第56話 夜明けの船(Codename: Ship of Dawn) 第二話「呼ばれるように落ちていく」

操縦席には、微かにリンゴの匂いが漂っていた。


その匂いは、モーヴァの口から漂っている。


モーヴァの片方の頬が膨らみ、キャンディーが口の中を反対側へ移っていく。


甘いリンゴの味が、口いっぱいに広がっている。


その隣からは、ペパーミントの匂いが微かに漂っていた。


後ろの席にいるユーマの口にはキャンディーはない。


代わりに、クッキーが入っている。


クッキー缶も、すでに半分くらい空になっていた。


「ユーマさん、紅茶入れましょうか? 博士もいかがですか?」


モーヴァが二人に聞いた。


博士は頷く。


ユーマは元気よく、


「んたっまー!」


と言った。


モーヴァは理解したのか、立ち上がると後ろの部屋へ向かった。


博士はユーマに聞く。


「ユーマ、今なんて言ったんだ?」


「いただきます!」


ユーマはキリッとした表情で答えた。


博士はボイスレコーダーを取り出すと、何かをブツブツと呟き始めた。


---


モーヴァのいる部屋は、こじんまりとしたキッチンになっている。


モーヴァはそこで湯を沸かしていた。


ティーカップが三つ、並べられている。


お湯が沸騰すると、まずカップをお湯で温める。


それからティーバッグを入れ、お湯を注ぎ、蓋をして待つ。


使った水は流し台を通って補給タンクへ戻される。


どうやら、この宇宙船は水を燃料として利用しているらしい。


モーヴァには、その原理は分からない。


だが、かなり画期的なことらしい。


財団の人たちも驚いていた。


やはり、博士は凄いのだ。


モーヴァはお盆にティーカップを三つ乗せると、操縦席へ戻っていった。


---


しばらく飛行が続いていた。


窓の向こうには、遠くに星雲が見えている。


角度が変わっても、赤紫色の星雲は遠くにあるままだった。


三人とも宇宙空間を見慣れてきたのか、少し飽きてきている。


ユーマはそんなことなど気にせず、モーヴァに街の洋食屋の話を聞かせていた。


「ハンバーグカレーってなんですか?」


モーヴァが聞く。


ユーマは得意顔で説明を始めた。


その話を、博士はボイスレコーダーにボソボソと記録している。


コルヴォ博士は二人の会話に聞き耳を立てながらも、目は全方向を見ていた。


そして――


博士は宇宙空間の異変を察知した。


「モーヴァ! 前を見ろ」


モーヴァも前方を見る。


そこには、ぱっくりと開いた渦巻状の円形が見えていた。


しかも、それは急速に大きくなっている。


宇宙船の航路は、まるで何かに引き寄せられるかのように、その渦へ一直線に向かっていた。


モーヴァは前方のスクリーンを拡大する。


円の内部は、墨を流し込んだような漆黒だった。


星の光はおろか、観測されるはずの宇宙背景放射さえ、そこでは完全に失われている。


宇宙船はどんどん近づいていく。


減速は効かない。


まるで巨大な手が船体を掴んだかのように、ボールがミットに収まる必然性をもって、その黒い渦へと一直線に向かっていた。


「飲み込まれちゃう!」


ユーマも、ぱっくりと開いた渦巻状の円形をアワアワと眺めている。


「モーヴァ、渦巻の嫌いなものだして!」


「ユーマさん、渦巻の嫌いなものってなんですか?」


モーヴァもユーマに質問を返す。


「二人とも落ち着け」


博士が言った。


「航路がそこを行くなら、行くしかないだろ。あれはワームホールだ。どこかに繋がっている」


博士はそう言うと、座席のシートベルトを締め直した。


二人も博士を見て、シートベルトを締める。


宇宙船は、漆黒の渦へと流し込まれていった。


漆黒が船体を包み込む。


それは、単なる光の消失ではなかった。


知覚そのものが失われていくようだった。


耳の奥は、キーンという高周波の金属音に支配されている。


自分の身体がシートに固定されているのか。


それとも、重力から切り離されているのか。


それすら判別できない。


瞼を閉じているのか、開いているのかさえ分からない。


突然――


耳の奥で鳴っていた高周波の金属音が、断ち切られた。


そして、視界に光が押し戻された。


---


船室のランプがチカチカと点滅した。


やがて、定常の光を取り戻す。


周囲の空間は、先ほどまでのゼリー状の歪みから解放され、硬い定規のような安定した虚空へ戻っていた。


「抜けた……」


コルヴォ博士が、安堵とも驚愕ともつかない声で呟いた。


正面の窓のずっと向こう。


星々の間に、異様な輝きを放つ球体が見えた。


それは恒星ほどの熱を持っていない。


それなのに、周囲の星々の光をすべて掻き消してしまうかのように、過剰なまでに濃密な光を放っていた。


モーヴァはスクリーンの倍率を上げた。


そこには、青い惑星の姿が映し出されている。


惑星の夜の部分までもが、まるで別の小さな恒星のように光り輝いていた。


昼と夜の境目さえ、曖昧になっている。


その光は、文明の飽和。


銀河でもトップクラスの賑わいを誇る惑星であることの証だった。


そして宇宙船は、その青い惑星へ向かって進んでいる。


「どうやら、あの星を目指しているようだ」


博士は、メガネの奥の目をぱちくりさせながら言った。


「この距離だと、五時間くらい掛かりますね」


宇宙船のコンピューターが計算した結果を見ながら、モーヴァが答える。


「わたし、ハラハラしたせいか、お腹すいた」


そう言うと、ユーマは最後のキャンディーを口に入れた。


「わたし、レトルトのカレーとお米を使って、カレーライスを作りますね」


モーヴァはそう言うと席を立ち、後ろのキッチンへ向かった。


ユーマは、カレーの歌を歌い始めた。


コルヴォ博士はモニターに映る惑星を見ながら、考えている。


果たして、惑星に着いてからどうやって発信者を探せばいいのだろうか。


航路は、惑星までしか表示されていない。


すぐに見つかるのだろうか。


そもそも、あの惑星は安全なのだろうか。


考えれば考えるほど、問題は山ほど出てくる。


こうしている間にも、宇宙船は惑星へ近づいていた。


「出来ましたよ」


モーヴァがカレーライスを運んでくる。


博士は考えるのをいったん止め、カレーライスを食べ始めた。


「美味しい!」


ユーマは何度もそう言いながら食べている。


モーヴァもニコニコしながら食べていた。


しばらくすると、ユーマは眠ってしまった。


モーヴァも、うつらうつらしている。


博士は二人に仮眠を取らせることにした。


二人が眠ると、博士は一人、宇宙空間を見ながら、また考え始めた。


---


それは、突然起こった。


宇宙船が、激しい光に照らされる!


「止まりなさい!」


船内に、突然声が響いた。


「都市惑星ワブボボの入国許可証を確かめるため、乗船する!」


博士が顔を上げる。


モーヴァも目を覚ます。


そしてユーマも――


「……カレー?」


寝ぼけた声を出した。


宇宙船の外から、何かが近づいてくる。


夜明けの船の旅は、まだ始まったばかりだった。

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