第10話 元婚約者に、拘束命令へ自分で二重線を引かせる

 白旗は、だいたい紙の匂いがする。


 剣を隠して、命令書だけ前に出す連中は、

 たいていその紙で人を消そうとする。


 リディアが第八砦へ来た日の正午、

 南庭にはもう、二つの屋台が立っていた。



 白地に青の天秤旗。

 ロスタ商会の臨時交換所だ。


 給金を受け取った兵たちが、

 針と糸を買い、油を買い、紙を買い、

 ついでに家へ送る手紙を書いている。



 鍋からは豆と塩肉の匂い。

 壁の上では釘を打つ音。

 医務室の前では包帯が乾いている。


 二日前まで死にかけていた砦としては、

 かなり生意気な景色だ。



 そこへ、白旗付きの騎馬と馬車が止まった。


 護衛十。

 書記二。

 そして、灰青色の会計官外套を着た女が一人。


 リディアだ。


 王都ではいつも整っていた髪も、

 今日は風に少しだけ乱れていた。



 だが目はすぐに、俺じゃなく、

 南庭の屋台と、並ぶ兵と、掲示板へ走った。


 まずそこを見る。


 そういう女だった。



「……何、これ」



 最初の一言がそれだった。



「生活です」



 俺は門前机の横で答えた。



「見ればわかるでしょう」


「あなたに聞いてないわ」


「でも答えます」



 リディアは、そこでようやく俺を見た。


 二秒。

 三秒。



 王都で俺を見ていた目じゃない。

 見下しでも、情でもない。


 計算が狂った時の目だ。



「入城記録をどうぞ」



 俺は机の上の帳簿を開いた。



「名前、所属、随伴人数、搬入荷車数、目的」


「私に、これを書けと言うの?」


「機能中の砦なので」



 護衛の一人が顔をしかめたが、

 セレナが槍を持ったまま一歩出る。



「ここは第八砦だ。手順に従え」



 リディアは唇を噛み、それでも書いた。



 王都第三遠征団会計官 リディア

 護衛十 書記二 荷車一

 目的――



 そこで、ペン先が少し止まる。


 俺が静かに促す。



「続きを」


「……名簿再査定、契約確認、補給主任拘束」



 いい。


 書かせた。


 俺は帳簿を閉じた。



「どうぞ」



 門が開く。


 リディアは中へ入った瞬間、顔をしかめた。


 鍋の匂い。

 湯気。

 人の声。

 銀貨の話。

 笑い声。



 死んだ砦に、こんな音はない。


 南庭の屋台では、ノイルが銀貨を握ったまま、

 妙に真面目な顔で便箋を選んでいた。



「これ、母ちゃんに送るやつです」


「封筒は?」



 ミレイユが聞く。



「一番丈夫なのください」


「銀貨一枚の手紙ですね」


「重い!」


「愛です」


「商売だろ」


「両方です」



 そのやり取りまで、リディアは聞いてしまったらしい。


 彼女の眉間が深く寄る。



「ふざけているの?」


「かなり本気です」



 俺は樽机へ紙を並べた。



 一枚目。

 ロスタ商会との正式契約書。


 二枚目。

 監査局印つき生存名簿。


 三枚目。

 支給官ロウェルの支給完了証。


 四枚目。

 第八砦余剰品加工目録。



 最後に、彼女が持ってきた拘束命令書。



「順番にやりましょう」



 俺は言った。



「まず契約無効化からでいいですか」


「当然よ」



 リディアはすぐに言った。



「この砦の物資は軍資産。商会契約は無効にできる」


「どの物資です?」


「全部よ」


「雑ですね」



 俺は余剰品加工目録を彼女の前に滑らせた。



「携帯炉。防水油。補修釘包。兵糧煉餅。狼皮処理品。全部、奪還済み目録へ記載後、戦利・余剰資材・加工賃を分けて記録してあります」


「そんな小細工――」


「小細工じゃありません」



 俺は指で時刻欄を叩く。



「契約締結は、あなたの先行監査便が動く前。監査局の印が入る前。入門記録、商会の写し、支給官の証言、全部あります」


「でも軍資産には違いない」


「生の物資ならそうです。でも今、商会が扱っているのは"加工された余剰品"です」



 俺は南庭を指した。


 そこでは小型の携帯炉が三つ並び、

 補修釘包が小分けで売られている。

 兵が給金で買って、

 自分の鎧や私物を直すための品だ。



「見ればわかるでしょう。軍の倉庫からそのまま抜いた荷じゃない。ここで作って、ここで値段をつけた物です」


「詭弁よ」


「会計官が言いますか」


「……っ」



 ミレイユが横で柔らかく笑った。



「補足します。ロスタ商会は"第八砦の余剰加工品"に対して前金を支払っています。原資は私の帳簿に残っています。無効にしたいなら、前金、履行分、逸失利益、全部そちら持ちでお願いします」


「商人風情が」


「契約相手ですので」



 いい。


 次は拘束だ。


 俺はリディアが持ってきた命令書を開いた。



「補給主任カイル・ルーヴェン拘束、ですね」


「そうよ」


「誰の権限で?」


「会計監査局補佐官として」


「補佐官に、人を縛る権限はありません」



 机の空気が、少しだけ止まる。


 リディアが目を見開いた。



「あるわ」


「ありません」



 俺は紙の下段を指した。



「拘束執行には、現地指揮官の承認、または北方防衛司令部の補助命令が必要。ここ、空欄です」


「それは緊急時の――」


「今は緊急時です。だからこそ空欄だと困る」



 セレナが一歩出た。



「第八砦副司令として言う。私は承認しない」


「あなたは現場の――」


「現場の指揮官だ」



 低い声で、はっきり言い切る。


 いい。


 リディアは一瞬だけセレナを睨み、

 すぐに俺へ視線を戻した。



「じゃあ、名簿再査定を先にするわ。あなたは死亡扱いから復帰していない」


「復帰しています」



 生存名簿を開く。

 その上に、バルト査察官の確認印。

 さらに、支給官ロウェルの支給完了証。



「監査局査察官バルト・ヘインズが、生存確認済みで印を押した」



 次に、支給証。



「その上で、支給官ロウェルが俺を補給主任として受領処理した」



 最後に、受領簿。



「そして第八砦全兵へ、俺の手で給金を配った」



 俺は紙を並べたまま言う。



「今さら俺を死亡扱いへ戻すなら、給金支給、契約、支給便受領、全部をあなた一人で差し戻すことになります」


「できるわ」


「では、どうぞ」



 俺は新しく一枚の紙を差し出した。



 第八砦における契約無効化・拘束執行・給金差戻しに関する

 会計官リディアの単独責任確認書



 リディアの喉が、目に見えて詰まった。



「……何よ、これ」


「今あなたがやろうとしていることを、まとめた紙です」


「ふざけてる」


「かなり本気です」



 ガレスが後ろで笑いを噛み殺す。



「補給主任、嫌な紙作るの上手くなったな」


「生活がかかっているので」


「便利だな、その言葉」



 リディアは紙を見たまま動かない。


 書けないのだ。


 ここで署名したら、全部一人で被る。

 署名しなければ、今の強気は紙にならない。


 俺は少しだけ声を落とした。



「リディア。話を単純にしましょう」



 彼女の肩がわずかに揺れる。


 昔みたいに名を呼ばれて、

 一瞬だけ王都の顔をした。


 だが、すぐ戻る。



「あなた、偉そうになったのね」


「違うよ」



 俺は静かに答えた。



「ようやく、俺の持ってる物が見えるところに並んだだけだ」



 湯。

 飯。

 包帯。

 給金。

 契約。

 兵。

 市。


 全部、この砦に並んでいる。


 王都では、帳簿の余白に押し込まれて見えなかっただけだ。


 リディアは短く息を吐いた。



「今ならまだ戻れるわ」


「どこに」


「王都へ。レイス様に頭を下げれば、全部を壊さずに済む」


「全部って、何を」


「あなたも、この砦も、私もよ!」



 そこで、少しだけわかった。


 この女は、最後まで俺を見ていない。


 自分の席と、

 自分の延命の形でしか見ていない。


 だったら、もう迷わない。



「それは違う」



 俺は言った。



「お前が守りたいのは、俺でも砦でもない。お前の席だ」


「……っ」


「俺はもう、お前の帳簿の余白じゃない」



 言い切る。


 その後ろで、ノイルが椀を持ったまま言った。



「補給主任、それ、めっちゃ格好いいです」


「食べながら言わないでください」


「はい!」



 空気が少しだけ緩む。


 いい。


 重くなりすぎると、切る時に鈍る。


 俺は最後の紙を出した。


 閲覧確認書。


 内容は単純だ。



 本日正午、会計官リディアは第八砦にて、

 生存名簿、支給完了証、給金受領簿、商会契約、余剰品加工目録を閲覧確認した。

 現時点で契約無効化および補給主任拘束は執行不能。

 再査定結果は王都へ持ち帰り、上位判断を仰ぐ。



「これに署名を」



 リディアが顔を上げる。



「拒否したら?」


「理由を別紙にどうぞ。自筆で」


「……本当に、嫌な男になったわね」


「最初からです」


「私は嫌いよ」


「知っています」



 少しの沈黙。


 南庭では、商会の護衛が新しい荷箱を運び始めていた。

 どうやら、リディアの一行を見て外で待っていた小商人まで、

「今日は商売になる」と踏んだらしい。


 白旗の向こうに、荷馬車がもう二台見える。


 いい景色だ。


 リディアは、それも見た。


 兵が銀貨を持っている。

 商人が寄ってくる。

 南庭に値札が立つ。



 ここを死んだ砦とは、もう言えない。


 彼女はついにペンを取った。


 震えてはいない。

 そこはさすがだった。


 だが、拘束命令書の「拘束執行」の文言へ、自分の手で二重線を引く時だけ、

 ほんの少しだけ筆圧が乱れた。



 その下に書き足す。


 現地確認の結果、執行不能。

 上位判断へ差戻し。


 最後に、閲覧確認書へ署名。



 リディア。


 乾いた音がした。

 紙で、人が戻る音だ。


 俺はその書類を受け取り、すぐにミレイユへ渡した。



「写しを三通」


「もちろん」



 彼女は楽しそうに笑う。



「北方防衛司令部、商人組合、あと宿場に一通でいいですか?」


「最高です」


「でしょう?」



 リディアの顔が白くなる。



「そこまでするの」


「します」



 俺は即答した。



「今ここで見たことを、広く残します。そうしないと、また死んだことにされるので」


「……あなた」


「かなりしつこいです」


「知ってるわよ」



 彼女はそれだけ言って、踵を返した。

 去り際、もう一度だけ振り向く。



「レイス様は来るわ」


「知ってる」


「五日後よ」


「遅いくらいです」



 そう答えると、彼女は何も返さなかった。


 白旗の列が門を出ていく。

 そのすぐ後ろから、待っていた小商人たちが、おそるおそる顔を覗かせた。


 布売り。

 鍛冶屋。

 干果物の行商。

 油売り。



 ミレイユが、待ってましたとばかりに手を叩く。



「はい、南庭開けて! 今日は第八砦の臨時市庭よ! 通行料は後払い、売上の一割、揉め事は補給主任か副司令へ!」


「俺ですか」


「あなたです」


「副司令でいいでしょう」


「値札が絡むと、あなたのほうが強いので」


「否定しにくいですね」



 セレナが呆れたように笑った。



「好きにしろ」


「ありがとうございます」



 南庭へ、荷が入る。

 布が吊られる。

 釘が売れる。

 鍋が増える。

 兵が銀貨を握って歩く。


 第八砦の中に、

 初めて"買い物の声"が混ざった。



 戦場の音じゃない。

 撤退前の砦の音でもない。


 人が住み着く場所の音だ。



 ノイルが、豆の椀を片手に叫ぶ。



「補給主任!」


「何です」


「これ、もう砦っていうか、ちょっと街っぽいです!」


「ええ」



 俺は南庭の屋台列を見た。



「だから次は、本当に街にします」



 ガレスが肩を鳴らす。



「砦の次は市か」


「市の次は、もっと強い壁です」


「欲張りだな」


「生活がかかっているので」



 セレナが槍を担ぎ直した。



「五日後には団長本隊だぞ」


「知っています」


「間に合うのか」


「間に合わせます」



 南庭。

 第二柵。

 常設の交換所。

 荷車置き場。

 鍛冶場の拡張。


 レイスが来る前に、

 砦を"落とせば終わる場所"から、

"人と金が集まる前線拠点"へ変える。


 そのほうが、奪い返す側は面倒だ。


 かなり面倒になる。



「全員聞け!」



 俺は南庭へ向かって声を張った。


 兵が振り向く。

 商人が止まる。

 湯気の向こうで、イネスまで顔を上げた。



「元婚約者の紙は引っ込めさせた! 次は団長本人だ! その前に南庭を開く! 第二柵を立てる! 荷車置き場を作る! 第八砦を、落としただけじゃ終わらない場所に変える!」



 ざわめきのあと、

 槍の石突きが鳴る。


 一つ。

 二つ。

 すぐに数が増えた。


 いい音だ。


 落城寸前の第八砦は、

 この日初めて、

"砦"だけじゃ足りない音を持った。


 市の音だ。


 俺たちはもう、

 守るだけじゃない。


 ここから先は、

 人と金と物資を引き寄せる側になる。


 ――第一章・北辺第八砦編 了


――――

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!


第1章「北辺第八砦編」はここで一区切りです。

落城寸前の砦を、ようやく"立ち上がる場所"にできました。


もしここまで読んで、

「この補給係、かなり好き」

「ここからの成り上がりも見たい」

と思っていただけたら、★で応援してもらえるとめちゃくちゃ嬉しいです。


いただいた反応が、そのまま次章の燃料になります。


次は、人も金も寄ってくる"市塞"に変わっていきます。

ここからさらに気持ちいい上昇を入れていくので、続きもぜひよろしくお願いします!

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