ドルチェ編 ~ハウラーとの因縁、聖二との再会~
【34】包括ライセンス枠
電波を挟んでいるのに、あの長身が迫るように感じた。
「俺たちは契約を履行したよ。満員御礼でよかったねえ?」
「……はい」
「できるようになったぁ? 俺の言ったコト」
「いえ、まだ……」
「……いいの? そのままで。これから武藤の敵はどんどん増えてくよ。君の声を失うのはけっこう痛手なんじゃない?」
平静を装ったつもりだったが、顔に出ていたらしい。終話するとすぐに凛につかまった。
「誰だ?」
「……結城さん」
「……なぜ結城がおまえの連絡先を知っているんだ?」
顛末を話すと案の定、凛火山が噴火した。たいがい年中活火山なのだ。
「道理で奴らがノータグのプレーヤーに協力なんて、柄にもないことをしたわけだ。あの色眼鏡の口車に乗せられて、なんて軽率なことをしたんだ!」
「ご! ごめんなさい! 検査とかするだけかもと思って……」
「こんの超ド級のマヌケめ!! ネギしょってみりん抱いて鍋で寝てるカモめ!!」
「うぅ……」
「終わったことはもうしょーがねーじゃん、なん? なんかができりゃあいいんだろ? やるべきはそっちだろ。条件なんだっけ?」
「ええと……口の中を、コンサートホールにすること……」
「……」
「……」
顔を見合わせて黙り込む。
「ドンマイ天雫」
「達者でな」
「おせわになりました……」
ラグに三つ指をつき深々と頭を下げる天雫をよそに、凛は腕組みをする。
「特訓するぞ。我が家のジュークボックスを差し押えられてたまるか」
「そ、それよりも凜のライセンスをなんとかしなくちゃ」
「それは今、絶賛お祈られ中だ」
モチベが爆上がりした凜が次に狙うのはオーケストラが持つ「包括ライセンス枠」だった。オーケストラの規模や創設者の経歴によって、ライセンスのないプレーヤーも楽団に所属することができる特例制度だ。もう直談判しかないと踏み、片っ端から問い合わせをしている。が、悉く断られていた。経済的な事情で音大に通えなかったというならともかく、ライセンス発行禁止だ。わざわざ火種を抱え込む物好きはいない。
「まーでもレゾナンス・フィルみたいなとこもあるかもしんねーし、やるだけはやろうや?」
レゾナンス・フィル——通称「レゾ・フィル」。創設者の鳴瀬和音は“元”世界的な指揮者だ。レゾ・フィルは彼の私設のオケだが、「妻に似た孤児を、包括ライセンス枠で囲っている」という噂がある。ハーメルン事件の直後に行方不明となった妻は、かつては和音のコンサート・ミストレスだった。現在ははぐれものの音楽が集う“ビザロ”エリアを中心に活動している。
「……純粋な才能だけで枠を使っているプレーヤーのほうが珍しいのかもな」
悪魔に魂を売る理由が、悪意とは限らない。悲しみゆえに歪んでしまう者だって、決して弱いわけではない。狂うことも呪うことも、ごくあたりまえの、ことだ。
「……それはそれとして、もう少しよく聞こうか?」
「……はい」
小さくなった天雫の前に、凛はカフェオレを満たしたお気に入りのマグカップを置いてやった。
「なあ結城」
「ん-?」
「……音楽とは、そんなに悪いものだろうか」
「えヤバ、大丈夫?」
定例業務を終え、応接用のソファでゴロゴロしていた冴が、珍しく血相を変えて跳ね起きる。士織の額に手を待てて熱を測りだした。
「音楽を擁護する発言は密告対象だぜ? 仕事増やすのヤメテ? 今日も定時で上がりたい」
「弾いている武藤は幸せそうだった。彼女だけじゃない。加藤も、伊藤も、そして聴衆も……とても、うれしそうだった。これまで見てきたような不健全な狂信や、音楽中毒には見えなかった。少なくとも僕は職務中、あんなふうに人々を笑顔にしたことはない。彼らがあんなふうに笑っていられるなら、僕らの出る幕はないんじゃないか?」
拍手を贈る聴衆の前で胸に手を当て、凛は何度も何度も頭を下げていた。「足を止めてくださってありがとう、聴いてくださって本当にありがとうございました」。爛々と燃える瞳のサファイアブルーが大粒の宝石のようだった。彼女が弓を上下させるたびに、そこにある空気が、空間を構成する原子の粒子が磨きあげられていくようだった。ガラスの曇りを拭うようにクリアになった視界に、薔薇色に紅潮した頬がいっそう生き生きとして見えた。街灯さえもそのルクスをあげたように、確かに見えたのだ。平熱を確認したらしい冴が問う。
「……おまえの
焦げるような痛みはあった。けれどなにか、その痛みの方こそ、自分に刻まれたバグのように思えたのだった。僕は本当に、それを痛みと認識すべきなんだろうか?
「……わからない。結城はあれを見てどう思った?」
冴はしばし思案して、さらりとわらった。
「帰りたかったぁ」
「……君に聞くんじゃなかったよ」
冴については、なんとインジケーターの電源を入れ忘れていたことが判明した。本人は「誰も消えなかったし、結果オーライじゃね?」とけろりとしていたが、彼のこだわる昇進の機会をみすみす失ったことにもなるというのにのんきなものだ。気をもんで損した、と安堵してしまったのは不覚だった。
「……定時だし、聞かなかったことにしといてあげる。不破、おまえシュティレ向いてないんじゃない?」
さっさと退勤する冴に取り残される。眞白さんと話したい、と思った。静寂の騎士たる自分が、こんなことでは駄目なのだ。「私もそうだったわ、大丈夫よ」と、よくある気の迷いだと、自分たちが護っている静寂が正しいのだと、払拭してほしい。そうしないとどうしても、去り際の凛を思い出してしまうから。「当てが外れて、気の毒したな」と傲岸に微笑むヴァイオリニスト。翻るタキシードドレスは持ち主と同じ、まっすぐに見据えてくるような冴えた、強靭なシュプリームだった。
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