第21話『博士のいない時間』――ひとりで止めたもの
朝日がまだ昇らない、紫がかった深い空の下。
森はひんやりと静まり返り、葉の隙間からわずかな光が漂っていた。小鳥の声もまだ遠く、世界が目覚める直前の気配に満ちている。
博士は研究に没頭した末に眠りにつき、研究所は静まり返っていた。
今、この時間を共有するのはモーヴァただ一人である。
モーヴァは森に立ち、そっと息をついた。
博士の前でやってみせるには、まだ自信がない。だからこうして、一人で練習しに来たのだ。
ぎこちなく口を開き、鼻歌を試す。調子も外れ、旋律と呼ぶには粗い。けれども確かに「鼻歌」と呼べるものだった。
改めて思い返す――操られていた、あの時の記憶は空白のまま。
「……わたし、こまった」
しばらく動かずに考え込む。
やがて、博士の本にあった方法を思い出す。
それは禅の書からの引用だった。
――「なにも考えず、体にまかせる」
「……たぶん、正解」
モーヴァは目を閉じ、身を委ねた。すると体は自然に、規則正しく動き出す。
手の動きに合わせて、モーヴァの胸郭から機械音が響いた。
しかしその低いうなりは、不気味なノイズを孕んでいた。
森の空気が歪み、木々が軋む。
――あの時と同じ。
亜空間の兆し。
じわじわと広がる異変に、モーヴァの心に不安が走る。
そのとき、遠くで声が蘇った。
『あ、モーヴァじゃん! 何描いてんの?』
『ふーん……なんか、音楽のリズムに似てない?』
――ユーマ。
あの時に聞いた言葉。その声の調子とリズムが、ふいに蘇る。
モーヴァは口をすぼめ、ユーマのリズムをなぞるように口笛を吹いた。
リズムが森に溶け、乱れた機械音を押し戻す。
歪みは薄れ、亜空間の入口は完成される前に、静かに消えていった。
やがて日が昇り、清々しい光が森とモーヴァを照らす。
博士が眠りから覚めるころには、この出来事は跡形もなく消えているだろう。
まるで最初から、なにも起きなかったかのように。
博士の知らないところで、モーヴァはひとりで危うさを越えた。
それは記録にも残らない、ほんのわずかな「博士のいない時間」だった。
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