第32話 残響
鳴瀬駅は、朝の七時半でも閑散としていた。
単線のホーム。ベンチが二つ。自動販売機が一台。十二月の朝の空気は冷たく、吐く息が白い。
スーツケースを一つ。段ボールは宅配便で送った。五年分の生活は、驚くほどコンパクトに収まった。
電車は七時五十二分。あと二十分ほどある。
ベンチに座り、ホームから鳴瀬の街を見下ろした。盆地の底に広がる灰色の屋根。遠くに山の稜線。鳴瀬川が朝の光を反射して白く光っている。
三ヶ月前、この街は恐怖に沈んでいた。殺意が音になり、人々は互いを疑い、監視し、排斥した。
今、音は消えた。しかし——あの三ヶ月間が残したものは、簡単には消えない。
人は殺意を抱く。音がなくても。装置がなくても。それは人間の一部であり——否定すべきものではなく、向き合うべきものだ。
カウンセラーとしての五年間で、私が学んだことはそれだけかもしれない。感情は善でも悪でもない。それをどう扱うかが——全てだ。
スマートフォンが鳴った。深町さんからだ。
「詩織ちゃん、もう駅?」
「はい。もうすぐ電車が来ます」
「見送りに行こうと思ったんだけど——店の仕込みが」
「大丈夫です。また来ますから」
「絶対よ。今度来た時は、特別ブレンド淹れてあげる」
「楽しみにしてます」
「あとね——亮介が、あんたに伝えてくれって」
「亮介さんが?」
「『水原さんに会えて良かった。父が好きになった人が、こういう人で良かった』って」
胸が熱くなった。返す言葉を探したが、見つからなかった。
「……伝えておいてください。私も——誠さんの息子さんに会えて、良かったと」
「伝えるよ。じゃあね、詩織ちゃん。元気でね」
「深町さんも」
電話を切った。
ホームのベンチで、しばらくじっとしていた。
この街で出会った人たちの顔が浮かぶ。
彩花さん。袖口を握り締めて、「この街を出たい」と言った。出られなかった。私が出る電車に、彩花さんは乗れなかった。
理恵さん。穏やかな笑顔の裏で、誰にも言えない苦しみを抱えていた。彩花さんを「楽にした」理恵さんは——今、拘置所で、自分自身と向き合っている。
片桐さん。十二年間の重荷に潰された男。罪を認め、罰を受け入れた。それが贖罪になるのかどうかは——分からない。
黒田。あの男のことは——まだ許せない。たぶんこれからも許せない。でも、もうあの男のために自分を消耗するのはやめる。
園田さん。「見えない殺意が行動に移される前に」。あの人は——これからもこの街で、静かに、地道に、人を守り続けるだろう。
戸嶋亮介。誠さんの息子。音を作った男。犯罪者であり、被害者の遺族であり——私と同じ人を愛した者。
そして——橋本誠。
ポケットの中に写真はない。段ボールの中だ。もう手元に置かなくていい。誠さんは——記憶の中にいる。消えない。消す必要もない。
アナウンスが流れた。
「まもなく、七時五十二分発、普通列車が参ります」
立ち上がった。スーツケースを引いて、ホームの端に立つ。
線路の先に、トンネルが見える。あのトンネルを抜ければ、鳴瀬市の外だ。音の影響圏外——もう、そんな区別は意味がないけれど。
電車が来た。銀色の二両編成。ドアが開く。
乗り込む前に、一度だけ振り返った。
鳴瀬の街。盆地の底の、小さな街。人口三万人。閉鎖的で、不器用で、秘密を抱えたまま生きてきた街。
三ヶ月間、この街は——音に支配された。殺意が可視化され、人々は自分の内面を剥き出しにされた。
でも——音が暴いたのは殺意だけではなかった。秘密も、嘘も、悲しみも、愛情も。全てが——音の残響の中で、形を変えて現れた。
ドアが閉まった。電車が動き出す。
窓の外を鳴瀬の風景が流れていく。灰色の屋根。田んぼ。鳴瀬川の橋。山の麓の墓地——誠さんの墓がある場所。
電車がトンネルに入った。窓の外が暗くなる。
暗闇の中で、ふと思った。
音は消えた。装置は撤去された。ナノ粒子は排出される。
でも——人の心の中の音は、消えない。怒りも、悲しみも、愛情も。聞こえないだけで、いつもそこにある。
トンネルを抜けた。
窓の外に、別の風景が広がった。鳴瀬市の境界を越えた先。少し広い平野。少し明るい空。
音のない世界——というわけではない。電車の走行音、風の音、遠くの踏切の音。世界はいつだって音に満ちている。
ただ、殺意の音だけが——消えた。
それで十分だ。今は。
コートのポケットに手を入れた。写真はない。代わりに、スマートフォンがある。園田の番号。深町さんの番号。戸嶋の番号。
この街との繋がりは、切れていない。
目を閉じた。電車の振動が体に伝わってくる。低く、規則的な振動。あの音とは違う。これは——どこかへ向かう音だ。
前へ。
電車は走り続ける。鳴瀬市が、遠ざかっていく。
でも——耳を澄ませば、聞こえる。
残響が。
あの街で起きた全てのことの残響が、胸の奥で静かに鳴り続けている。きっとこれからも、ずっと。
それを抱えて、生きていく。
(了)
殺意がバレる街 うみかわ @umikawasan
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