第9話 銀貨は死んだ兵を起こす、給金箱をその夜に開ける

 銀貨の音は、死体扱いを一番早くひっくり返す。


 給金箱が第八砦の門をくぐった瞬間、

 見張り台の兵が、半ば裏返った声で叫んだ。



「給金箱だ!」



 一拍遅れて、もっと大きな声。



「豆もあるぞ! 鉄もだ!」



 門の内側が、一気に騒がしくなる。


 夜だ。

 本来なら、静かに荷を下ろして終わる時間だ。


 だが、銀貨と豆は人を寝かせない。



「中庭へ」



 俺はすぐに言った。



「給金箱は倉庫じゃない。机の前へ。豆は鍋へ。鉄塊は壁沿いに。麻布は医務室」


「今から配るのか?」



 ロウェル支給官が、少し呆れた顔で聞いた。

 彼はそのまま砦まで同行してきている。

 襲撃を受けた以上、空で帰るよりこっちのほうが安全だと判断したからだ。



「今からです」


「夜だぞ」


「だからです」



 俺は給金箱の鉄帯を軽く叩いた。



「こういうのは、戻った日に音を聞かせたほうが効く」



 ガレス軍曹が大笑いした。



「好きだぜ、その理屈!」


「軍曹、机を出してください。長いのを二つ」


「はいはい、死体だったはずの軍曹が働きますよ」



 セレナが槍の石突きを鳴らす。



「全員聞け! 給金の受領を今夜やる! 並べ! 騒げ! だが順番は守れ!」



 兵たちがどっと動き出す。


 いい顔だ。


 灰爪渓谷へ出なかった連中まで、目が光っている。

 無理もない。

 昨日まで自分の名前が死亡草案に載っていたのだ。

 そこへ今夜、給金箱が帰ってきた。


 効かないわけがない。


 俺は中庭の真ん中へ長机を二つ並べさせた。


 左に、生存名簿。

 その隣に、監査局印つきの請求控え。

 さらに、ロウェル支給官の支給台帳。

 右には、受領簿。


 紙が多い。


 だが、こういう日は紙が強い。



 ミレイユが机の端へ寄ってきて、箱の中を覗き込んだ。



「いいですね、その並び」


「何がです」


「生きている名簿、監査印、支給台帳、受領簿。商人から見ると、かなり美しいです」


「俺も好きです」


「でしょうね」



 彼女はそのまま後ろへ振り返った。



「ロスタ商会、両替机を出して」


「もう商売ですか」


「こういう夜は稼ぎ時なので」



 本当に抜け目がない。


 だが、悪くない。

 むしろ助かる。


 給金を配るなら、小銀貨や銅貨への両替もいる。

 ついでに、家族宛ての送金も回せれば最高だ。



「手数料は」



 俺が聞く。



「銀貨一枚」


「高い」


「夜中です」


「銅貨六枚」


「安い」


「今後三十日、砦の第一交渉権」


「もう持ってますよ」


「じゃあ負傷兵を優先で」


「……銅貨六枚、手紙一通込み。負傷兵は三枚」


「いいでしょう」


「好きですよ、そういう汚い値切り方」


「生活がかかっているので」


「便利ですね、その言葉」



 交渉成立だ。


 俺はロウェルへ向き直った。



「始めましょう」


「いいだろう」



 支給官は帳簿箱を開き、名前を読み上げ始めた。



「ガレス・ボーデン」


「おう」



 軍曹が机の前へ立つ。


 ロウェルが台帳を追い、眉を上げた。



「軍曹。未払い二か月、北辺危険手当、渓谷救援の前渡し差引後……大銀貨一枚、銀貨四枚」


「悪くねえ」



 ガレスは受け取った銀貨を、わざと耳元で鳴らした。



「いい音だ」


「聞かせるために今夜やってます」


「やっぱお前、性格悪いな」


「最初からです」



 笑いが起きる。


 次はセレナ。



「セレナ・アルヴェイン」


「はい」



 副司令は無駄なく前へ出た。



「副司令職加算、危険手当、未払い補填。大銀貨二枚、銀貨三枚」


「確認した」



 彼女は受領簿へ署名し、銀貨をすぐ腰袋へ入れる。



「補給主任」


「何です」


「明日、兵に酒を出すなよ」


「豆を出します」


「それならいい」



 その返しに、兵たちがまた笑った。


 配布は続く。


 槍兵。

 弓兵。

 補修班。

 炊事番。

 見張り。


 名前が呼ばれるたび、前へ出て、受け取り、受領簿へ署名か指印を残す。


 銀貨六枚。

 銀貨七枚。

 負傷手当込みで八枚。


 大金じゃない。

 だが、軽くもない。



 若い兵の一人が、受け取った銀貨を見て呟いた。



「……今月、母ちゃんに靴買えます」


「買ってください」



 俺は言う。



「あと冬前に一回、手紙も」


「はい」



 別の兵は、銅貨束まできっちり数えてから、深く息を吐いた。



「借金が半分消える……」


「全部じゃないんですか」


「全部は次で消します」


「いい目標です」



 笑いと一緒に、空気が少しずつ変わる。


 死にかけの砦の空気じゃない。


 働けば戻る。

 生きていれば貰える。

 自分の名前で金が動く。


 そういう場所の空気だ。



 その時、ロウェルが一か所で手を止めた。



「……待て。六人分が保留扱いになっている」


「理由は」


「戦死仮計上」



 中庭が、ぴたりと静まる。


 ロウェルは顔をしかめたまま、台帳をこちらへ向けた。


 そこには確かに、六人分の欄へ小さく赤線が引かれていた。


 戦死仮計上、支給停止。


 昨日までの俺たちだ。



「戻してください」



 俺は即答した。



「監査局印つきの生存名簿があります」


「手順上は可能だが、夜中にここまでやる補給官は初めて見た」


「俺も初めてです」



 生存名簿を開く。


 六人の名前を指で叩く。


 見張りの老人。

 壁番の負傷兵。

 炊事場の若い兵。

 矢羽を揃えていた奴。

 そして、ノイル。



「ノイル・フェス」


「は、はい!」



 若い兵が、妙に背筋を伸ばして前へ出る。


 ロウェルは赤線を見て、名簿を見て、それからペンを取った。


 戦死仮計上の文字に二重線を引く。

 横へ書き足す。


 生存確認済、支給復帰。


 紙の音がした。


 それだけで、ノイルの喉がごくりと動く。



「未払い補填込み。銀貨七枚、銅貨九枚」


「……ほんとに、戻るんですね」


「戻します」



 俺は言った。



「死んだことにされた分まで」


「補給主任」


「何です」


「俺、帰ったら母ちゃんにこの銀貨、最初に見せます」


「使わないんですか」


「使います。でも最初に見せます」


「それは大事ですね」


「はい」



 ノイルは銀貨を握ったまま、受領簿へ震える字で自分の名を書いた。


 その字を、俺は少しだけ好きになった。



 イネスの番では、老軍医本人が鼻を鳴らした。



「医者に危険手当がつくの、もっと早くてもよかったね」


「今ついたので良しとしてください」


「患者が薬と銀貨を一緒に持つと、だいたい明日まで生きる気になるよ」


「名言ですね」


「医者は毎日思ってることしか言わないんだ」



 配布が半分を越えた頃には、両替机の前にも列ができていた。


 ミレイユが、商会印のついた小封筒を並べている。



「家族宛て送金、こっち。手紙一通まで込み。負傷兵は先に来て」


「本当に届くんだろうな?」



 兵の一人が不安そうに聞く。



「届きます」



 彼女は即答した。



「届かなかったら、第八砦との契約を失いますので」


「重いな」


「商会にとっては命より重い時があります」



 そこへ、俺が口を挟む。



「送金は必ず受領札を切ってください。名前、金額、行き先。控えはこっちにも」


「わかっています」


「封蝋は」


「商会負担」


「いいですね」


「その代わり、次の携帯炉は少し安くしてください」


「考えておきます」


「好きですよ、そういう返し」



 兵たちの何人かは、その場で銀貨を半分だけ預けた。


 母へ。

 妻へ。

 妹へ。

 借りていた家賃へ。


 異世界でも、結局そこへ戻る。


 金は、生活に変わって初めて強い。



 最後に、ロウェルが帳簿を閉じた。



「これで全員分だ」


「ありがとうございます」


「礼を言われるのは妙な気分だな。私はただ支給しただけだ」


「第八砦に届かなかったら、ただの紙だったので」


「……補給官らしい言い方だ」



 悪くない評価だ。


 中庭には、銀貨の音と、豆を煮る匂いと、笑い声が混ざっていた。


 ガレスはすでに、受け取った銀貨の半分を腰袋へ、半分をミレイユの机へ置いている。



「家に送るんですか」



 俺が聞くと、軍曹は肩をすくめた。



「妹のとこに一部だ。死んだと思われると、うるせえからな」


「手紙も書いてください」


「面倒だ」


「一行でいいです。"まだ死んでない"」


「それは確かに一行で済むな」



 セレナは自分の受け取りを終えると、豆袋の数を自分で数えに行った。


 あの人は本当にそういうところが好きだ。


 俺も最後に名前を呼ばれる。



「カイル・ルーヴェン」



 ロウェルが台帳を見ながら、少しだけ眉を上げた。



「補給主任職。未払い補填、北辺危険手当、渓谷救援の前渡し差引後……大銀貨一枚、銀貨七枚、銅貨三枚」


「確認しました」



 受け取る。


 掌の中で、銀が冷たい。


 母と妹の薬代に換算する。

 かなり持つ。


 それでも俺は、受け取った銀貨の半分を、すぐにミレイユの机へ置いた。



「家に」


「おや」



 彼女が少しだけ目を細める。



「色気がありませんね」


「生き延びるほうが先です」


「嫌いじゃありません。行き先は?」


「王都南区、ルーヴェン家。母宛て」


「手紙は」


「短くでいいなら」


「補給主任、あなた、短い手紙は向いてなさそうです」


「知っています」


「では代筆も付けましょうか。追加銅貨一枚で」


「商魂が強い」


「商人なので」



 その時、鍋の前から歓声が上がった。


 乾燥豆が、もう煮えていた。


 塩と肉と豆の匂いは、妙に強い。

 銀貨の音に負けないくらい、人を安心させる。



「補給主任!」



 ノイルが銀貨を握ったまま叫ぶ。



「豆、めっちゃ入ってます!」


「知っています」


「今日、すごい日ですね!」


「かなり」


「俺、今ちょっと泣きそうです!」


「食べてからにしてください」


「はい!」



 いい夜だ。


 昨日まで、死んだことにされる予定だった兵たちが、

 今は銀貨を受け取り、豆を食い、家に金を送っている。


 こういうのは効く。


 かなり効く。


 だが、気持ちよさだけで終わるほど甘くはない。


 配布が終わり、兵たちが鍋へ散り、両替机に列が移った頃。

 俺は給金箱と一緒に持ち帰った、例の黒い文書箱を机へ置いた。


 小さい。

 細長い。

 銀貨の箱に比べれば軽すぎる。



「まだ見るのか」



 セレナが鍋の匂いを背に聞く。



「見ます」



 俺は箱を指で叩いた。



「こういう箱は、軽いほうがろくでもない物が入ってるので」


「夢のない言い方だな」


「だいたい当たります」



 ロウェルも残った。

 ミレイユも、書記を連れて机へ戻る。


 俺は黒箱を開いた。


 赤牙族の首飾り。

 金貨十枚。

 文書筒。


 そこまでは、灰爪渓谷で見た通りだ。


 だが、箱を持ち上げた瞬間、底の音が少し違った。


 軽い。


 銀貨箱を運んだ後だと、軽い箱はすぐわかる。



「……二重底ですね」



 指先で隙間を探る。

 細い鉄釘を差し込み、底板を少しだけ浮かせる。


 かちり、と鳴った。


 板が外れる。


 中から、もう一枚、薄い紙束が出てきた。


 ミレイユが、愉快そうな顔を消した。



「嫌な予感しかしません」


「同感です」



 一番上は行程表だった。



 王都第三遠征団 先行監査便

 二日後 正午

 北辺第八砦着予定


 その下に続く。


 同行者

 会計官リディア

 書記二

 護衛十


 目的

 第八砦名簿再査定

 契約無効化

 補給主任カイル・ルーヴェン拘束



 中庭の笑い声が、遠くなった気がした。


 セレナが紙を奪うように見る。



「拘束?」


「ええ」



 俺は淡々と答える。



「俺です」


「見ればわかる」



 ガレスが肩越しに紙を覗き込み、低く笑った。



「いいじゃねえか。次はあの会計女か」


「喜ばないでください」


「顔が見える敵のほうが殴りやすい」


「今回は紙です」


「殴れねえじゃねえか」


「帳簿で殴ります」



 ロウェル支給官が、別の紙を開いた。


 そちらには、もっと嫌な内容があった。



 先行監査便の後、五日後に団長レイス・ヴァルド自ら北辺入り。

 私兵四十、王都弩兵二十、工兵隊同行。

 必要に応じ第八砦資産接収、関係者整理。



 ミレイユが、そこで初めて本気で舌打ちした。



「契約無効化まで書いてありますね」


「あなたにも関係あります」


「かなりあります。嫌ですね」


「逃げますか?」


「ここまで商売の匂いを嗅いでおいて逃げるほど、私は安くありません」



 好きだな、この商人。


 俺は紙を重ねた。


 二日後、リディア。

 五日後、レイス本隊。


 段階がはっきりした。


 先に紙で殺しに来る。

 それでだめなら、物理で取りに来る。


 わかりやすい。


 かなりわかりやすい。



「副司令」



 俺は机の上で行程表を叩いた。



「二日後正午。会計官リディアと護衛十。これは門前で止めます」


「中へ入れないのか」


「入れます」


「どっちだ」


「入れる前提で、入れたら死ぬ形にします」



 セレナの口元が少しだけ上がる。



「好きだな、その言い方」


「仕事です」



 ガレスが鍋のほうを振り返った。



「兵に言うか?」


「給金の夜です。今は半分だけでいい」


「半分?」


「"二日後、また王都から帳簿持ちが来る"」


「それで十分だな」


「ええ」



 ノイルが、豆の椀を抱えたままこちらを見ていた。

 たぶん何か察したのだろう。

 だが、まだ銀貨を握っている。


 いい。


 今夜はそのままでいい。



 ミレイユが、行程表を受け取りながら言う。



「先行監査便なら、白旗と印章を持ってくるでしょうね」


「でしょう」


「つまり、門前で"正しい顔"をして来る」


「ええ」


「嫌ですね」


「かなり」



 俺は立ち上がった。


 中庭では、銀貨の音と豆の匂いがまだ生きている。


 いい夜だ。

 だからこそ、次も勝てる。



「全員聞け!」



 俺は中庭へ向かって声を張った。


 兵たちが顔を上げる。

 椀を持ったままのやつ。

 銀貨を数えていたやつ。

 手紙を書き始めていたやつ。



「給金は配った! 豆もある! 鉄もある! だから次は守る!」



 ざわめきが広がる。


 俺は続けた。



「二日後の正午、王都から帳簿持ちが来る! 五日後には団長本人だ! 今夜の銀貨と豆と鉄を、まとめて取り返しに来るつもりらしい!」



 兵たちの目が変わる。


 さっきまで金を受け取った顔が、

 今度はそれを守る顔になる。


 いい変化だ。



 ノイルが椀を握りしめたまま言う。



「じゃあ、母ちゃんに送った銀貨、守らないとですね」


「その通りです」


「俺、生きます」


「知っています」



 中庭のあちこちで、低い笑いと、槍の石突きを鳴らす音が起きる。


 セレナが槍を担いだ。



「補給主任」


「何です」


「次は元婚約者か」


「ええ」


「やりにくいか?」


「いいえ」



 俺は行程表を折りたたみ、懐へしまった。



「金と名簿と契約を取りに来る相手なら、むしろわかりやすいです」



 次に来るのは、団長じゃない。


 その前に、

 俺を売った元婚約者が、

 今度は王都の紙と印を持って門を叩きに来る。

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