仕込みと温度差

部屋を出た瞬間、空気の温度が変わった気がした。


あの雑居ビルの三階。

閉じた空間に残っていたのは、言葉じゃなくて――“意図”だった。


リョウは階段を降りながら、ポケットに手を突っ込む。


指先に触れる硬い感触。

小さな金属。


ライターでも鍵でもない。


――さっき、渡されたもの。


それを取り出すことはしない。


ただ、存在を確かめるだけでいい。


外に出る。


湿った空気が肺に入る。


夜は深くなっていた。


ネオンが少し減り、代わりに人の気配も薄くなる。


こういう時間帯のほうが、やりやすい。


そして――“消えやすい”。


リョウは歩きながら、さっきの会話を頭の中で反芻する。


カズマの説明。

シュンの軽口。

タケルの沈黙。


全部、違和感だらけだ。


「均等だ」


あの一言が、妙に残る。


――ありえねぇだろ。


鼻で笑う。


その時、スマホが震えた。


一瞬だけ立ち止まる。


画面を見る。


登録されていない番号。


だが、出る。


「……なんだ」


低く言う。


相手は少し間を置いてから話し出した。


『会ったか?』


声は低い。加工されているのか、性別も分かりづらい。


リョウは答える。


「ああ」


『どうだった』


少しだけ考える。


そして、正直に言った。


「全員、信用できねぇ」


電話の向こうで、わずかに笑い声。


『だろうな』


その反応に、リョウは眉をひそめる。


「最初から分かってたみたいな言い方だな」


『分かってたよ』


即答。


その速さに、リョウの中で何かが引っかかる。


『だからお前に声をかけた』


沈黙。


雨水がどこかから滴る音が、やけに大きく聞こえる。


「……どういう意味だ」


『簡単だ。あの中で、“最後に立ってる可能性があるのはお前だからだ”』


リョウは笑った。


「買いかぶりすぎだろ」


だがその声は、完全には否定していない。


『違うな。お前は“迷うタイプ”だ』


その言葉に、リョウの足が止まる。


『迷うやつは、最後に残る』


意味が分からない。


いや、分かりたくないだけかもしれない。


『他の三人は違う。あいつらは“決めてる”』


「……何をだ」


少しの間。


そして。


『裏切るタイミングを』


通話が切れる。


リョウはしばらくその場に立っていた。


スマホを見たまま。


――ふざけんなよ。


心の中で呟く。


だが、その言葉には“怒り”よりも、“納得”の方が近かった。


ポケットの中の金属を、強く握る。


――誰が先に仕掛けるかだな。


そのまま、歩き出した。


同じ頃。


シュンは別の場所にいた。


人通りの少ない裏路地。

自販機の前。


缶コーヒーを買う。


温かい方を選ぶあたり、少しだけ意外性がある。


プシュ、と音を立てて開ける。


一口飲む。


「まず」


顔をしかめる。


だが、その表情はすぐに消える。


代わりに、いつもの笑顔。


ポケットからスマホを取り出す。


迷いなく、一つの番号をタップする。


コールは一回で繋がった。


『どうだ』


短い声。


シュンは軽く笑う。


「うん、思った通り。全員やる気だよ」


『そうか』


「うん。だからさ」


少しだけ声のトーンを落とす。


「そっちも、準備しといて」


沈黙。


ほんの一秒。


だが、その一秒に“重さ”がある。


『どのタイミングだ』


シュンは缶をもう一口飲む。


そして言った。


「金が動いた直後」


『全員か?』


その問いに、シュンは少しだけ考えるふりをした。


「いや」


笑う。


「“三人分”でいいよ」


電話の向こうで、何かを書く音がする。


『了解した』


通話が切れる。


シュンはスマホをポケットにしまう。


そして、空を見上げた。


曇っている。


星は見えない。


「……ま、どうせ誰も見てないか」


そう呟いて、缶をゴミ箱に投げる。


綺麗に入る。


その動きに、迷いはない。


――外す気がしない。


その自信が、逆に危ういことに、本人だけが気づいていない。



さらにその頃。


カズマは車の中にいた。


エンジンはかけていない。


暗い車内。


ダッシュボードの光だけが、顔を照らしている。


手にはスマホ。


通話中。


「……ああ、問題ない」


声は落ち着いている。


いつも通りのトーン。


『本当にか?』


相手の声は低い。


疑いを含んでいる。


「問題ない。計画通りに進む」


『あの三人は?』


少しの間。


ほんのわずか。


「使える」


その言葉。


選び方が絶妙だった。


信用している、とは言わない。

だが、不要とも言わない。


『切り捨てるタイミングは』


カズマは目を閉じる。


頭の中で、ルートをなぞる。


時間。

距離。

人の動き。


すべてを計算する。


「回収後、五分以内」


即答。


『早いな』


「遅いとリスクが増える」


当然のことを言う。


だが、その裏には別の意味もある。


――長く一緒にいるほど、読まれる。


『了解だ』


通話が切れる。


カズマはスマホを置く。


そして、自分の手を見る。


まだ、わずかに震えている。


「……チッ」


小さく舌打ち。


――読まれてるか?


その可能性が、頭をよぎる。


特に。


タケル。


あの男の目。


何も言わないくせに、全部見ているような視線。


「……面倒だな」


だが、すぐに首を振る。


――関係ない。


最後に立っているのは、自分だ。


そう決めている。


そうなるように、動いている。


だから――問題ない。


エンジンをかける。


車が静かに動き出す。



そして、最後。


タケル。


彼は、まだあのビルの近くにいた。


出てから、しばらく経っている。


だが、帰っていない。


路地の影に立ち、煙草を吸っている。


火をつける手に、迷いはない。


一口吸う。


ゆっくり吐く。


その間、何も考えていないように見える。


だが実際は逆だ。


頭の中では、すべてが整理されている。


リョウの遅刻。

シュンの視線。

カズマの震え。


そして、それぞれの“温度”。


――リョウは、外と繋がってる。


――シュンも、別ルート持ってる。


――カズマは、最初から切る気だ。


結論は一つ。


「全員、同じこと考えてる」


小さく呟く。


煙が夜に溶ける。


そのまま、足元を見る。


水たまり。


そこに、自分の顔が映っている。


歪んでいる。


「……いいな」


何が、とは言わない。


ただ、その歪みを見て、少しだけ笑った。


ポケットから、折りたたまれた紙を取り出す。


カズマが見せた見取り図。


だが、完全に同じではない。


いくつか、線が書き加えられている。


わずかなズレ。


時間にして数秒。

距離にして数メートル。


それだけで、人の運命は変わる。


「誰が最後か」


紙を見ながら言う。


そして、ゆっくりと折りたたむ。


「……決まってる」


その声には、確信があった。


根拠はない。


だが、それで十分だった。


煙草を捨てる。


足で踏み消す。


その動作に、迷いは一切ない。


タケルは歩き出す。


暗い路地から、さらに暗い方へ。


その背中は、誰にも見られていない。


だがもし、誰かが見ていたなら。


こう思ったはずだ。


――あいつが、一番やばい。





四人。


全員が、同じ夜を歩いている。


だが、その方向は、すでにバラバラだ。


交わるのは、一度だけ。


その時。


全員が、“引き金”を引く。

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