第67話 前線本市、雪原の真ん中で湯札と薬札と護衛席が飛ぶように売れる

 市は、

 通り道の上に立てるより、

 止まらざるをえない場所の上に立てた方が強い。


 橋があり、

 湯があり、

 寝台があり、

 薬まであるなら、

 なおさらだ。



 橋頭堡と補給塔一号の間の雪原へ、

 最初の板を立てたのは、その翌朝だった。


 風は冷たい。


 だが、

 橋の灯はまだ生きている。


 士官浴場棟の湯気も立っている。


 士官寝台室の窓も曇っている。


 悪くない。


 いや、かなりではなく、

 素直に強い場所だ。



「兵站城主」



 ノイルが、白毛皮の親衛外套を着たまま板を抱えてくる。



「何です」



「名前、これでいいんですか」



 板には、ミレイユの字で大きくこう書いてあった。



 前線本市



「わかりやすいですね」


「そのためにやってるので」


「好きです」


「どうぞ」



 若い親衛隊長は少しだけ笑ってから、板を雪へ打ち込んだ。



 前線本市。


 橋の南から来る商人にも、

 北の吹き溜まりから流れてくる遠征民にも、

 一目で意味がわかる名前だ。


 悪くない。



 ミレイユは、もう次の札を並べていた。


 しかも、相変わらず露骨に強い。



 橋通行札 一人 銅貨八枚

 士官浴場札 一人 銀貨一枚

 毛布札 一枚 銅貨五枚

 暖房石札 一つ 銅貨五枚

 薬札 一件 銀貨二枚

 金庫預かり札 銀貨二枚から

 前線通し札 橋・湯・寝台 一人 銀貨三枚

 親衛護衛席 一人 銀貨二枚

 主車同乗席 要相談

 子ども・怪我人 応急分無料



「増えましたね」


 俺が言うと、ミレイユは平然と答えた。



「橋と湯と寝台が別だと迷うので」


「通し札にした方が早い」


「人は迷うと財布を閉じます」



 好きな商人だ。


 本当に仕事が早い。



 メイナは、その横にもっと簡潔な板を立てた。



 前線救護机

 凍傷

 切傷

 熱

 応急薬あり



「これで十分ですか」


 俺が聞くと、若い衛生番は鼻先で笑う。



「十分じゃない」


「でも、まずは読めればいい」


「読めたら並ぶ」



 その通りだ。



 ブラムは冬戦馬を橋の脇へつなぎ、

 大きな桶と蹄油箱を前へ出していた。



 冬戦馬世話札 一頭 銅貨五枚

 蹄油札 一頭 銅貨五枚

 雪道用鼻縄 銅貨三枚



「商売ですね」


 俺が言うと、馬場頭は肩をすくめた。



「腹が減るのは人だけじゃねえ」


「馬も金を落とすなら、世話した方がいい」



 悪くない。


 むしろ、そういうのは強い。



 午前の一番目に橋を渡ってきたのは、

 南からの布車と、

 北から戻る歩荷の群れだった。


 布車の御者は、前線本市の板を見た瞬間に馬を止める。



「……もう市になってるのか」



「見ればわかります」


 俺が答えると、男は浴場棟の湯気と寝台室の窓を見て、すぐに銀貨を出した。



「前線通し札、三」


「女房と息子の分もだ」


「主車同乗は要らない」



 早い。


 助かる。


 こういう客は、こちらの値段の意味がわかる。



 次に来た歩荷の一団はもっと露骨だった。


 雪と汗で顔が死んでいる。


 だが湯気を見た瞬間、喉が動いた。



「湯、あるのか」


「あります」


「寝台は」


「銀貨一枚で一夜です」


「薬は」


「症状次第です」


「……通し札にしろ」


「橋と湯と寝台、全部だ」



 銅貨と銀貨が落ちる。


 橋の南でも北でも、

 やっぱり人は同じだ。


 渡れる。

 温まれる。

 眠れる。


 その三つが見えた瞬間に財布が開く。



 ノイルは、もうすっかり前線本市の顔になっていた。



「橋通行は右です!」


「通し札はこっち!」


「湯は先に子どもと怪我人!」


「寝台は番号順です!」



 若い女の歩荷が、札を受け取りながら小さく笑う。



「ちゃんとしてるね、隊長さん」



 ノイルの耳が少し赤くなる。


 だが、今日は手が止まらない。


 いい。


 だいぶいい。



 エルザは、布車より早く歩いてきた。


 灰色の外套を翻して、

 前線本市の板と、前線通し札の板を一度ずつ見てから金貨を置く。



「橋の北で毛皮を開く」


「先に席を押さえる」


「前線通し札、六」


「小室一」


「金庫預かり二箱」



「一気ですね」


 俺が言うと、毛皮商は肩をすくめた。



「昨日の夜を見たもの」


「迷ってる方が高くつく」



 フリッツも、少し遅れて同じ顔で来た。



「前線護衛相談」


「毛皮二、薬草一、歩荷七」


「橋の北で一晩止まる」



 ミレイユが、すぐに前受の帳簿を引く。



「親衛護衛席、何枠にします?」



「二だな」


「一人銀貨二枚です」



「安い」



 やはり商人の顔はいい。


 高いものを見た時に、逆に喜ぶやつの顔だ。



 その頃には、

 橋の向こうの北側からも人が寄ってき始めていた。


 遠征民。


 細い荷車。


 残兵。


 薬箱持ち。


 しかも中には、ちゃんと旧前線本営の外套を着ているやつまでいる。


 補給塔の灯と、

 前線本市の板を見て寄ってきたのだろう。



 その中の一人が、

 救護机の前で声をひそめるように聞いた。



「……本営の人間でも、薬札は切れるか」



 メイナは顔も上げなかった。



「払うか、働くなら」



 男は少しだけ固まり、

 それから銅貨を三枚、銀貨を一枚、机へ置いた。



「熱と咳だ」


「湯もいる」


「寝台も一つ」



 若い衛生番はそこで初めて顔を上げる。



「本営の医務室は?」



 男は苦い顔で笑った。



「将校が先だ」


「大浴場も」


「士官棟もだ」



 悪くない。


 情報としてはかなり悪くない。



 そのやり取りを聞いていた歩荷たちが、

 すぐに湯札の列へ寄った。


 暖かい方へ流れる。


 やはりそうなる。



 俺はすぐに新しい板を一枚足した。



 前線湯・薬札

 湯と応急薬 一人 銀貨二枚



 ミレイユが、ちらりとこちらを見る。



「早いですね」


「一緒に欲しがってる顔なので」


「商売人ですね」


「最近そう言われます」



 昼前には、前線本市の中央が完全に詰まった。


 橋通行札。


 通し札。


 薬札。


 毛布札。


 金庫預かり札。


 親衛護衛席。


 どれもちゃんと列になる。


 しかも、列の種類ごとに顔が違う。


 橋だけを急ぐ顔。


 湯が欲しい顔。


 薬が欲しい顔。


 席を押さえたい顔。


 どこへどう効いているかが、見ていてよくわかる。


 こういう市場は強い。



「兵站城主」



 ミレイユが、かなり楽しそうな顔で帳簿を持ってくる。



「見てください」



「見てます」



「橋通行札、午前だけで二十七」


「通し札が十四」


「薬札と湯薬札で十一」


「親衛護衛席が四」


「主車同乗相談が二」



「上出来ですね」


「悪くありません」


「どころじゃないです」


「この勢いなら、昼のうちに銀貨二十は越えます」



 悪くない。


 橋が通るだけでも強いのに、

 湯と寝台と薬まで同じ場所にあると、やはり一段違う。



 ノイルは、親衛護衛席の札束を抱えたまま言う。



「兵站城主」



「何です」



「席って売れるんですね」



「暖かい席は特に」



「主車の席なんて、金貨でも取りたい人いますよ」



「そうでしょうね」



「俺、まだ主車って聞くだけでちょっと嬉しいです」



 若い隊長のその感想は、だいぶ素直でいい。


 主車。


 士官寝台。


 前線湯。


 そういう響きに価値が乗っている。


 そこへ金を払う客がいるなら、なおさら強い。



 その時だった。


 橋の北から、痩せた兵が二人、そっと歩いてきた。


 旧前線本営の外套。


 雪鎖騎兵ではない。


 歩兵だ。


 だが、腰が落ちている。


 腹の減った顔だ。



「湯札だけでも、切れるか」



 一人が言う。


 声は低い。


 周囲を気にしている。


 メイナが、机の上の銀貨と銅貨を見る。



「払うなら」



「銅貨しかない」



「銅貨八枚で湯だけなら」



 男たちは顔を見合わせ、

 すぐに銅貨を出した。


 それで十分だ。


 本営の兵が、こっちの湯に金を落とした。


 これが強い。



 ブラムが、横で鼻を鳴らす。



「馬だけじゃねえな」


「人も流れてます」


「そりゃあっちは冷えてるからな」



 そういうことだ。


 向こうの統制が、こっちの湯と寝台に負け始めている。



 その時、

 橋の南側で少しだけざわめきが起きた。


 黒い外套。


 細い杖。


 印箱持ち。


 商人でも兵でもない。


 書記だ。


 それも、上のやつの書記だ。



 そいつは前線本市の列を見て、

 浴場棟の湯気を見て、

 士官寝台室へ入っていく人影を見て、

 最後に前線本市の板で顔をしかめた。



「兵站城主カイル・ルーヴェンか」



 声は細い。


 だが、紙の匂いのする声だ。



「そうですが」



 俺が答えると、

 男は胸から巻紙を取り出した。



「旧前線守備監ガルド・ハイゼン付き書記、オルネスだ」



 巻紙を開く。



「守備監命令」



 一拍置く。



「無断前線市停止」


「橋通行札、湯札、寝台札、薬札、護衛席、金庫預かり、すべて本営許可なくして販売禁止」



 前線本市の空気が、すっと冷えた。


 客が止まる。


 札を持つ手も止まる。


 商人の列も、一度だけ静まった。



 オルネスは、そこでさらに言った。



「従わない場合、橋頭堡と補給塔一号の使用権を停止」


「士官浴場棟と士官寝台室は本営が接収する」



 いい。


 やはり来た。


 しかも、欲しい物しか言わない。


 湯。


 寝台。


 橋。


 補給塔。


 全部、向こうも価値がわかっている。



 ミレイユが、横で小さく息を吐く。



「来ましたね」


「ええ」


「面倒です」


「でしょうね」



 オルネスは、少しだけ得意そうな顔をした。



「本営守備監の権限は重い」


「前線本市など、紙一枚で消える」



 その言い方が気に入らなかったのか、

 エルザが真っ先に口を挟んだ。



「そうでもないわよ」



 灰色の外套を整えながら、

 毛皮商は前へ出る。



「私はもう前受を払ってる」



「湯札も寝台札も、金庫預かりもね」


「止めるなら返しなさい」



 フリッツも続く。



「橋を止めるなら、南から来た荷も全部お前持ちか」


「面白えな」



 オルネスの顔が少しだけ引きつる。


 いい。



 俺は巻紙を受け取り、

 一読してから返した。



「まだ止めません」



 オルネスが眉を上げる。



「何?」



「橋も湯も寝台も、今日もう動いているので」


「動いていれば止められないと?」



「止めるなら、今ここで暖かい席と薬と預かり箱の代わりを出してください」



 前線本市の客たちが、今度は完全にこちらを見る。


 そうだ。


 紙だけじゃ足りない。


 暖かい物の代わりを出せるか。


 そこが勝負だ。



 オルネスは何も言わなかった。


 というより、言えない。


 主のガルドが囲っている暖かい場所は、

 本営の中だけだ。


 橋の上や、道の途中や、今この場での代わりまでは出せない。



 なら、次だ。



 俺は懐から、士官浴場棟主鍵と、

 昨日主車で見つけた古地図の写しを出した。


 雪原のさらに北。


 旧前線大浴場棟。


 大きく、太い建物だ。



 オルネスの目が、そこでほんのわずかに動いた。


 いい反応だ。



「兵站城主」



 ノイルが、小さく言う。



「その地図って」



「ええ」



 俺は答えた。



「次の当たりです」



 オルネスは、その意味がわかったらしい。


 青ざめた顔で一歩だけ下がる。



「……まさか」



「まだです」



 俺は前線本市の板と、

 湯気の立つ士官浴場棟と、

 列の止まった客たちを見回した。



 ここで小さい市を止めたいなら、

 じゃあ次はもっと大きい湯を開ければいい。



 単純だ。


 かなり単純で、

 かなり効く。



「副司令」



「何だ」



「次は大浴場です」



 セレナの目が、ゆっくり細くなる。



「あの本営のか」



「ええ」



「兵も商人も、もっと流れるぞ」



「そのためにやります」



 オルネスの顔が、完全に変わった。


 紙で勝っていた顔じゃない。


 暖かいものを失いかけた顔だ。



 いい。


 その顔が見たかった。



 だったら次は、

 旧前線大浴場棟そのものを開けて、

 暖かい方へ兵も商人もまとめて流れ込ませればいい。

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