第32話

   芽衣


 手が震えていた。


 気付けば、心は穏やかではいられない。


 ロープ一本で高いところから宙吊りにされるような浮遊感と、恐怖や焦燥で心臓が焼けそうだった。


 今日が水上瑠姫の最後の訪問日だ。

 彼女の大学のカリキュラムの関係でこれ以上は勉強を見に来れないらしい。


 とても喜ばしい。


 誕生日のことが漏れてから余計なことをしないかと神経をすり減らしていたが、それも今日で終わる。


 あとは私がケアをすればいい。


 まだ特に策は考えていないけれど、とりあえずどのくらいまで学力が伸びてしまってるかを把握する必要がある。


 だから彼女の部屋に向かおうと思っていたのだ。


   △

 

「愛花……」


 何度胸に手を当てても、鼓動がゆっくりにならない。


 きっと宣戦布告なんてふざけたことを言われたからに違いない。


 私が葉矢川の権威失墜を狙ってる?


 そんなことあるわけない。


 しかもそれを愛花に吹き込むなんて……信じられない。


「……大丈夫だよね」


 瑠姫の前で取り乱してしまった余韻で手がまだ震えてる。

 思ったことを全部ぶちまけて、その状況に私でも困惑している。


 足取りは重かった。


 何か黒いものが足にまとわりついてるみたいに、愛花の部屋へ向かう足が重い。


 一抹の不安があるから。


 愛花はダメな子だ。

 それは変わらない。

 そんな彼女が好きなんだ。


 ———けど、ダメだからこそ信じてしまっていないだろうか?


 優しく、人の話をよく聞く彼女が……私ではなく瑠姫を信じたら?


 ……くっ!


「はぁ……はぁ……っ!」


 考えるだけで喉奥に綿が詰まるような苦しさが迫り上がる。


 確認したい。


 どっちを信じたのか、もちろん私だよね? そう言いたい。


 けどそんなこと、言えるはずがない。


「ふぅ」


 息を整えて部屋のドアをノックする。

 すると私がドアノブを捻るよりも早く、彼女がドアを開け、隙間から顔を出した。


「……芽衣?」

「愛花様、お勉強お疲れ様でした。進捗はいかがですか?」


 自分の中で精一杯の笑顔を作り、焦りを背骨の中に鎮め、彼女を見つめる。


「確認いたしましょうか?」


 そう声をかけると、愛花は気まずそうな顔をして視線を泳がせながらこちらを見上げ直した。


「あー、今日はいいよ」

「え?」


 ついつい声が上擦った。


「あぁいや? 別に大した意味はないんだけど……少し考え事をしたいんだよね。お風呂とかは他の侍女を呼ぶから、芽衣はもう休んでいいよ」


「え……っ?」


 目を細めて何かを堪えるような顔をしていたのが、視界に焼きついた。


 それは……どういう表情なの……?


 顔に出ているよ。と私に言う愛花だけど、私には愛花の顔が何を意味するのか分からない。


 どういう感情なの……?


「話したいこともあるんだけど……ごめんね」


 彼女の曇りかかった表情が、さらに強張っていく。


 これは……鏡なの?


 私は今どんな表情かおをしているのだろう。


 愛花にこんな顔をさせるほど私は……私の焦りは……顔に出ているのだろうか。


「それじゃあね……」


 パタリと閉められたドアを見つめ、彼女の呟いた言葉が扉をすり抜けて耳に入る。

 ふと視線を足元へ下ろしてみれば、床はポトリと何か雨粒が垂れたように濡れていた。


 それを見つけて雨漏りかと天井を見上げた時、やっと理解した。


 私の頬を撫でた水は、自分の涙だと。


「これは……」


 自分で気づかないほどに、自分でも抑えられないほどに、溢れ出ていた。


 多分、物心ついてから初めて涙を流した。


 それがどうしようもなく恥ずかしくて、その場から離れた。


 他の侍女と顔を合わせぬように下を向き、声をかけられれば体調が悪いと会話を打ち切り、残りの仕事を任せた。


 そうして暗い私室に灯りをつける。


「……」


 言葉にならない湿った呻きのような感情が、お腹の奥から湧いてきた。

 なんで泣いているのか、自分でも分からない。


 理解しようとしても頭で完結しない。


 そんな安定しない視界の中で、机の上のノートに目が向かった。


「日記……愛花のこと……」


 体に上手く力が入らなくて、崩れるように机に向かいそれを開く

 開けば当然、毎日の記録が載っている。


 勉強の日。

 愛花がお話をしたいというから、勉強はなしにして話をした。

 彼女がスマホで見ているアニメや漫画の話。

 ずっと一緒にいるから、目新しい話題もそのくらいしかないみたいだ。

 それでも彼女は楽しそうに笑って話す。

 しまいにはサボってることすら忘れていた。


 体育の日

 愛花って足はそれなりに速いのに球技がどうしても苦手みたい。

 パスを出してみれば私の後頭部に思い切りぶつかった。

 痛かったけど、青ざめたような顔で反省する愛花はとても可愛かった。

 今度は彼女のパスコースに入ってみようか。

 どんな顔をするだろう。また申し訳なさそうにするのかな。


 愛花の失敗の記録。


 愛花の可愛かった瞬間をメモして、記録する。


 そのついでに話したことなんかもメモをしている。

 愛花の要望に応えてあげるために。


 そうすれば彼女は私を頼る。


 私の思う形で愛花は育ってくれる。

 私の大好きな愛花のまま、ダメなまんまでいてもらうことができる

『飛べない鳥を握って愛でてるだけ』


「……っ!」


 頭の中が痺れた。


 黒板を引っ掻いた音のように鋭く嫌な言葉が、頭の中で思い出される。


 そしてその言葉を思い出した瞬間、私の記した愛花の失敗の記録が……ひどく醜いものに見えた。


「……これは、なに?」


 正気に戻ったのか、ハナから正気だったのかは分からないけど。

 水上瑠姫の紛うことなき正論を聞いて、鳥肌がたった。


「私が間違ってるの……?」


 分かってる。正しい姿ではないことは。

 でも、それでも罪の意識みたいなものが私の心の奥を蝕んでいる。


「愛花……は……ダメな子だから……」


 そうだ。そのはずなのだ。

 私がダメにしたら意味がない。


 そうじゃないから私は彼女のことが好きで……それを守ろうと……っ!


 そして堰を切ったような不安は止まることはなかった。


「もし愛花が成長してたら……どうなるんだろ」


 吐き気を催すほどの不安が喉元まで迫る。


「もしあの家庭教師のやり方が正しくて、それを理解したら愛花は私をどう思う……?」


 嫌われる。


 その言葉を頭の中で浮かべる前に、ノートへまた水滴が垂れた。


「今から確かめる……いや今はとにかく学力を修正しなきゃ……でもそしたら……っ!」


 ダメだ。と冷静になる。


 こればかりは、干渉出来ない問題だった。


 これは、愛花の選択でしかないから。


 いつもハズレを選んでしまうようなダメな彼女を守るためには、私からダメな方向へ誘導してはいけない。


 私が誘導したら意味がない。


 そしたらもう彼女はダメな子ではなく、堕落させられた子になってしまう。


 それはダメ。絶対ダメ。


「どうしよう……!」


 考え始めたら不安は一つじゃない。


『あなたは葉矢川の家に恨みがあるんでしょう?』


 水上瑠姫の邪推を信じてしまったらどうしよう……?


 愛花が出来る子になってしまわないか、ずっと不安。


 普通だったら信じない。


 けれどあの子はダメな子だから、あの妄言を信じてしまうかもしれない。

 普通に考えればそんなはずがないのに、それすらも信じてしまうかもしれない。


 否定したい。けど、先回りして否定したら彼女の心はどう動く?


「どうしよう……どうしようどうしよう……っ!」


 気づけば手は震えている。


 不安が私をこの場に縫い止めている。


 成績が伸びて、彼女はいい子になってしまって、私は付き人を外され、瑠姫の言葉を鵜呑みにした愛花に嫌われる。


 そんな最悪のシナリオが、私の頭の中で線を取る。


 明日世界が崩壊するという都市伝説と同じ類の、自分ではどうしようもない不安が胸を支配するのに、その不安が実を成す可能性は非常に高い。


「はぁ……はぁ……っ!」


 不安が喉元を押しつぶす。


 上手く息ができない。


 愛花、愛花……。


 祈るように名前を舌先に載せる度に、瞳は潤み視界が歪んで輪郭を溶かす。


 明日のテストが不安で仕方ない。


 愛花と共に、私の運命が決まる。


 愛花に捧げようと思っていた人生が、私の唯一の生きる理由が、私にとって簡単なテストひとつで蝋燭の火のように吹き消される。


 その恐怖に私はただ暗い私室で蹲りながら、怯えることしかできなかった。


 だって考えても答えなどは出ないのだから。


 愛花がどうするかで決まるから。


「明日のテストで……全部……」


 決まってしまう。


 いつもはそんな状況でも愛花はダメな方向へ舵を切り、困ったら私を頼る様子にワクワクしていたけれど。


 今は死刑宣告に近い絶縁宣言を待つような気分だった。

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