【32】アーキタイプ・ディストピア

 渡された楽譜を、千鳥は気のなさそうにめくった。

「細かっ」

「空人さんのノートを奪った凶器だ。彼はもう……戻ってこない。燃やすなり破るなり好きにしろ」

 武藤聖二の手がけた楽曲のコピーを、唯一の遺産として凜は征臣から預かっていた。原本はシュティレに提出済みだ。聖二の心が理解できず苦しんでいた征臣。千鳥の隣に座る天雫は、唇を引き結んで成り行きを見守っている。傍らの凛を見、千鳥は楽譜を雑にテーブルに放り出した。

「座れば?」

 声をかけても、一向に棒立ちのままでいる凛を眺めやる。おもむろに立つと、勢いよく頭突きを喰らわせた。

「いっ――」

「座れっつってんだろ」

 額を押さえてうずくまる凛に、前の席を顎で示す。凛は黙って腰を下ろした。

「俺は武藤聖二の娘じゃなくて、武藤凛と話してんだけど。今そういうつもりで俺と話してるんだよな? そうじゃねえなら帰れ」

「……ここはわたしの家だが?」

 反射的に言い返してしまう凛に、不敵な笑みを取り戻す。

「もらっといていーんだよな? 風雅のヤツにも見せてみるか」

 気を取り直したように、楽譜を矯めつ眇めつした。

「でもこれ……すげぇな、見てみ天雫」

「えっ? でも……」

「そうじゃなくてホラ、すっげー譜面が綺麗じゃん?」

「ふづら?」

「音符の並びっつーか、単純な楽譜の見た目。譜面綺麗なやつって曲も綺麗なんだぜ。これ弾いてみたくなるな。怖ぇわ」

 どういう顔をしていいかわからずにいる凜を、茶化すように見やる。

「いつまでそんな顔してんだよ。俺が武藤聖二を負かしたら、こいつが今世紀最大の記念品(プレゼント)になるかもしれないぜ?」

「そ……そうだよ。きっと千鳥がやっつけて……くれるよ?」

「……やつを仕留めるのはわたしだよ」

「いーや、俺だね」

「何を、貴様」

 活気づいてきた会話に、これ幸いと天雫が乗っかる。

「あの、あのね? ……わたしも凛にプレゼントというか、リクエストがあるの」

「……真逆のカテゴリーだが?」

 緊張した面持ちで一枚の紙をテーブルに載せる。手書きの、チラシの原案のようだった。見出しに目を奪われる。

「デザインはまだ叩き台だし、曲目も日時も未定だけどね。雄吾さんに作ってもらったの」

 ——武藤凛ワンマン路上ライブ。“エ・アニム”のパガニーニの調べ。筆跡からして、どうにも千鳥の文字も、混ざっているようだった。当の千鳥は素知らぬ顔で口笛を吹き始める。

「ヴァイオリンを、弾いてほしいの。ステージがだめでも、まだストリートがあるよ。……凛のヴァイオリンを聴かせて」

 両手を組み合わせて凜を見つめる瞳は、潤んでいた。



 勝手なことをぶち上げた天雫を締め上げ、礼を言うために雄吾にメッセージを送った。「よかったら練習を見に来てくれないか」と返信をもらい、サンライズの特製ドーナツを提げてスタジオを訪れる。入り口で声をかけられた。

「見学?」

「すみません。雄吾さんに連絡をいただいて……」

「ああ、このあいだ、千鳥くんたちと来てくれてたよね? あの、遊園地のライブで」

 男性は遠藤彼方と名乗った。見た顔だ。ファゴットを吹いていた気がする。雄吾の補佐役のようだ。雄吾はパートリーダーと打ち合わせ中らしい。手持ち無沙汰にならないよう、彼方は話し相手になってくれた。

「彼方さんも、この楽団での歴は長いんですか?」

「そうだね、雄吾くんが指揮者になったのは最近だけど……付き合い自体は長いかもしれない。彼は自分を見くびらせるのがうまいから。わざと懐に入らせて、却って人の心をホールドしちゃうというかね。まあ自覚ないんだろうけど」

 彼方もコードタグをしている。本人は「ブロンズだけどね」と謙遜していたが、凜には十分眩しかった。

「ここには僕みたいな妻子持ちもいれば、学生もいる。リタイアしたプロ演奏者もいる。いろんなライフスタイルを持った人たちが集まったごった煮のオケなんだ。それを束ねるのは、本業のオケをまとめるのとはまた別の苦労と度量がいる」

 雄吾には、それができるということだ。やがて雄吾は「ようこそー」と気さくにやってくる。並んでドーナツを食べた。

「本当にありがとう、雄吾さん」

「俺は何もしてないんだ、書類書いたくらいで」

 推薦した者がトラブルを起こせば、当然ホルダーも責任を問われるのだ。ライセンス試験の顛末だって知っているのに。凜とは全然違う道を通ってきたのだろう、その心根。

「そういえば、哲樹くんだっけ。このあいだのあの男の子はどうなった?」

「ああ、ピンピンして出ていったよ。……すまない、雄吾さんに話すのが遅くなってしまったな」

「俺は本当に通りすがっただけだから。……でもな。あのくらいの年頃の子って、どうにも気になっちまって」

 含みのある言い方だった。目で促されて、雄吾は静かに続ける。

「俺にも、年の離れたきょうだいがいるんだ。母親は別なんだけどな。生まれる前に、離れて暮らしてる父親と連絡がつかなくなって——性別もわからないんだ。捜してるんだけど……なかなか、な。だからなんか、他人と思えなくてさ。みんな妹とか、弟に見えちまう」

 こんな社会情勢のなか、人探しなんてただでさえ難しいだろう。何の情報もないのでは、会えるのは絶望的な確率だった。キーリングにかかった鍵やチャームに埋もれている、小さな銀色のスティックを見せてくれた。

「父親がくれたんだよ。ホイッスルペンダントなんだ。どんなに離れていても、雄吾がこれを吹いてくれたら、お父さんはサックスで応えるからって。——父も母もね、サックスプレーヤーだったんだよ。俺の、大好きな音だった」

 何かあったときに危険を知らせられる笛。銀(しろがね)の輝きには、親から子への祈りが込められていた。そしてそれを、雄吾も継いだのだろう。

「俺の妹ないし弟にも、それを伝えたくてさ。会えるかどうかもわからないけど」

「……きっといつか、会えるはずだ」

 正確には、会えてほしい、と願ったのだった。こんな人が悲しんではならない。我ながら、気休めだ、と苦々しく思ったが、雄吾は笑った。

「……ありがとう、凛ちゃん。君が本気で言ってくれているのがわかるよ。何も状況は変わらなくても、それだけで少し救われる。人ってそういうものだよな」

「できることがあったら言ってくれ」

 ハウラーが跋扈するこの世界で、いったいどれだけの“できること”が自分にあるのだろう。あれから密かに、“ノートを開く”練習をしたりなどしていた。師もいなければ教本もない、手探りの技巧。それでも確かに体験した。哲樹のやつにもっと詳しく聞いておけばよかった、と思う。無我夢中でほとんど無意識だったが、なにやらアマティも光っていた。やつにできるのなら、わたしにだってできるはずだ。……おそらくは。

(タグだってつけていなかったんだし)

 ライセンス試験以来、ヴァイオリンを弾く意味は変わりつつあった。母さまを傷つけたくない、という思いは今でもある。天雫や千鳥、そして雄吾のはからいが、嬉しいのは間違いない。けれど凛の座標は、聖二や冥が動かしてきた。そのふたりの重力を抱えて、わたしは弾いてもいいのか。……決めるのは、いったい誰か。拭えない罪悪感と、消えないぬくもりと。いったいわたしはなんのために弾くんだろう。目の前の人は、ただ、人々と音楽をわけあう喜びに向かって吹いている。

「……雄吾さんは、すごいな」

「う?」

 辛苦に裏打ちされた、揺るぎない優しさ。空人と同じように。どんな悲運も、彼らの優しさを破れなかった。そのあたたかな強靭。

「みんながみんな、あなたのように強くあれるわけではないから。わたしときたらたかだか父親があれであるというだけでご覧の通りだ。時々、自分の脆弱さが厭になるよ」

 なんらか思案した後、雄吾は唐突に立ち上がる。

「俺たちをみなアクリルガッシュとするっ」

「いや、しないが?」

「凛ちゃんは青で俺は緑とするっ」

「……」

「同じ赤をまぜても、凛ちゃんは紫で俺は茶色になる。全然別の色だ。同じ経験をしたとしても、感じかたは人によってそれだけ違うんだ。苦しみの尺度だって、人によって違う。それは決して比べられるものじゃない。強いとか弱いとかじゃなく、そのひとにとってどれだけの苦しみか、だろう?」

 武藤聖二の血。世界で私しか感染していない病理。ヴァイオリンを弾く限り、いつわたしも狂うかわからない。その発症に怯え、孤立する。

「……慰めだと受け取っておく」

「俺は少なくとも、君を弱いだなんて、とても思えない」

「……ありがとう。雄吾さん。少し楽になれた気がするよ」

「そうだ、ラクしろ、楽しめ。それが音楽の醍醐味だろう?」

 はにかむように笑った雄吾の眼差しに、ふと彼らしい篤実が兆した。

「なあ、凛ちゃん。もし本当によかったらなんだけど、俺のとこのオケでやってみないか? シルバーライセンスなら、条件付きで単発のゲスト枠は用意できる。職業にはできないけど……みんなで弾くのは楽しいし、アマチュアでも意外といろんな学びがあるよ」

 その提案が思いがけなさ過ぎて、真顔になってしまった。

「プロを目指してる君に、こんなことを言うのはおこがましいのもわかってる。……でももしその気になったら、俺はいつでも君を歓迎するよ」

 遠慮がちで、けれど必死な表情だった。行き場のない自分への、それは同情でも憐れみでもない。ただ凛を想い、悪魔をその背に引き受けようとしている。

「みんな嫌がるだろう」

「そんなことない!」

 雄吾が声を荒げるのは珍しかった。自分でも驚いたように口をつぐむ。

「……失礼だったらごめん。決して君のヴァイオリンを軽んじてるわけじゃないんだ」

「とんでもないぞ、雄吾さん。……ありがとう。とても嬉しい」

 だからきっと、私が雄吾さんのオケに加わることはないだろう。ひとりきりで弾き続けることより、私をかばってこの優しい人が傷つくことのほうが耐え難い。このひとと天雫がくれた一回きりのストリートライブを、絶対に後悔したくないと、思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る