【33】ストリートライブ
フライヤーは千鳥が、行く先々でばら撒いてくれた。天雫は開演時間ぎりぎりまで粘っている。ナイトフォールズのコルクボードにも貼ってくれたそうだ。あいにく雄吾は店を守っているが、「みんなで思いっきり遊んでおいで」と、お守り代わりに銀色のいぬのキーホルダーを貸してくれた。
「ヴァイオリンのライブです! “エ・アニム”のパガニーニの演奏が聴けるのは今日だけです! よろしくお願いしますっ」
「選挙前の政治家みてぇな」
フルレンジのキーボードをセッティングし終えた千鳥は、クリアビール片手にフライヤー配りを見物している。機材の持ち運びや設営を手伝ってくれたのは風雅だった。美也子からはフルーツサンドの差し入れ。凛とつながる人々総出で築かれるステージ。不覚にももう、それだけで胸がいっぱいになってしまう。
すぐそばにシュティレも待機していた。冴が凜を見下ろす。
「君んとこのジュークボックスちゃんたっての希望だから許可してやるけど、インジケーターが少しでも反応したら君は即刻検挙、楽器は没収だよ? そこまでが条件だからね」
「え」
戻ってきた天雫の表情が固まった。
「……そんなこと、一言も」
「ん-? だってさそれは、君じゃなくて武藤との契約だからね」
白い顔が青ざめていく。その肩を小突いた。
「おい、わたしを信じているんじゃないのか」
シュティレにとってはあくまでも検挙のチャンスなのだろう。むろん、彼らに利することでなければ承認などしてくれるはずがない。
「わたしの
「頼んできたのはそっちだろ? 無理して聞き入れてんのに随分な言いようだね」
今回限りの特例であることはわかっていた。ステージとしての段差のない、地続きのストリート。厳密には「ライブ」ではなく「実験」であるため、投げ銭すらも受け取れない。「音楽家」として生きていくことはできない、という無言の通達だった。それでも、ヴァイオリンを持てるのならば。
「千鳥」
「おん?」
前座で何曲か弾くことになっている千鳥のファンも来てくれているようだ。顔見知りと軽口を叩きあっている彼をつかまえた。
「わたしの演奏が妙だと感じたら、おまえが止めてくれ」
自分自身への疑いが晴れたわけではない。情けない、とは思ったが、確証は、なかった。
「得体の知れないインジケーターなどよりも、おまえの耳に止めてほしいんだ」
瞬きをした千鳥は、やがて得意気に片手を差し出す。アームレスリングをするときのような——“おまじない”の形だ。
「あの武藤聖二でも消せなかったマエストロ、伊藤空人直系のピアノだぜ? 消せるもんなら消してみろや」
祈るように互いの手を固く握る。ハーメルン事件の生き残りである千鳥の伴奏は、最強のお守りだった。開演時刻。千鳥の華やかな「黒鍵のエチュード」が開幕の合図だった。通行人が足を止め始める。凜がヴァイオリンを構えると、数人の通行人が眉を顰めていた。だがシュティレのロゴの入った「音響実験中」というキープアウトテープの手前、表立っての非難は聞こえてこない。
(ちょうどいい、番犬になってもらうぞ)
飄々と微笑む冴が、これ見よがしにインジケーターを顔の高さに持ち上げた。癪に障るが、それが条件だ。
(……今度反応を出したら、本当に終わりだな)
腕組みをした不破が、神妙な面持ちで監視している。彼らにとっても昇進のかかった職務なのだろう。誰がおまえたちの思い通りにしてやるか、と思った。最前列で瞳を潤ませる天雫に、頷いてやった。
A線、D線、G線、E線。丁寧にチューニングをした弦をもう一度目でたしかめる。わたしのアマティ。むろん本物ではないレプリカだ。それでもわたしが弾けばきっと、本物になる。是が非でも、本物にするんだ。少なくともわたしのこのステージをつくってくれた、天雫や千鳥や風雅たちにとってだけでも。
サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」。ドラマティックな哀愁の調べに、万感の思いをのせた。
子どもの頃から何度自分に問いかけても、返る答えはただひとつ。
不可能な要因を数え上げてどんなに否定してみても、他の道へ力づくで誘導してみても、自分をだますことなどできなくて、結局振り出しに戻ってしまう。わたしの前提はもうずっと昔から私の目の前に突きつけられていて、わたしがそれを選ぶことはもう時間の問題だったのだ。
(——ああ、そうだ)
凜は弓を引く。触れる弦が、こまかくふるえているのを目でたしかめる。その振動がボディを介して、肩にも伝播するのを肌で感じる。凛の体をすら増幅装置としてアマティの音が、空間にみちわたっていくのを感じる。
無数に分かれた分岐の繰り返し。征臣の弟子となり、空人さんに伴奏を頼み、天雫を拾い、千鳥とぶつかって、冥に拒まれて。いつもヴァイオリンが、音楽があるほうを選んできた。その選択の最先端にいま、わたしは立っている。
あのときの判断が今招いたこの状況がどんなに不本意でも、ヴァイオリンを弾いていなければ、私は私ではない。
人が必ず死ななくてはならないように、何も傷つけずに生きてゆくことはできないように、そしていつかわたしや天雫や千鳥がいなくなっても、この世に音楽は鳴り続けるように、わたしはヴァイオリンに恋をする。
逃れられない、避けては通れない理として。
(ヴァイオリンへの想いが、わたしの魂柱だ)
だから諦めたくない。わたしがわたしであることを。
——だが見えているはずの答えに、たどりつくのはこんなに難しい。
後半にさしかかり、ヴァイオリンが高らかに歌う。楽器ががらりと変わったように力強く、情熱的に。千鳥との、息もつかせぬ高速のかけあいだ。火花を散らせるように炸裂するピチカートに歓声が上がる。口角を上げた。
インジケーターなどもうどうでもいい。シュティレがわたしの音を異端だと、悪魔の音だと言うなら、悪魔の音を弾ききってやる。そうだ、わたしは生まれながらに悪魔の娘だったのだ。わたしからヴァイオリンを取り上げたいのなら、わたしを殺すしかない。
パガニーニ の「24の
聖二の顔を――私の顔をした運命が、どこかから静かにわたしを見下ろしている。わたしが弓を置き、ヴァイオリンを仕舞い込んで鍵をかけるのを待っている。
そう簡単に思惑通りにはなってやらない。わたしは従順な天使ではなく、謀反の悪魔だから。
切なく胸を締め上げるようなパガニーニの名曲で、凛は街を彩る。通り過ぎる人々が投げかけていく冷たい視線。ヴァイオリンの悪魔にはそれさえも賞賛だ。難なく飲み込み、この旋律で色彩を書き換えて、己の腹の裡に宝石として結晶する。そして足を止めてくれる人たちの表情は、宝石店のガラスケースを覗き込むようだった。お気に入りのひとつぶをそこから探し出すような、期待と喜びにみちた笑顔。目が合った聴衆の一人に、凜はやわらかく目を細める。
(さあどうぞ、手に取ってご覧ください。あなたにお似合いのものを、たくさん取り揃えていますよ)
もっともっとわたしのアマティを歌わせるんだ、と気持ちが逸る。つややかなヴェルヴェットの上にダイヤモンドを、ルビーを、サファイアを、とりどりの宝玉をばらまくように。哲樹のノートのなかでヴァイオリンがみせてくれたあのシュプリームの、至極の輝きをもう一度。あの時のようにはかがやかなかったけれど、あの深く澄んだブルーの光が、ヴァイオリンをかすかに縁取ったように、見えた。
(そうだ、こんなにも音楽は美しい!)
そこにあるだけで心を丈夫にしてくれる音楽。音楽を浴びせると、このからだは喜びで震えるのだ。フラワーロックのように、音楽に賦活されてわたしは手足を動かす。ガードレールの向こう、渋滞するテールランプが、凜を照らす演色性の高いスポットライトの煌めきに変わる。なにも構うな、ボウイングとフィンガリングにだけ集中して。最後の一音にまで魂をみなぎらせて弾くんだ。
気がついたら、拍手に包まれていた。音楽に満たされた高揚感からぬけきれないまま、聴衆に向けて何度も頭を下げる。ようやく弾ききった。二か月もかかってしまった。なんて長尺のラ・カンパネラ。人だかりの前で、天雫が泣いている。
(何を大げさな)
夢見心地のまま撤収し、もつれるようにマンションに戻る。ベッドまで行く必要はなかった。ソファの前、ラグだけで十分贅沢な寝床だった。三人で寝転び、ブランケットを取り合ってかける。
「完全燃焼したわー。まだアタマん中で鳴ってるわー」
「ありがとう、凜。わたしね、今日とても幸せな気持ちだった。凛見てたよね? みんな笑顔だったよ」
「……わたしもだ」
わたしの音楽の使い道。
何のために私は弾くのかを、彼らの音楽から学び、自分で考えてみる。
わたしが生まれ持った魂のセットリスト。弾ききるまでは到底終われない。
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