第34話
芽衣
「成績はお嬢様の問題となると、あなたに任せる方がマシね。あなたの時は今回ほど酷くはなかったし」
結果から先に言うと、瑠姫は解雇された。
求められた結果を出すことが出来なかったからだ。
改めて母から勉強も含めた全てのお世話をする従者として、私は再任命を受けた。
「なんで……! なんでこんな……愛花さん!」
部屋のドアから漏れ聞こえた声に、私は足を止めた。
中では水上瑠姫と愛花が話し合っている。
成績について改めて母からヒアリングを終えた2人が、部屋で話していたようだ。
「あれだけ教えたじゃん……! 事前の練習問題でも出来てたのになんで……!」
水上瑠姫の声にはドア越しにも力がこもっているように感じた。
「うん、でもね……? 突然分からなくなっちゃったんだ」
聞いた愛花の成績は、私が教えていた頃より下がっていた。
テスト返しの時間に見せられて、喜んだらいいのか心配したらいいのかわからなくなって、ずっと気まずかった。
彼女はなぜか嬉々として私に話しかけてきたが、もうなんだかよくわからない。
いや、こういう失敗の後でも彼女は笑って私の元に来るのだけれど、今は状況が違う。
あれだけ不安だったことが肩透かしだったかのような、
瑠姫から言われたことと、現実の釣り合いが取れていない。
夢にいるのかとまで思えるほど、現実味がなかった。
まさに瑠姫自身も同じようで、否定の言葉を力強く愛花へとぶつけているのだと、扉越しでもわかった。
「そんなことありえない……信じられない! またあの芽衣って子に吹き込まれたんでしょ!」
「ううん、芽衣の頃からそうなんだ。本番に弱いんだよ、私」
「嘘だ……そんな……」
瑠姫の愕然と震える声が漏れて聞こえる。
「ごめんなさい。瑠姫先生は悪くないんだよ? けどね……私には芽衣のやり方のがあってるみたい」
愛花がそう言った後、少しだけ間が生まれて吐息混じりの言葉が返ってくる。
「そういうこと……っ?」
そう納得したであろう一言に加え、また瑠姫は言葉を繋げる。
「私の思い当たることが本当なのだとしたら、正直信じられない。あなたがそんなことするなんて、どうすべきか分かってるよね?」
「なにを思ったのか知らないけど、私は瑠姫先生の正しさより芽衣の歪さについていくことにするよ」
毅然とした声に、私は一筋の考えに思い至った。
まさか、まさかと。
これは受け入れたらいいのか。
私には心臓に熱い血液が流れるのを感じるたびに、彼女への気持ちや押し付けようとしている感情が散らかっていく。
そんなことを思っていると、また彼女の語気は強くなる
「分かってるの? あの子はあなたを破滅させようと……」
「芽衣が破滅に導くなんてありえないよ。あの子はいつも私のことを考えてくれてるから」
背中を押されている気がした。
でも、これでよかったのだろうか。
喜んで……いいことなのだろうか。
でもそんな迷いは、愛花が愛花であるということが確認できた喜びに一気に押し流されていく。
その瞬間、勢いよく扉を開いた。
「お世話に……なりました……っ!」
こちらを見ることなく、璢姫は出て行った。
そうしてぼんやりと眺めた私の胸の中にはただ救われたということが、実感がとして存在していた、
瑠姫の提言していたことは、愛花の失敗により発言力を失ったことで潰えた。
そういうことだろう。
そういうことなんだろう。
彼女は……ダメでいてくれたから、こうなった。
それが……私にはとても嬉しい。
「ふぅ……あれ? 芽衣?」
同じように疲れた表情で愛花が出てきた。
「お嬢様……」
そして、ちょうど目が合った。
思い出されるのはテスト前日のやりとり。
今の自分はどんな顔をしているだろう。
上手くいってくれたことに対する安堵が強いのか、それとも落胆しているのか。
ほんのわずかに、安心で口角が上がっていた気がする。
いやでも、鏡で見ないとわからない。
不安に思わせないだろうか、私の心の中を見透かされないだろうか。
「そうだ。ちょっと来て」
ただ何かを見透かしたようにこちらの瞳を見つめ、上目遣いで愛花は部屋へと誘った。
愛花
芽衣が部屋の前にいたから勢いで連れてきてしまった。
さっきの話を聞いてしまったのかな……?
テストのこと、流石に軽蔑されちゃったかな。
芽衣のがっかりするようなことを私はしてしまったわけだし。
表情からはそんな軽蔑の色は見えないけど、結局のところどうなんだろう。
少しだけ、胃の奥が痛くなる。
従者を連れた葉矢川の娘。
そして主人よりも優秀で美しく、優しい従者。
そんな彼女が仕えるのがこんな私でいいのか、私はいつもいつも不安なんだ。
ダメな愛花が好きだと、幼馴染モードの時に言われた。
けれど私はあなたの求めるダメな私になれてるんだろうか。
こんなことを考える私すらもダメな気がして、ひたすらに堂々巡り。
ダメな自分が嫌いではあるけれど、でもそれが自分なのだから自分のキャラとして受け入れて、笑顔でいることにした。
そうじゃないと私は惨めな女の子になってしまうから。
「ははは……テスト、上手く出来なかったや」
だから、私は笑ってみせる。
いつも通りを意識して、不安が張り詰めた芽衣の顔を見つめる。
懐かしいな。
私は自分がダメだから、私を笑うしか出来ない。
けどあなたはなんでも出来て、美人で誰からも憧れられるんだなと思った。
だから好きになって欲しくていっぱい笑った。
あなたは私が失敗するたびに、そしてそれを気にせず笑いかける度に幸せそうな顔をするのだから。
「っ! あなたは……えぇと……」
言い淀む彼女は、ずっと小指をいじっていた。
リングを撫でながら、言葉を探していた。
「外さないの?」
「これは……」
「『外すのは自分の意思で……』でしょ?」
そう促すと、彼女は思い出したように小指を見つめて指輪を外した。
「……っ!」
「うわっ! どうしたの!」
そして外したかと思いきやいきなりこちらに飛びついて来た。
「びっくりしたぁ……って痛っ! いだだだっ!」
背中に回した腕ががっしりと私を締めていた。
その細い腕からは信じられない力でグイグイと抱き寄せられ、腰のあたりにその細い腕の骨が食い込んでていて苦しい。
「ちょっ、芽衣! ストップ!」
必死に手でタップしてギブアップを伝えると、芽衣も気付いたみたいで焦ったようで私を離した。
……犬かなにか?
「どうしたの? そんなに会いたかった? ……と言っても勉強以外では会ってるよね?」
すると少しだけ黙りながら、芽衣は言葉を探すように視線を動かした。
そして小さく、消えてしまいそうな声で言葉を紡いだ。
「どこかへ行っちゃうかと思ったから……」
「どこか?」
どこかって……どこだろ?
つい聞いてしまいそうだったけど、そんな直接的なことでなくもっと感覚的な話のようだった。
そして唾を飲むようにグズる音を喉で鳴らして、涙を含むような声で、静かに彼女は声に出した。
「あの、だから……いや、こんなこと言ったらダメだと思うけど、なにより私は、愛花がダメな子でいてくれて嬉しかった」
「……本当にダメだね」
途切れ途切れになりながらも彼女は口にする。
あまりにも直球だから、私の方もつい吹き出しそうになって肩の力が抜けてしまった。
そんな真剣に、泣きそうな顔で言われたらそりゃあね。
「でも私は……ダメな愛花が好きだから」
「そっか」
「ダメでいてくれる愛花が好きだから」
「うん」
「ダメなあなたが可愛いの……だから、だから……私は」
「……不安だったんだよね?」
すると彼女はこちらを見下ろした。
私はそんな彼女に、手を伸ばさなくても触れるほどまで近づいて、潤う芽衣の瞳を覗いた。
「私が、違う私になっちゃうと思ったんでしょ」
「……」
頬を撫でて見つめると、彼女の目は少しだけ充血している。
とてもいっぱいいっぱいだったことがわかる。
そして無言だったけれど、芽衣の視線は私の言葉を肯定していた。
顔を見れば分かるんだから。
顔に出るけど、これだけ一緒にいて、別々になってた時もアルバムの写真であなたの顔を見てた。
擦り切れてしまうほど、写真を見てた。
「私ね、芽衣のこと大好きなんだ。だから何を考えてたかも、筒抜けなくらいに分かってるつもりだよ」
だからこそ、最後まで言わせない。
私が勝手にそう思ってる。
ズレていようとなかろうと、芽衣の考えを理解した気でいる。
そういうことにする。
あなたが私へ向ける欲を最後まで言葉にして形にしたら、もう叶わない。
可愛いと言われた子がどんどん可愛くなるのと同じ。
意識が言葉になると、私はそう在ろうと生きてしまう。
それは多分、芽衣の理想とはズレてしまうだろう。
芽衣の退屈そうな表情も、辛そうな表情も私は見たくない。
笑顔を見るのが好きだから。
だからね? 今は私が手を引いてあげる。ご主人様だからね。
「私はね、私だよ」
彼女の筋ばった手を取って、その冷たさを感じながら私の手のひらで温める。
「私を好きになったなら、芽衣はきっと大丈夫。私はどんな時でも私でいるから」
そう言葉を選んだ。
芽衣が欲しい言葉だと思った。
彼女は安心したのか目を丸くして、引き結んでいた口角をほころばせた。
「良かった……」
すると、彼女の瞳から大粒の水滴が溢れた。
「何……大丈夫?」
今にも泣きそうだなと思っていたら芽衣の涙腺は、また決壊した。
この前も見たけれど、芽衣の涙は……少しドキドキする。
ただ私のそんな気持ちも押し流すほど、芽衣は強く言葉をこちらへ投げかけた。
「ずっと、不安だったの。変わっちゃったらどうしようって。あの人のことを信じて、私を嫌いになったらと思ったら。それで愛花がダメじゃなくなったら、私は愛花のことを好きじゃなくなるんじゃないかって怖くて……」
ふぅと息を吐くとその場に蹲り膝を抱いて、彼女は本音と思える言葉をポツポツと呟き始めた。
「愛花はダメ人間なのにいつも笑顔で周囲を尊重できる子だから」
「ダメ人間……そんな私のそばで介添をしたかったんだ」
「いや、そうじゃない」
「違うんかい」
「愛花はダメな時が1番可愛いの。すぐ買いすぎて散財するし、ファッションもダサいし、運動神経も球技は置物以下だし」
これは……愛が重いの言えるのかな?
あまりにも言葉に搭載された感情が、私には少し不可解で首筋に謎の汗が伝った。
まぁでも……。
「言い過ぎじゃないかな……?」
「でも! そんな愛花が好きなの! 転んでも泣かない、前向きなのに転んでいる姿が可愛いの!」
ただそんな私の動揺よりも、芽衣の感情の揺らぎは大きいみたい。
今度は膝を床について膝立ちで私に縋りつくような体勢でこちらを見上げた。
シャツを掴む力が……とても強い。
「だから変わらないで欲しかった。だけどあの人が現れて、愛花は転ばなくなっちゃうと思った。それを考えただけで怖いの」
芽衣の口からとめどなく溢れる私への感情は、胸の中を満たした。
焦りや動揺、涙、色んな感情があるけど、彼女のその気持ち源泉は愛だから。
そうか、そんなに想ってくれてたんだ。
お腹の奥から温められるみたいな、そんな多幸感が私をヒタヒタに満たしていく。
「私の中の大好きな愛花が、私の中だけにしかいなくなるのが……怖かったの」
そしてそれをまた呼び水に彼女の涙は溢れた。
フローリングにペタリと座り込んで、こちらの肩を掴んで強く目を見つめてくる。
「ねぇ愛花……! 行かないで……! どこにも……どこにも行かないで……?」
「そっか……そんな風に思ってくれてたんだね」
そうして手を広げると彼女は私の胸の中で泣いていた。
そんな芽衣の姿を見て、どうしようもないくらい感情が込み上げてくる。
「……行かないよ。私は、芽衣の好きな私のままだよ」
主人として、初めて務めを果たせた気がする。
従者がこんな風に泣くなんて。
「全く……芽衣は私がいないとダメだね」
そう口にしたら何かを……失った気がする。
それがなんなのかは分からない。
葉矢川の娘として立派にこれからを生きていく未来?
葉矢川家の恥として諦めて無力感のままに生きる未来?
もしくはその両方?
わからない。
けれど瑠姫先生の授業を受けた時は確かにあった自信が、心の中にはもうない。
……なんでもいいか。
芽衣が私を好きって言ってくれるなら。
何も考えない方が、芽衣が笑っていてくれるなら。
この結果のために、テストの解答をズラしたのだから。
それを、私は望んだんだ。
これでそばに芽衣がいてくれる。
きっと私を導いてくれる。
彼女の言うとおりにしていれば、きっと上手くいく。
それでもし今回みたいに芽衣だけじゃどうにも出来なかったら私が……。
うん、これはやっぱり言葉にしてはダメだ。
芽衣の願いとは多分ズレちゃう。
「ふふっ芽衣と一緒……嬉しいなぁ」
芽衣の頭を左手で撫でながら、右手で彼女の手を取った。
スベスベとした触感にうっとりしながら、手同士も抱きしめるように指を絡めて握った。
「愛花……愛花……っ!」
「芽衣って泣き虫だったんだね」
「そんなことは……ない。ただ、別れるのは絶対嫌だったから」
「そっか、まぁなんとかなるの精神でいれば上手くいくでしょ」
気付けば自信が私の内側で芽吹いていた。
仮初に取り繕った明るさとは別種の、私なり形の愛。
良かった。
瑠姫先生の教えも無駄じゃなかった。
先生がくれた自信が、芽衣のいる未来を保証してくれるみたいだ。
先生が見せてくれた充実した将来のビジョン。
従者に誇れる主人になりたい。
従者に相応しい主人になりたい。
そんな輪郭も定まらないまま心の中で浮遊していた願いを、両手で掬って、放り捨てる。
そこを捨てて空いた穴に、芽衣の愛が注がれていく。
ほら、上手くいくこともあるんだよ。
瑠姫先生。
そう、今回みたいに。
「それにさ、私が昨日の今日でスーパー有能になれると思う?」
「……開き直りだよ、それは」
「違いますー。根が深いんですー」
あなたのせいでね。
半分以上はあなたにダメにされたんだから。
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ。とにかくね? 私は大事な試験でミスって信頼できる家庭教師も失ってしまうくらいの人間なんですよ! 芽衣はさ、そんな私に寄り添ってくれる」
グッと、私は握る力を強くする。
指の絡まった隙間から優しく手の甲を撫でると、彼女の爪がガタガタになっていたことに気づいた。
そこに彼女の精神状態が完全に表されていた。
初めて見た。
ここまでだったんだ。
「というか芽衣……爪、ボロボロだね。噛んでたでしょ」
「……不安だったから」
「そっか、まぁでも爪に関しては深爪くらいがちょうど良いよね。身体触られた時に引っ掻かれる心配がないから」
「愛花……またそんなこと言うの? その口の軽さで釘を刺されたんじゃないの?」
「うっ……。そ、それは反省してます。流石に瑠姫先生に話しちゃったのは……ねぇ……」
ただ、頬を指でかきながら反省の色を見せても、芽衣からの視線はまだ少し怯えのような色を帯びていた。
まだ彼女の中で咀嚼しきれない複雑なものがあるのだろう。
それが罪悪感なのか、今更やってきた寂しさなのか。
少し……気まずいな。
「ねぇ喧嘩も何もしてないのに、距離が出来ちゃったから……整えよっか」
そうして彼女をまた、寝床へ引き摺り込んだ。
従者であり幼馴染。
そんな私だけに許された関係値へと引き戻すために。
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