第68話 旧前線大浴場開放、暖かい方へ兵も商人も流れ込む

 大きい風呂は、半分軍だ。


 湯が多い側へ、

 人も、

 金も、

 忠誠まで流れるからだ。



 前線本市へ停止命令が出た翌朝、

 橋頭堡の空気は、妙に乾いていた。


 補給塔一号の灯は生きている。


 橋の暖橋壺も残っている。


 だが、向こうの本営側から来る兵の顔色が、昨日よりさらに悪い。


 湯気を見ている目だ。


 浴場棟の方を見る目じゃない。


 こっちの湯を見ている目だ。


 悪くない。


 こういう顔は、かなり強い。



 フェルドが、補給塔の影で小さく言った。



「本営の大浴場、まだ生きてる」



 俺はすぐに顔を向ける。



「どのくらいです」



「完全じゃない」


「だが、守備監ガルドの近習と帳場役だけは入ってる」



 一拍置いて、痩せた補給下役は続けた。



「一般兵は外で待たされる」


「湯代も取る」


「暖房石も別」


「薬湯は士官だけだ」



 上出来だ。


 つまり、壊れていない。


 しかも、欲しいやつはもう並んでいる。



 セレナが槍を肩へ担ぎ直す。



「今日やるのか」



「ええ」



 俺は答える。



「紙で止められないなら、もっと大きい湯を開けます」



 ガレスが笑う。



「話が単純でいいな」



「暖かい方へ流れるだけです」



「だろうな」



 ノイルは白毛皮の親衛外套を着たまま、まだ少し半信半疑の顔だった。



「兵站城主」



「何です」



「士官浴場棟でも十分すごかったですよね」



「ええ」



「さらにでかいんですか」



「かなり」



「……ちょっと見たいです」



「正常です」



 悪くない反応だ。



 浴場車を出す。


 第八湯。


 暖房石箱。


 洗濯桶。


 乾燥布。


 医療箱。


 さらに、主車から大浴場棟の古地図を持つ。


 今日はこれで十分だ。


 戦うためじゃない。


 見せつけるための荷だ。



 前線本営の大浴場棟は、橋頭堡からさらに北へ少し歩いた石棟だった。


 大きい。


 士官浴場棟の二倍ではきかない。


 低く広い石壁。


 煙抜き塔が三つ。


 横には洗濯場。


 その奥には温石室らしい丸い張り出し。


 裏手に、乾燥棚用の長屋まである。


 かなりいい。


 いや、素直に最高だ。



 そして、入口にはちゃんと列があった。


 本営兵。


 荷引き。


 歩荷。


 それに、小銭を握った商人まで混じっている。


 だが正面の板札がひどい。



 士官湯 一回 銀貨二枚

 一般湯 一回 銀貨一枚

 暖房石 一つ 銅貨五枚

 洗濯桶 銅貨五枚

 薬湯 士官のみ

 子ども半額



 高い。


 しかも、露骨だ。


 湯そのものを絞って抜いている顔だ。



 入口脇には、腹の出た湯番頭がいた。


 厚い毛皮。


 きれいな指。


 腹だけ暖かそうな顔だ。



「何だ、お前ら」



 俺たちを見るなり、嫌そうに言う。



「兵站城主カイル・ルーヴェンです」



「知るか」


「ここは本営大浴場だ」


「一般は列に並べ」



 フェルドが、そこで低く吐き捨てた。



「列に並んでも入れねえよ」


「暖房石が尽きたとか言って、最後には追い返す」



 湯番頭の顔が歪む。



「補給下役風情が」



「風情で結構です」



 俺は答えた。



「その代わり、今日は開けます」



 湯番頭が鼻で笑う。



「勝手に?」


「鍋場の湯車で?」



 その言い方は、かなり良かった。


 こっちを軽く見ている。


 その方がやりやすい。



 俺は大浴場棟の側面へ回った。


 古地図で見た通り、

 裏手に細い点検口がある。


 メイナがすぐにしゃがみ込んだ。



「ここ」



 若い救護長は、指で古い鉄蓋を叩く。



「湯路の呼び込み口」



「生きてますか」



「半分」



「十分です」



 《野戦工房》を流す。


 鉄蓋の蝶番を起こす。


 浴場車の湯路をつなぐ。


 暖房石を二つ、

 古い湯沸かし炉の脇へ入れる。


 油壺を一本だけ差す。


 これで呼び水は足りる。



 ブラムが浴場車を寄せる。


 主車側からはメイナが医療箱を運び込み、

 ノイルは乾燥布と札板を抱えて走った。


 動きが速い。


 ちゃんと“開ける側”の動きだ。



「兵站城主」



 ノイルが息を弾ませる。



「札、どうします」



「先にこれです」



 木札を三枚、すぐに切る。



 前線大浴場札 一人 銀貨一枚

 兵湯札 一人 銅貨八枚

 洗濯札 一回 銅貨五枚

 温石室札 一回 銅貨五枚

 湯薬札 一人 銀貨二枚

 子ども・怪我人 応急分無料



 ミレイユが、もう笑っていた。



「やっぱりそう来ますよね」



「列が見えるので」



「好きです」



「どうぞ」



 彼女はそのまま、札机を入口の正面へ据えた。



「兵湯札こっち!」


「洗濯と温石室は別です!」


「薬湯と寝台の相談も受けます!」



 強い。


 開ける前から値札が立つと、

 人はだいたい“本当に開くのか”より“どれを買うか”を考え始める。



 その瞬間だ。


 湯路の奥で、ごぼり、と重い音がした。


 古い石棟が、一度だけ咳をするみたいに震える。


 次に、煙抜き塔の一つから、細い白が上がった。


 湯気だ。


 列がざわめく。



「おい……」



「煙だ」



「本当にやるのか?」



 湯番頭の顔が初めて動いた。



「な、何をした」



「仕事です」



 俺は即答した。



「暖かい方を増やしました」



 点検口の中で、古い湯路が生き返る。


 浴場車の湯が、石棟の主槽へ流れ込み、

 死んでいた副槽まで順番に温まり始める。


 メイナが走って中を確認し、

 すぐに親指を立てた。



「主槽、入れる!」


「温石室、半分だけ生きた!」


「洗濯槽も使える!」



 十分だ。


 いや、十分すぎる。



 俺は湯番頭の立っていた入口板札の横に、新しい札を打つ。



 旧前線大浴場 本日開放

 兵湯札 銅貨八枚

 子ども・怪我人 応急分無料



 湯番頭が真っ赤になる。



「勝手なことをするな!」



「今、誰が止めます」



 俺が聞くと、列の兵たちがそろって顔を上げた。


 湯番頭の後ろに立っていた本営兵ですら、もう視線はこっちの札机へ行っている。



 痩せた本営兵の一人が、

 小さく言った。



「……銅貨八枚なら入れる」



 次に、荷引きの男が続く。



「俺もだ」



 商人が、銀貨を出す。



「洗濯も付ける」



 いい。


 流れが変わった。



 ミレイユが、待ってましたとばかりに木札を切る。



「兵湯札、一枚!」


「洗濯札、一枚!」


「温石室はあと四!」



 銅貨が落ちる。


 銀貨も落ちる。


 湯が立つ前から、もう落ちる。



 強い。


 かなりではなく、

 本当に強い。



 最初に中へ入れたのは、昨日橋を渡ってきた母親と子どもだった。


 それから、凍傷の残る歩荷。


 肩に傷のある残兵。


 後ろでは、本営兵まで列に混じっている。



 ノイルが札を受け取りながら、半ば呆然とした顔で聞いてきた。



「兵站城主」



「何です」



「本営の兵も切ってます」



「見ればわかります」



「怒られませんか」



「今は暖かい方が勝つので」



「……すごいな」



 若い親衛隊長は、本当に感心した顔だった。



 温石室も効いた。


 暖房石を抱いて震えていた年寄りが、

 丸い石室へ入ってしばらくすると、顔色が戻る。


 洗濯槽には、商人の布と兵の包帯が一緒に浸かる。


 乾燥棚には、濡れた外套が並ぶ。



 メイナは、湯薬札を切ったやつらにだけ凍傷油と熱冷ましを渡した。



「湯だけじゃ戻らないやつはこっち」


「薬は飲む」


「飲んだら寝る」



 若い救護長の声は強かった。


 場が回る声だ。


 いい。


 かなりいい。



 その頃には、湯番頭の周りから人がいなくなっていた。


 板札だけが残る。


 銀貨二枚の士官湯。


 今はだれも見ない札だ。



「兵站城主」



 フェルドが、入口の脇で小さく笑った。



「見たか」



「何をです」



「本営の兵、向こうの札よりこっちの銅貨八枚見てる」



「ええ」



「守備監ガルドが一番嫌う流れだ」



 好きだ。


 そういう情報は好きだ。



 その時、

 橋の南から来た隊商が三台、浴場棟前で止まった。


 エルザもいた。


 毛皮商の番頭は、湯気を見た瞬間に歩く速度が変わる。



「本当に開けたのね」



「ええ」



「でかいわね」



「かなり」



「小室はないの?」



「今日は一般開放です」



「じゃあ洗濯札と温石室を先に取る」



 彼女は迷いなく銀貨を出す。


 薬商隊の主も続く。



「湯薬札を二」


「寝台はあとで相談する」



 ミレイユがすぐに新しい板を足した。



 大浴場通し札

 湯・洗濯・温石室 一人 銀貨二枚



 強い。


 露骨だ。


 だが、こういう日は露骨な方が勝つ。



「兵站城主」



 ミレイユが少しだけ楽しそうに言う。



「これ、かなり出ますよ」



「ええ」



「湯だけじゃなく、洗って乾かして温めるまで一枚で済むので」



「人はまとめ札が好きです」



「商人もです」



 銀貨がまた落ちる。


 隊商主がその場で通し札を四枚切る。


 歩荷が銅貨をかき集めて兵湯札に変える。


 本営兵まで混じる。


 露骨だ。


 だが、その露骨さがいい。



 浴場棟の石床は次第に人の熱を持ち、

 洗濯場の桶は休みなく動き、

 乾燥棚には白い湯気がまとわりつく。



 そして、その流れを見ている目があった。


 オルネスだ。


 昨日、前線本市停止命令を持ってきた守備監付き書記。


 今日は橋の北から来て、

 大浴場棟前の列を見て、完全に顔が死んでいた。



「……何をしている」



 声が細い。



「見ればわかるでしょう」



 俺は答えた。



「暖かい方へ流れてます」



 オルネスの視線が、本営兵の列で止まる。


 実際、そうだった。


 向こうの兵が、

 銅貨八枚を握って、

 こっちの湯札札机へ並んでいる。


 白布も何も持っていない。


 ただ、湯に入りたい顔で来ている。



「戻れ!」



 オルネスが怒鳴る。



「守備監殿の命令だ!」



 だが、列の先頭にいた痩せた本営兵は、振り向きもしなかった。



「湯札、一枚」



 それだけ言って、銅貨を机へ置く。


 ミレイユが即座に札を渡す。



「兵湯札です」


「次どうぞ」



 終わりだ。


 紙の命令より、今は銅貨八枚の湯の方が強い。



 セレナが横で低く言った。



「流れたな」



「ええ」



 俺は答えた。



「兵も」


「商人も」


「荷もです」



 その時、ノイルが少し離れたところで、妙に真面目な顔をしていた。


 見ると、若い行商娘が湯札を握ったまま困っている。


 温石室の場所がわからないらしい。


 若い親衛隊長は、一号室の鍵を腰に下げたまま、きちんと案内している。



「こっちです」


「濡れた靴はそこ」


「乾燥棚は奥」



 行商娘が小さく笑った。



「隊長さん、こういうの慣れてるね」



 ノイルの耳が少し赤くなる。


 だが、案内は止まらない。


 悪くない。


 ちゃんと“見られる役”の顔になってきた。



 午後には、本営側からさらに人が流れてきた。


 残兵。


 荷引き。


 薬を欲しがるやつ。


 毛布を乾かしたいやつ。


 みんな、結局は同じ顔だった。



 暖かい方がいい。


 寝られる方がいい。


 洗える方がいい。


 薬がある方がいい。



 それだけだ。


 だが、それが一番強い。



 ミレイユが夕方の帳簿を持ってくる。



「兵站城主」



「何です」



「大浴場札と通し札だけで、銀貨十七」


「洗濯と温石室でさらに銀貨六」


「湯薬札が九」


「かなりいいです」



「上出来ですね」



「しかも、本営側の兵が三割混じってます」



「露骨ですね」



「ええ」



 彼女は、橋の北側を顎で示した。



「向こう、今夜の夜番が足りなくなるんじゃないですか」



 十分ありえる。


 湯と寝台に人を取られると、

 意外なくらい簡単に守りは薄くなる。



 フェルドが、浴場棟の柱にもたれたまま言う。



「今の守備監ガルドは、暖かい場所と給金で兵を縛ってる」



「湯まで取られたら?」



 俺が聞くと、痩せた補給下役は短く答えた。



「次は給金庫だ」



 いい。


 欲しかった答えだ。



 橋。


 貯蔵庫。


 浴場。


 寝台。


 ここまで取れば、次に残る“腹”は一つしかない。



 補給塔と給金庫。


 本営の中心だ。



 オルネスは、最後まで列の減らない湯札机を見て、

 それから本営側へ引き返していった。


 顔が完全に悪かった。


 よろしい。



 夕方の湯気は、朝より濃かった。


 石槽に肩まで浸かる兵。


 洗濯槽で布を揉む商人。


 温石室で眠りかける年寄り。


 乾燥棚へ並ぶ外套。


 そして、札机へ落ちる銀貨と銅貨。



 全部が、暖かい方へ流れていた。



 だったら次は、

 本営の腹そのもの――補給塔と給金庫を奪えばいい。

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