八枚を握ったまま兵湯札の前へ並ぶ。
別のやつは、温石室札を見て唾を飲む。
橋の北側で、本営側の兵までこっちの湯気を見て足を止める。
強い。
暖かい方が、目に見えて勝っている。
「兵站城主」
ノイルが、前線本市の札板を抱えたまま言う。
「本営の兵、今日さらに増えてます」
「見ればわかります」
「昨日まで、こっちを見るだけで引いてたのに」
「昨日は大浴場が開いたので」
「今日は?」
「腹が減ったので」
「すごいな……」
若い親衛隊長は、本気で感心した顔だった。
悪くない。
だが、感心しているだけでは足りない。
フェルドが、橋頭堡の壁へ寄りかかったまま低く言う。
「今夜だ」
「何がです」
「ガルド守備監は、兵が流れ始めると必ず"給金"と"明日の配給"を見せる」
「どこで」
「補給塔二号の下」
痩せた元補給下役は、指で北側を示した。
「塔の前に配給台を出して、兵糧札を交換させる」
「給金庫も?」
「持ってくる」
その一言は大きかった。
かなり大きい。
いや、かなりどころじゃない。
給金庫。
兵糧札。
補給塔。
本営の腹が、一箇所へ集まる。
「どういう札です」
俺が聞くと、フェルドは懐から薄い木札を一枚出した。
古い。
擦り切れている。
だが、まだ読めた。
一般兵糧札 夕刻一回
大浴場使用不可
寝台割当 明朝抽選
士官優先
最低だ。
しかも、わかりやすい。
「士官は先に温まり、兵は並んで半粥ですか」
メイナが冷たく言う。
「そうだ」
フェルドは短く答えた。
「しかも給金は見せるだけの日もある」
「払わない?」
ノイルが目を丸くする。
「明日だ、明後日だと引っ張る」
そこで、薬札の列にいた本営兵の一人が、思わずみたいに口を挟んだ。
「今夜もそうだろうよ」
痩せた男だった。
昨日からこっちの兵湯札を買っている顔だ。
「ガルド守備監は、金箱だけ見せて兵糧札を配る」
「腹の減ったやつは、明日のために大人しくなるからな」
いい。
嫌な話だが、次の当たりとしては最高だ。
人が集まる。
金も札も集まる。
しかも敵は、自分の手でそれを見せに来る。
「副司令」
「わかってる」
セレナが槍を持ち直す。
「今夜、そこを噛むんだな」
「ええ」
「給金庫を先に押さえる」
「兵糧札も」
「補給塔の灯りも」
「全部です」
ガレスが肩を揺らして笑う。
「でけえ口だな」
「生活がかかっているので」
「知ってる顔だ」
よし。
だったら準備だ。
前線本市の板を、一枚だけ替える。
本営突入手当 銀貨一枚
補給塔灯返し手当 銀貨一枚
給金庫回収手当 銀貨一枚
兵糧袋搬出 一袋 銅貨二枚
今夜の鍋 多め
ざわめきが、すぐ熱に変わる。
銀貨一枚は強い。
しかも、今回は湯気と寝台の先にある一枚だ。
なおさら強い。
「兵站城主」
ノイルが、あっさり手を挙げた。
「俺、給金庫側やります」
「見たそうですね」
「めっちゃ」
「わかります」
ルッツも鼻を鳴らす。
「俺は兵糧札だな」
「どうして」
「腹減ったやつは、札で縛られてる時が一番弱い」
「上出来です」
メイナは医療箱の蓋を閉じながら言う。
「私は浴場棟と温石室を回す」
「湯を止めるなよ」
ガレスが笑う。
「わかってる」
「今夜の湯は、兵より強い」
いい。
全員、狙う物がわかっている。
金。
札。
灯。
腹。
全部、具体物だ。
そういう戦いは強い。
夕刻。
橋頭堡の先、本営中央棟の前は、本当に列になっていた。
補給塔二号。
その足元へ木の配給台が二つ。
横に兵糧札交換机。
さらに、黒鉄で巻いた給金庫が一つ。
衛兵は多い。
本営歩兵十数。
雪鎖騎兵八。
塔の中にも弩持ちがいる。
だが、それでも一番目立つのは、列だ。
腹の減った兵の列が、何より目立つ。
ガルド・ハイゼンは、その列の上から人を見る男だった。
長い毛皮。
太い暖房石帯。
いかにも温かそうな外套。
痩せてはいない顔。
好きじゃない。
だが、こういうやつはわかりやすくていい。
「本営兵よ!」
ハイゼンの声が、塔前へ響く。
「本日の兵糧札交換はここで行う!」
一拍置く。
「一般兵は半粥、明朝本配給!」
ざわめきが起きる。
次に、さらに声が落ちる。
「大浴場使用は士官・准士官のみ」
「寝台割当も士官優先」
「敵側の湯と寝台を使った者は、配給を減ずる」
最低だ。
しかも、見せ方まで下手だ。
目の前に給金庫を置いて、明朝だの優先だのばかり言う。
腹が減った兵の前で、それは悪手だ。
フェルドが、低く言う。
「今だ」
「ええ」
俺は答えた。
「今が一番嫌な顔をさせやすい」
主車が前へ出る。
その後ろに第八湯。
第八窯。
第三寝台車。
さらに重弩車。
城柵車。
もう隠しても意味がない。
こういうのは、見せながら行った方が効く。
兵の列の向こうに、こちらの湯気と窯の煙が立つ。
ざわめきが、また違う色へ変わる。
「……来たぞ」
「第八側だ」
「風呂持ってる」
「鍋も」
兵たちが、列の中で本当に後ろを振り返る。
いい。
そこだ。
「兵站城主カイル・ルーヴェン」
俺は主車の前へ出て声を張った。
「第八側は今夜も開いています」
一拍置く。
「湯も、寝台も、薬も、鍋もです」
静かになる。
補給塔二号の前で、全員がこっちを見る。
「ただし」
俺は続けた。
「今夜は先に、この塔の灯と給金庫を回収します」
ガルドの顔が、そこで初めて歪んだ。
「……何だと?」
「聞こえた通りです」
俺は答えた。
「腹を空かせた兵の前で、明日だの優先だのと言うやつから、先に回収します」
ガルドは、鼻で笑った。
だが、その目はもう笑っていない。
「お前ごときが補給塔を奪う?」
「できます」
「給金庫まで?」
「見えるところにあるので」
周囲から、思わずみたいな笑いが漏れた。
いい。
ここで少し笑わせると、空気が割れる。
ハイゼンが手を上げる。
「捕らえろ!」
雪鎖騎兵が前へ出る。
本営歩兵も槍を下ろす。
だが、最初に動いたのは、俺じゃなくリオネだった。
第三烽火砦からの火が、ちょうど同時に跳ねる。
一長。
二短。
一長。
補給塔用の灯返し符丁だ。
ハルンが低く笑う。
「通るぞ」
補給塔二号の側面。
古い保守梯子がある。
俺は前線大浴場の鍵束から、補給塔一号起動鍵を抜いた。
フェルドの言った通り、塔の整備鍵は同系統だ。
差し込む。
半分だけ合う。
それで十分だ。
《野戦工房》を少しだけ流し、死んだ爪を起こす。
かちり、と鳴る。
保守扉が開いた。
「ノイル!」
「はい!」
「塔!」
「わかりました!」
若い親衛隊長が、白毛皮を翻して駆ける。
ルッツと二人、保守梯子へ飛びつく。
本営歩兵が気づいて槍を向ける。
だが、その前に重弩車が吠えた。
太いボルトが、給金庫ではなく配給台の脚へ突き刺さる。
台が斜めになる。
並んでいた兵が一斉に下がる。
混乱。
それで十分だ。
ガルドは、そこでやっと本気で怒鳴った。
「給金庫を上げろ!」
やっぱりだ。
守りたいのはそこだ。
塔の横にいた二人の書記が、給金庫へ鎖をかけて、塔の側の巻上機へ繋ごうとする。
塔の中へ引き上げる気だ。
遅い。
「ルッツ!」
「見えてる!」
元灰狼の副官は、雪鎖から奪った鎖鉤を投げた。
給金庫の取っ手へ噛む。
同時に、橋頭堡から持ち出した巻上輪へ縄を通す。
今度は、あっちじゃない。
こっちへ引く。
「回せ!」
橋番上がりの老人と若い衆が、一気に輪を回した。
鎖が鳴る。
給金庫が、塔の方ではなくこちらへ半歩滑る。
書記二人が悲鳴を上げる。
「止めろ!」
ハイゼンが怒鳴る。
だが、その時にはノイルがもう塔の中腹まで上がっていた。
保守梯子は狭い。
だから速い。
こういう時、体の軽いやつは本当に強い。
「兵站城主!」
上から声が飛ぶ。
「灯り、落とします!」
「落としたあと、返せ!」
「はい!」
若い親衛隊長の声は、興奮しているのによく通った。
悪くない。
塔の灯が、一度消える。
本営兵の列がざわつく。
次の瞬間。
補給塔二号の灯が、今度は南へ向いた。
こちら側へ向く。
しかも、橋頭堡の灯と同じ拍で明滅した。
第八側の灯だ。
わかる。
見ればわかる。
兵の顔色が、そこで変わった。
塔の灯は、兵にとっては命綱だ。
それが、目の前でこっちへ奪われた。
効かないわけがない。
「……灯が」
「取られた」
「どっちが補給塔なんだ」
列の中で、そういうざわめきが走る。
いい。
補給塔の灯を奪うのは、やはり強い。
ガルドはそこで、配給台の上の札板を蹴った。
士官優先。
明朝本配給。
大浴場使用不可。
そこへ手をかけ、何かを破ろうとする。
いや、違う。
火皿だ。
札板ごと燃やして、無かったことにする気だ。
やらせるか。
俺は温石室から持ってきた濡れ布束を掴み、台へ飛び込んだ。
火皿へ叩きつける。
蒸気が上がる。
火が死ぬ。
その隙に、セレナの槍がガルドの喉元で止まった。
「動くな」
短い。
重い。
十分だ。
守備監の顔が、はっきりと青ざめる。
いい顔だ。
暖かい場所から抜いてきた男が、初めて寒そうな顔をしている。
「配給札へ手を出すな」
俺は言った。
「今、それを焼かれると本当に困る」
「お前……!」
ガルドが歯を食いしばる。
その横で、給金庫がもう一度大きく滑った。
こっちの巻上輪が勝ったのだ。
給金庫が、配給台の前まで引きずられてくる。
重い音。
かなり気持ちいい音だ。
「兵站城主!」
ノイルが塔の上から叫ぶ。
「灯、返りました!」
「見ればわかります!」
「すごいです!」
「降りてきて、箱を見てください!」
「そっちもですか!」
若い親衛のそういう声で、場が少しだけ笑う。
いい。
張りすぎた空気は、割れる瞬間が必要だ。
そこへ、痩せた本営兵の一人が、列の中から小さく言った。
「……今夜、配るのか」
誰へ向けたかもわからない声だった。
だが、全員が聞いた。
「今夜、鍋と湯はこっちで出す」
俺は答えた。
「寝台は怪我人と子ども優先」
「働けるやつは、袋を運べば銅貨も出る」
列の空気が、そこで決まった。
槍を持つ本営兵が一人、二人と視線を落とす。
最初に武器を捨てたのは、昨日から銅貨八枚で湯札を切っていた痩せた兵だった。
木の柄が、雪へ落ちる。
「……今夜の鍋、残ってるか」
「あります」
俺は答えた。
「ただし、先にこの袋を運んでください」
兵糧袋を指す。
そいつは迷わなかった。
槍を蹴り離し、袋へ手をかける。
そこからは早かった。
腹の減った兵は、腹の方向へ流れる。
本営兵が二人、三人、五人。
配給台の袋をこちらへ運び始める。
もう、列じゃない。
流れだ。
ガルドの顔が、本当に死んだ。
「貴様ら! 何をしている!」
だが、誰も見ない。
目の前に鍋がある。
湯がある。
寝台がある。
給金庫も、こっちへ寄った。
それで十分だった。
俺は配給札板を拾い上げ、ガルドの前へ突きつけた。
「守備監」
セレナの槍が、もう半歩だけ近づく。
「書け」
ガルドが睨む。
「何をだ」
「二重線を」
俺は言った。
「明朝本配給」
「士官優先」
「大浴場使用不可」
「その三つへ線を引け」
周囲が静まる。
今度は、本当に。
鍋の蓋の音まで遠く聞こえた。
「嫌だと言ったら」
ガルドが低く聞く。
「困ります」
俺は答えた。
「今夜、腹を空かせた兵が多いので」
ミレイユが横で、楽しそうに言う。
「私としては、公開配給の方が明日の前線通し札が売れますね」
「黙れ」
ガルドが吐き捨てる。
だが、その時点で負けている。
俺は書き棒を差し出した。
「どうぞ」
守備監ガルド・ハイゼンは、しばらく俺を睨んでいた。
それから、周囲を見た。
湯気。
鍋。
運ばれる兵糧袋。
灯を奪われた補給塔。
引きずられた給金庫。
そして、自分の兵が、自分の列から抜けてこちらへ流れていること。
終わりだ。
それがわかる顔だった。
ついに、ガルドは書き棒を取った。
まず「明朝本配給」へ二重線。
次に「士官優先」へ二重線。
最後に「大浴場使用不可」へ二重線。
その下へ、自分の手で書き足す。
今夜配給。
一般開放。
子ども・怪我人優先。
いい。
かなりいい。
俺はさらに、兵糧札の束も差し出した。
「これもです」
「何だ」
「明朝札は、今夜分に振り替えてください」
ガルドは本気で嫌そうな顔をした。
だが、もう遅い。
「……嫌な兵站城主だ」
「見ればわかります」
札にも、書く。
今夜有効。
それで十分だ。
兵が列を組み直す。
今度は、こっちの鍋へ向かう列だ。
メイナが、浴場棟の入口から叫ぶ。
「怪我人と熱のあるやつ、先!」
マルタも負けない。
「鍋は二列! 豆と塩肉、先に食ってから湯へ行け!」
橋番上がりの若い衆が、給金庫の横へ小机を出す。
ミレイユがすかさず帳簿を開く。
「前線給金確認机、出します」
「開けますか?」
俺が聞くと、彼女はにやっと笑った。
「今日ここで開けないと、話が弱いでしょう」
その通りだ。
給金庫を開ける。
鉄帯。
二重封印。
中には銀袋。
銅貨束。
暖房石引換札。
寝台割当札まであった。
やはりだ。
腹も、湯も、寝台も、全部ここで縛っていた。
ノイルが塔から降りてきて、箱の中を見て本気で目を丸くした。
「……うわ」
「見ればわかります」
「見えますけど、やっぱうわって言いたいです」
若い親衛隊長のその感想は、とても正しい。
俺は、銀袋を一つ持ち上げた。
兵たちが見る。
本営兵も。
第八側も。
商人も。
全員が見る。
「今夜の鍋と湯と寝台は、ここからも出る」
俺は言った。
「ただし、先に運んだやつからだ」
ざわめきが走る。
そしてまた、人が動く。
兵糧袋。
暖房石。
布束。
全部が、こっちの側へ流れ込む。
もう止まらない。
ガルドは、その流れを見ているしかなかった。
暖かい場所を囲っていた男が、
その暖かさを人前で開かされている。
悪くない。
どころじゃない。
かなり気分がいい。
その時、
橋頭堡の方角から、青銀の小旗が見えた。
司令部の使者だろう。
まだ遠い。
だが、こっちの補給塔の灯はもう南へ返っている。
見える。
十分に見える。
セレナが低く言う。
「勝ったな」
「ええ」
「まだ紙は来てないぞ」
「でも、腹は折れました」
ガルドの前にある配給札。
自分で引いた二重線。
今夜有効の書き込み。
それを見れば、もう十分だ。
主車。
浴場車。
第三寝台車。
前線本市。
旧前線大浴場。
補給塔。
給金庫。
全部、こっち側へ噛み合った。
だったら次は、
これを正式な権利へ変えるだけでいい。
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