第8話 灰爪渓谷で、給金箱と豆と鉄塊を丸ごと迎えに行く

 給金箱は、兵を走らせる。



 名誉のためじゃない。

 銀貨の音が、家族の顔を連れてくるからだ。


 査察官バルトが残した控えに、



「三日後夜半、灰爪渓谷経由。給金箱・乾燥豆・鉄塊同送予定」



 とあった日の午後、第八砦の志願者は妙に多かった。



「俺、行きます」

「俺も」

「俺の未払い、半年分あるんで」

「うちは妹の嫁入り道具が――」

「俺は普通に金が欲しいです!」



 最後の一人だけ正直でいい。

 中庭で志願者の列を見ながら、俺は紙を閉じた。



「多いです」


「良いことじゃねえか」



 ガレス軍曹が笑う。



「兵がやる気出してるぞ」


「出しすぎです。砦が空になります」


「銀貨ってすげえな」


「だいたいの問題を前へ進めますからね」



 セレナが列の前へ出た。



「静かにしろ。出すのは十人だ」



 途端に、あちこちから不満の声が上がる。



「少なすぎませんか!?」

「俺だって金貨の顔見たいです!」

「銀貨だ」

「銀貨でも見たいです!」



 わかる。


 かなりわかる。

 だが、砦を守る兵まで抜くわけにはいかない。



「副司令」



 俺は紙の上にざっと線を引いた。



「前に出すのは、弓四、槍三、荷引き二、俺で十。あなたは入ってください」


「当然だ」


「軍曹も」


「だろうな」



 ガレスは最初から自分が入る顔をしていた。



「若いのは?」



 セレナが聞く。



「足の速いのを一人だけ。荷車が増えた時に走らせます」


「おい、走らせる前提かよ」


「豆と鉄塊がありますから」


「欲張りだな」


「生活がかかっているので」



 志願者の中から、前に出たことのある若い兵――ノイルを選ぶ。

 魔狼の夜から、妙に目が死ななくなったやつだ。


 ノイルは、自分が選ばれたとわかった瞬間、顔を引き締めた。



「補給主任」


「何です」


「俺、死んだら給金、母ちゃんに行きますか」


「行かせます」


「生きて帰ったほうが早いですね」


「かなり」


「じゃあ生きます」



 いい返事だ。


 準備はその日のうちに始めた。


 灰爪渓谷は、北辺へ入る物資列がよく使う細い谷だ。

 細いが、道は比較的平らで、荷車が通しやすい。

 だからこそ、襲う側にも都合がいい。



 ミレイユが地図を持ってきた。



「ここです」



 彼女が指したのは、渓谷の中腹にある古い石切り場の跡だった。



「昔、近くの砦を修復するために灰岩を切っていた場所です。今は廃坑同然ですが、荷車を止めるにはちょうどいい平場が一つある」


「上から見下ろせる?」



 俺が聞く。



「ええ。しかも、古い鉱車レールと吊り鎖がまだ残っているはずです」


「最高ですね」


「あなた、本当にそういう顔をするんですね」



 ミレイユは楽しそうに笑った。



「ただし、谷風が強い。火は使いにくいですよ」


「火を使わない勝ち方にします」


「好きですよ、そういう即答」



 彼女は、紙束のほかに、細縄、灯油、予備のくさび、そして荷札まで置いていった。



「戻ってきたら、ちゃんと仕分けしてくださいね」


「戻ってきたら、まず豆です」


「砦優先、ですよね」


「当然です」


「嫌いじゃありません」



 夜明け前。


 俺たちは十人で第八砦を出た。


 空はまだ暗い。

 だが兵の足は軽かった。



 理由は簡単だ。


 今回は、勝てばその場で金になる。



 途中、ノイルが小声で聞いてきた。



「補給主任。給金箱って、本当に箱なんですか」


「箱です」


「銀貨ぎっしり?」


「たぶん」


「見たことないです」


「俺も目の前で開けるのは久しぶりです」


「なんか、それだけで頑張れます」


「金は偉いですね」


「ですね」



 ガレスが後ろで笑った。



「夢のない会話だな」


「生活のある会話です」



 灰爪渓谷へ着いたのは、昼を少し回った頃だった。


 谷は名前通り、灰色だった。

 切り立った岩肌が続き、道幅は荷車二台がぎりぎりすれ違える程度。

 ところどころに崩れた石切り場の名残があり、錆びた鉱車レールと、吊り鎖の残骸が風に鳴っている。



 いい。


 かなりいい。



「上に行きます」



 俺はセレナとガレスを連れ、石切り場の上縁へ登った。


 風が強い。

 だが視界は利く。


 そこで、すぐに違和感を見つけた。



 足跡だ。


 軍靴じゃない。

 靴底の釘がまばらで、歩幅も乱れている。

 荷を運ぶ兵じゃない。

 待ち伏せ慣れした歩き方だ。


 さらに、岩陰には踏み潰した乾葉が落ちていた。

 王都近郊の安い刻み煙草でよく使うやつだ。



「……いますね」



 俺が言うと、セレナが目を細めた。



「人間か」


「かなり」


「赤牙族じゃない?」


「この葉を噛む趣味はなさそうです」



 ガレスが低く唸る。



「やっぱりか。バルトが谷で何かやるつもりだったな」


「でしょうね」



 俺は足元の石を拾って谷底へ落とした。

 乾いた音が返る。



「給金箱そのものを襲うつもりか、砦の生き残りが受け取りに来るのを待ってるのか。どっちにしても、向こうはここを"事故が起きやすい谷"にする気です」


「なら、先にやるか?」



 セレナの手が槍にかかる。



「いいえ」



 俺は首を振った。



「待ち伏せは、待ってる相手が来る瞬間が一番無防備です」


「嫌なこと言うな」


「仕事です」



 そこからは、現場だ。


 上に残っていた古い鉱車。

 曲がったレール。

 吊り鎖。

 風化した灰岩。

 崩れた石台。


 全部、材料になる。



【《野戦工房》起動】

【資材を認識します】


【灰岩 多数】

【鉄鎖 三】

【古レール 二】

【木台車 一】

【くさび 小】

【縄 中】


【構築可能】

【――落鎖門】

【――転輪楔】

【――崩し籠】

【――吊り鉤罠】



「よし」


 まず、谷道の中ほどに古い鉱車を半分埋める。

 そのままだと目立つので、灰布を被せ、崩れた石に見せかける。


 次に、上のレールへ吊り鎖を通し、灰岩を詰めた籠を二つ作る。

 落石じゃない。

 人を潰すより、道を塞ぐための石だ。


 さらに、谷道の轍へ薄い転輪楔を仕込む。

 荷車の車輪が乗れば、すぐには壊れない。

 だが、横から衝撃が入れば軸ごと裂ける。



「補給主任」



 ノイルが息を切らしながら聞いた。



「これ、本当にうまくいきますか」


「うまくいかなかったら、走ってください」


「雑じゃないですか!?」


「戦場なんて大体雑です」


「またそれ!」



 兵たちの間に、少しだけ笑いが起きる。


 いい。

 緊張で硬くなるよりずっといい。


 配置を決める。


 上段左に弓二。

 上段右に弓二とノイル。

 谷底の出口側にガレスと槍兵三。

 入口側にセレナと俺。



 役目は簡単だ。


 正規の給金便が谷へ入ったら、まず止める。

 その後で、横取りに来た連中を谷の真ん中で噛ませる。



「こっちが先に襲うんじゃないんですね」



 ノイルが聞く。



「ええ」


「なんで」


「給金箱を傷つけたくないので」


「……すごい説得力です」


「金貨は繊細ですから」



 夕方。


 風が冷えてきた頃、最初に現れたのは、正規の給金便じゃなかった。


 北側の岩陰から、人が出た。



 五人。

 続いて、さらに七人。

 灰色の外套。

 盾は安物だが、剣の抜き方は悪くない。


 赤牙族じゃない。

 王都の私兵崩れか、傭兵だ。



「十二」



 ガレスが低く数える。



「もっといるな」


「でしょうね」



 そいつらは谷の北寄りに散り、岩陰へ潜った。

 道を塞ぐ位置じゃない。

 真ん中を空けている。


 つまり、正規便を中へ引き込んでから襲う気だ。


 案の定だ。



 セレナが俺の横で小さく言う。



「今なら落とせるぞ」


「まだです」


「欲張るな」


「欲張るから来たんです」



 完全に日が落ちる少し前。


 今度こそ、南側から灯りが見えた。


 三台。


 一台目は幌つき。

 二台目は樽と袋の荷。

 三台目は鉄塊を積んだ平荷車だ。


 護衛は騎兵六、歩兵八。

 その中央に、帳簿箱を抱えた文官が一人。



 少ない。


 少ないが、北辺へ入る定期支給便としては普通だ。


 そして、何も知らない顔をしている。


 よし。

 こっちが間に合ってよかった。



 給金便が谷へ入る。

 一台目が中腹を過ぎ、二台目、三台目と続く。


 ちょうど真ん中。


 北側の岩陰から、角笛が鳴った。


 短い。

 下品な音だ。



 傭兵どもが一斉に飛び出す。

 前と後ろ、両方から谷を塞ぐ形。


 護衛の騎兵が慌てて馬首を返すが、遅い。


 一台目の御者が叫んだ。



「待ち伏せだ!」



 その瞬間。



「今だ!」



 俺は吊り鎖の留め具を蹴り外した。


 上段左の崩し籠が落ちる。



 灰岩が道へなだれ込み、南側の出口を塞いだ。

 給金便そのものじゃない。

 後ろから回り込もうとした傭兵側だけを、ちょうど切る位置だ。


 次に、上段右。


 ノイルが俺の合図通り、二本目の留め縄を切る。



 もう一つの崩し籠が北側へ落ち、先頭で突っ込んでいた傭兵二人をまとめて弾き飛ばした。

 悲鳴。

 馬が暴れる。

 谷が一気に狭くなる。



「撃て!」



 弓兵の矢が、上から降る。


 傭兵どもはまさか別の待ち伏せがいると思っていなかったらしい。

 隊列が乱れる。

 一人が倒れ、二人目が盾を上げ、三人目が道脇の石へ逃げる。


 そこへ、セレナが飛び込んだ。


 槍が一閃する。

 谷風みたいに無駄がない。

 先頭の傭兵の喉が割れ、その身体が後ろのやつへぶつかる。



「第八砦だ! 給金便に触るな!」



 怒声が谷に響く。


 いい名乗りだ。


 護衛側の騎兵も、その声でようやく混乱から戻った。

 正規兵の盾が構え直される。



 だが、問題はそこじゃない。


 北側の岩陰から、最後に出てきた大男がいた。


 斧じゃない。

 長い鉤槍だ。

 谷の荷車を止めるための道具として持ち込んできたらしい。



 そいつはまっすぐ、一台目の幌車へ向かった。


 給金箱だ。



「行くぞ!」



 俺は谷へ飛び降りた。

 着地と同時に、幌車の側面へ手をつく。



【《野戦工房》起動】

【構築対象を再編します】



 幌を留めていた帯鉄が解け、車輪止めの木が滑り出る。

 ついでに、荷台の内側に積んであった鉄帯箱を横へずらす。


 大男の鉤槍が振り下ろされる。


 狙いは鍵じゃない。

 車軸だ。



 折れば、あとはゆっくり開けられる。

 わかっている動きだ。


 だが、その前に俺は車輪止め木を蹴った。


 幌車が半歩だけ前へ転がる。


 鉤槍の穂先が空を切った。


 大男が舌打ちした瞬間、俺は荷台側面の帯鉄を引き抜き、即席の短い鉄棍に組み替える。



 大男が二撃目へ来る。

 早い。

 筋もいい。


 正面からは受けない。



 俺は荷台へ片足をかけて身体をずらし、鉤槍の柄へ鉄棍を打ち込んだ。

 木が鳴る。

 僅かに軌道がずれた。


 そこへ、荷台の中の給金箱を《野戦工房》で半歩だけ滑らせる。


 重い鉄縁の箱が、がつん、と音を立てて大男の脛へぶつかった。



「――ッ!」



 いい音だ。


 大男の体勢が崩れる。


 俺はその一瞬を逃さず、鉄棍の先に即席で生やした短い鉤を、そいつの足首へ引っかけた。

 引く。



 大男が転ぶ。


 倒れた先には、さっき仕込んでおいた転輪楔があった。

 薄い木片だが、人の膝には十分硬い。


 鈍い音。

 悲鳴。



 そこへ、セレナの槍が下りる。


 鉤槍持ちの胸を、石畳へ縫いつけた。



「助かった」


「借りは給金で返してください」


「高いな」



 その時、一台目の幌車の中から、青ざめた顔の文官が顔を出した。


 年配の男だ。

 帳簿箱を胸に抱えたまま、周囲を見ている。



「だ、誰だ、お前たちは!」


「第八砦です」



 俺は答えながら、谷の奥を見た。


 まだ終わっていない。


 北側で傭兵の最後のまとまりが、三台目の鉄塊車へ向かっていた。

 あれはまずい。

 鉄塊車が取られると、後で運ぶのが面倒だ。



「軍曹! 三台目!」


「わかってる!」



 ガレスが笑いながら突っ込む。


 槍兵二人が続き、鉄塊車の前へ壁を作る。

 傭兵の剣が振られるが、狭い谷だ。

 数が生きない。



「ノイル!」


「はい!」


「北側の轍、三本目!」


「えっ、あっ、はい!」



 ノイルが上から矢を放つ。

 当てるんじゃない。

 轍の印だ。


 その場所へ、俺は谷道脇の残っていた石切り場の台座に手をついた。



【《野戦工房》――崩し台、解体】



 朽ちた支柱が外れ、載っていた灰岩塊が斜めに滑る。


 ちょうど三本目の轍へ落ち、傭兵どもの足元を裂いた。

 さらに、逃げようとした荷車の側輪がそこへ乗り、転輪楔と噛んで、ばきりと音を立てて割れる。



「うわっ!?」

「止まったぞ!」

「止めたんだよ!」



 ガレスが吠える。


 そのまま槍で一人、二人。

 傭兵のまとまりは崩れた。


 残りは逃げた。


 正規護衛の騎兵が、ようやく状況を呑み込み、逃げた傭兵を追い始める。

 だが、俺は声を張った。



「深追いするな! 谷の外は向こうの庭だ! 給金箱を見ろ!」



 騎兵の一人が、はっとした顔で馬を止めた。

 悪くない判断だ。


 戦いは、そこで終わった。


 谷には、荒い息と、馬の鼻息と、乾いた風だけが残る。


 帳簿箱を抱えた年配の文官が、恐る恐るこちらへ降りてきた。



「……本当に、第八砦だと?」


「ええ」



 俺は懐から、生存名簿の写しと、監査局の確認印が入った請求書の控えを出した。



「補給主任カイル・ルーヴェン。こちらは副司令セレナ・アルヴェイン。監査局査察官バルト・ヘインズに、生存確認と受領請求の印は押させてあります」


「……何をどうやったら、あの男に印を押させられるんだ」


「仕事です」



 文官はしばらく固まっていたが、やがて帳簿箱を開き、紙と印章を取り出した。



「支給官ロウェル・サーネンだ。第八砦向け支給便を預かっている」


「中身は」


「給金箱一。乾燥豆二十袋。鉄塊十六本。包帯用麻布三反。予備弓弦二十」


「素晴らしい」



 思わず本音が漏れた。


 ロウェル支給官は妙な顔をした。



「まず豆と鉄に感動する補給官は珍しいな」


「生活がかかっているので」


「なるほど。今ので少し信用した」



 彼はすぐに帳面をめくった。



「だが、受け渡しは正式にやる。査察印だけでは足りん。第八砦側の責任者署名、現物確認、積載箱の封印確認が必要だ」


「もちろん」



 俺は即答した。



「ついでに、この谷で襲撃を受けた記録も残してください。傭兵の死体と、車軸を狙った形跡も」


「それも書く」


「ありがたい」



 紙が強い日は、本当に強い。


 ロウェル支給官は幌車の後ろから、鉄縁の頑丈な箱を出させた。

 重い。

 鉄帯で巻かれ、二重封印までしてある。


 給金箱だ。



 ノイルが、思わず呟いた。



「うわ……本当に箱だ……」


「だから言ったでしょう」


「でかいですね……」


「兵の夢が詰まってます」


「夢、重いな……」



 ガレスが箱を持ち上げようとして、すぐに顔をしかめた。



「重っ!」


「夢ですから」


「銀貨ってこんな重いのか」


「生活です」


「便利だな、その言葉」



 ロウェル支給官は、俺の監査印つき請求控えと、生存名簿の写しを見比べ、それから小さく息を吐いた。



「本来なら砦で支払う手順だ」


「知っています」


「だが、第八砦は襲撃を受けた。護衛も削れた。このまま谷を抜けるより、お前たちと一緒に砦へ戻ったほうが安全だ」


「賢明です」


「ただし」



 彼は帳簿を閉じた。



「ここで一度、現物確認だけはする。後で"箱ごと消えた"と言われるのは私も困る」


「それは大歓迎です」



 ロウェルが鍵を取り出し、二重封印を切った。


 箱が開く。


 月の出かけた谷で、銀が鈍く光った。


 兵たちの呼吸が、そろって止まる。



 銀貨袋。

 銅貨束。

 支給封筒。

 危険手当の小袋。



 思っていたより、ずっと生々しい。



 ノイルが、口を開けたまま呟く。



「……すげえ」


「静かに」



 俺は言った。



「数を間違えると困るので」



 そう言いながらも、俺自身、指先が少し熱かった。

 この重さなら、母と妹の薬代はかなり持つ。

 だが今は、俺の金じゃない。


 第八砦全員分だ。



「支給官」



 俺はロウェルへ向き直った。



「臨時出征手当の前渡しは可能ですか」


「ここでか?」


「はい。襲撃排除に出た十人分だけでいい。記録は残す」


「……できる」


「お願いします」


「図々しい補給官だな」


「かなり」



 ガレスが吹き出した。



「好きだぜ」


「ありがとうございます」



 ロウェルは呆れたように笑い、それでも帳面を開いた。



「名前を呼べ」

「カイル・ルーヴェン」

「一」

「セレナ・アルヴェイン」

「二」

「ガレス・ボーデン」

「三」



 月の下、谷の真ん中で、名前が呼ばれる。


 そのたび、銀貨が一枚ずつ手渡された。


 多くはない。

 だが、軽くもない。



 ノイルが自分の番で銀貨を受け取り、まじまじと見つめた。



「……俺、生きてるんだな」


「そういう記録にしました」


「いや、そうじゃなくて」


「どっちでも同じです」


「たしかに」



 若い兵は、妙に真面目な顔で銀貨を握りしめた。


 セレナは受け取った銀貨を一度だけ見て、それをすぐ腰袋へ入れる。



「これで兵に酒を飲ませるなよ」


「飲ませません」


「お前には言っていない」


「失礼しました」



 ガレスは銀貨を受け取るなり笑った。



「いい音だ」


「ええ」


「槍より効く時があるな」


「かなり」



 俺も最後に、自分の銀貨を受け取った。


 たった一枚だ。

 だが、今日のそれは、金額より意味が大きい。


 死亡扱いされた兵じゃない。

 ちゃんと生きていて、働いた兵としての一枚。


 悪くない。



 その時だった。


 三台目の鉄塊車を改めて確認していた槍兵が、声を上げた。



「補給主任! これ、帳面にない箱があります!」



 全員の目が、そちらへ向く。


 鉄塊の下、麻布の奥に、黒塗りの細長い箱が一つ挟まっていた。

 大きさは腕ほど。

 商会印も支給印もない。


 ロウェル支給官が眉をひそめる。



「こんな箱は積載表にない」


「封印は?」



 俺が聞く。



「第三遠征団の私印だ」



 嫌な匂いしかしない。


 箱を開ける。


 中には金じゃない。


 黒い筒状の文書箱と、赤牙族の首飾りが三つ。

 さらに、小袋に入った金貨が十枚。



 ノイルがぎょっとした。



「なんで赤牙族の飾りが……」


「支払い用ですね」



 俺は赤い牙飾りを指で弾いた。


 かなり上等な銀線で編んである。

 雑兵相手の土産じゃない。

 首領級へ渡す贈り物だ。


 文書箱の封を切る。


 中の紙は短い。



 灰爪渓谷にて予定通り整理せよ。

 支給箱・豆・鉄塊は北の私庫へ回送。

 第八砦関係者は既報損耗扱いを優先。

 五日後、団長レイス自ら北辺入り。



 署名はない。


 だが、最後に押された私印は見覚えがあった。


 団長レイス・ヴァルドの卓上箱にあった、小さな狼の印だ。


 喉の奥が、冷たくなる。



「……本命が来る」



 思わず、そう漏れた。


 セレナが紙を奪うように見た。



「団長レイス?」


「ええ」


「自ら北辺入り、だと?」


「査察が失敗したので、直接片づけに来るつもりでしょう」



 ガレスが低く笑う。



「いいじゃねえか」


「何がです」


「顔が見える敵のほうが、殴りやすい」



 その通りだ。


 ミレイユが聞いたら喜びそうな情報でもある。

 王都軍の団長自ら北辺入り。

 噂としても高い。


 だが、笑っているだけでは済まない。


 五日。


 短い。


 給金箱と豆と鉄塊を砦へ戻して、

 兵へきちんと配り、

 壁をもう一段上げて、

 レイス本人を迎える準備をしなければならない。


 やることは多い。


 だが、悪くない。


 敵が、ちゃんとこっちへ来るなら、

 準備のしがいがある。



「副司令」



 俺は給金箱の蓋を閉じた。



「戻りましょう。今夜のうちに豆を鍋へ入れたい」


「お前、こういう時でもそこか」


「兵は豆で持ちます。壁は鉄で持ちます。敵は書類で刺せます」


「最後が嫌だな」


「好きでしょう」


「否定しない」



 ロウェル支給官が帳面へ新しく書き足していた。



 灰爪渓谷襲撃未遂。

 第八砦救援受領確認。

 給金箱受領、護衛変更。



 いい記録だ。


 かなりいい。



 ノイルはまだ銀貨を握ったまま、頬を熱くしていた。



「補給主任」


「何です」


「俺、帰ったら母ちゃんにこの銀貨、最初に見せます」


「使わないんですか」


「使います。でも最初に見せます」


「それは大事ですね」


「はい」



 俺は黒い文書箱を懐へしまった。


 給金箱は拾った。

 豆も鉄塊も拾った。


 その上で、団長レイスが五日後に来るとわかった。


 十分だ。


 かなり十分だ。



「全員、荷をつけろ!」



 俺は谷へ向かって声を張った。



「給金箱、豆二十袋、鉄塊十六本、麻布三反、弓弦二十! 全部第八砦へ戻す! 今夜から、次は団長本人を迎え撃つ準備だ!」



 兵たちの顔が上がる。


 今度は、死んだことにされた兵の顔じゃない。


 銀貨を手にして、

 飯と壁と次の敵が見えている兵の顔だ。


 いい顔だ。


 その顔のまま帰れれば、

 五日後の団長相手でも、たぶん勝てる。


 いや、

 勝たせる。


 俺は谷風の中で、もう一度だけ給金箱の重さを確かめた。


 次は、

 この重さを守るための戦いじゃない。


 俺を捨てた団長本人に、

 北辺で"補給の重さ"を思い知らせる番だった。

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