【31】紳士協定

 身体が思う通りに動くようになるまで、数日を要した。窓から差し込む西日で、辛うじて時間の流れを知る。屋上に出ると、柔らかなソプラノの声が風に乗って流れてきた。

「あの――」

「あ、体調はもういいの?」

 長いリボンが夕風になびいている。天雫、という名前だったか。おぼろげな記憶の中で、この歌声を聞いた気がする。

「……ええ、まあ。おかげさまで」

「そう、よかった。……凛と千鳥にお礼を言ってね。連れてくるように言ったのは千鳥だし、ここを使わせてくれたのは凛なんだよ」

 返答に窮して、思いついたことを口にした。

「……ドヴォルザークですね」

「そう。『我が母の教えたまいし歌』。大好きな曲なの。わたしの場合は、本当に母が教えてくれたから……形見みたいな、ものなの」 

「……僕も、父に残してもらったものがあります」

 ポケットを探り、手に馴染んだそれを取り出す。かすかな金属音がした。

「なあに?」

「ホイッスルペンダントです。——生まれる前に行方不明になった父が、僕にと」

「……そう、なんだ」

 細い筒状の、銀色の笛。それ以外の情報を知らない。捨てられなかったもの。今となっては、哲樹の出自を証明する唯一のものだった。

「そんな大切なものを、見せてくれてありがとう」

「……助けて、もらいましたから」

「それなら、雄吾さんにも会わなきゃね?」

 並んで座るかたちになった。

「母さんが最後に、わたしに言っていたの。人の痛みのわかる、優しい人になってねって。もしかしたら……あなたがいちばん、近い場所にいるのかもしれないね」

「……僕はただの人間嫌いの偏屈小僧ですよ」

「でも、彼らの痛みを少しでもわかろうとしてる。自分の近くにいる、一番弱いもののために必死になってる。凛みたいに」

「……あのひとが、ですか?」

「そうだよ。凛はとても優しい人よ。だからわたしは凛や……あなたのような音をつくりたいと思うの」

「僕の音なんざ、痛いだけでいいことないですよ」

「でも、じゃあどうしてあなたは、その痛いだけの音を作り続けてるの?」

「……」

「あなたのノートは、確かにひとを傷つけるノートだった。でも……そうだとしても、わたしはあなたのノートが悪いものだとは思えない。知らなければよかったなんて思えない。それがどうしてか、まだうまく言えないけど、とても大切なことだと思うから」



「チェロを、返してくれませんか」

「……反省はしたのか」

 天雫がアレンジした果物中心の食事を摂り、哲樹は順調に回復していた。

「悪かったとは、思っています」

「もう一声だな」

「……これは、この世界に蓄積している痛みです。他の誰でもない、僕らが彼らに強いてきた膨大な惨劇の記憶です。誰も言い逃れはできません。……そして今この瞬間にも、悲鳴はあがり続けている」

 チェロのためとはいえ、適当な嘘をつく男ではないらしい。とりあえず最後まで聞くことにした。

「もちろん僕だって何もまとわないで生きてゆくことは出来ない。屋根のないところで暮らしていくことは出来ません。でも社会の中で善良な人たちが幸せにしているのを見ると戸惑ってしまうんです。その人たちが悪いわけではありません。けれど思わずにはいられない。どんなに優しい人でも生まれたばかりの赤ん坊でも、幾重もの犠牲の上に生きている。その裏で人間のためだけに――時には生きるためですらない、娯楽や贅沢のためだけに生まれて殺されていく彼らの気持ちは、どこへいくんだろうって」

 それは哲樹の、偽りのない感情なのだろう。自然と沸き起こってくる感情に、哲樹自身が苦しんでいる。不憫な気もしたし、同じ穴の狢であるような気も、した。

「ノートというのはね、自分の裡に眠るものでありながら自分で掌握できるものではないんですよ。展開してみるまで、その光景は自分でもわからない。ひとたび開いてしまえば、もう広がってゆくのをとめられないんだ。……そう考えると、少しは怖じ気づきませんか」

「何を言い出すかと思えば……このわたしのノートだぞ? 究極の絶景と決まっている」

「……めでたい人ですね」

 哲樹は笑ったが、駅前で会った時のような刺々しさは、もうなかった。

「でも凛、本当に美しいノートをつくるためには、このうえなく醜悪な、凄惨なノートも知らなければならない。僕はそう思います。彼らの痛みを知ることなしに、命の美しさを語ることなどできないように。この世界は見る人次第で天国にも地獄にも変わる。愛に満ちた絶景も凄惨な戦場も、間違いなく現実にあるものですからね」

 無言で頷く。哲樹のノートを見て、なんとなく理解したのだ。ノートとは、この世界に対するその人なりの解釈でもあるのだと。

 解釈の数だけ世界はある。同じ世界を生きながら、わたしたちに見えているものはなんと異なることだろう。

「ところで、あなたはもう弾かないんですか? 休んでいると、聞きましたよ」

「――」

「武藤聖二が絡んでいるとなると、さすがに怖気づくんですね」

「そういうわけではない」

「その程度で仕舞い込める思いなら、はじめから弓を握ってはいませんけどね。僕は。今後のあなたに期待するしかありませんか。わりとグズグズした奴ですね」

「おまえが言うか、あれだけ陰湿極まりない鳥の歌をやった奴が」

「僕を焚き付けておいて、自分は弾かないなんてムシがよすぎますよ」

「……ならばせいぜいやってみるがいい。今はまだわからない。わたしとおまえの、どちらが先にその答えを見つけられるか、勝負だ」

 真っ向から対峙する。

「それまでは、留保の状態だ。……もうあんな無差別な真似はするなよ」

「……いいでしょう」

 凛が伸べた手を、哲樹はしばらく見つめてから握った。強く。

「約束しましたよ」

「紳士協定に応じるとは、少しは見直したぞ」

「紳士協定? とんでもない。宣戦布告、ですからね。……途中で逃げるんじゃねえぞ」

 チェロを返したその日の明け方、哲樹はひっそりと姿を消した。「ありがとうございました」という、細い字で書かれたメモだけを残して。

 ヴァイオリンはまだ、ケースの底で眠っている。

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