【30】フルーツバスケット
「寝かしつけ大成功」とドヤ顔をする千鳥with天雫と入れ替わりに、フルーツバスケットを枕元に置いた。
「……そこそこ考えましたね」
皮肉に口角を上げ、哲樹は億劫そうに起き上がる。
「どんなに伝えたい想いがあってもやりかたがお粗末では、癇癪を起こしている子供と大差ない」
「——偉そうに。お前に僕の何がわかるんですか」
「ああ、わからん。おまえの痛みも考えていることも私にはわからん。おまえの見えているものを伝えられる奴は哲樹、おまえしかいないんだぞ。それなのに正しい手段を取らなくてどうする。きちんと手順を踏んで、彼らの認める舞台に上がってはじめて、主張の中身を取り沙汰してもらえるんだ」
ライセンスを取りたかったのは、そのためだった。弾くだけならば“フォルテ”や“ビザロ”の一部で弾けないこともない。だが自分はこの世界に背を向けずに、正当なヴァイオリニストなのだと、知らしめたかった。
「わたしの連れにここまでやらせて拒むのなら、生きるも死ぬも好きにしろ。だがおまえが死ねばおまえのノートも死ぬ。彼らとやらの惨状を知っているおまえが弾かなければ、おまえの音楽の系譜はそこで途切れる。おまえそのものではなく、おまえのノートをこのまま死なせることに、お前は納得できるのか? ——それは、おまえの音楽に対する侮辱だ」
このまま手放した方がいいのかもしれなかった。あの慟哭のような「鳥の歌」。哲樹のノート——
「……ヴァイオリンを弾いていましたよね。貸してもらえませんか」
「……すぐに返すのならな」
一瞬、あのノートが過った。わたしを丸腰にして、またあのノートに巻き込むつもりだろうか。わからない。アッシュブロンドの隙間からのぞく物憂げな瞳。その奥底に、不器用な慈しみが蹲っているエメラルド。……その不確かさを信じるより、なかった。ケースを開け、飴色のヴァイオリンを手渡す。
「おい、握り潰すなよ」
「ああ、失礼しました。チェロと違ってだいぶん華奢ですね」
チェリストは握力が強い。チェロとヴァイオリンの弦の並びは混線している。調律に手間取っているのがわかった。弓を持ち、ややたどたどしい手つきで弾き始めた。バッハの「G線上のアリア」。痛み以外のものを表現できないかを、探しているように。
「……おまえは、いったい何者だ? シュティレどもが血眼になって追っているハウラーなのか?」
「……は? あんな連中と一緒にしないでください」
弓が止まる。不本意そうだった。
「何を、あれだけ人を傷つけておいてしゃあしゃあと。似たようなものだろう」
「いいえ、真逆ですよ。撤回してください」
「貴様どの面下げて」
「僕は違う。——彼らの目的は、他者のノートを食らうことだからです」
絶句する凜に、淡々と哲樹は続ける。
「人の幸せを抽出し、濃縮したものがノートです。その高濃度の幸福感を味わうためにノートを奪うんですよ。人が一生かけて味わうあらゆる種類の幸せ――快感と言ってもいいかもしれません――を、まるまる貰い受けるわけですからね」
「——」
なんと言っていいかわからなかった。嘘を言っているようにも見えない。
「中には僕みたいな例外もいます。そういう者がハウラーになる資格があると、近藤絶佳は言っていた。自分や人の、幸せ以外のものを願う者が」
「おまえはなぜ、そんなことを知っている?」
「……」
「わたしの連れの父親はつい最近、……おそらくは、ノートを奪われていなくなった」
「……いなくなった、んですか?」
「そうだ。その後で連れは彼の声だけを、聴いたそうだ」
痛みを堪えるように、哲樹は苦く笑った。
「……そのひとは、いいひとですね、きっと」
「なぜわかる?」
「そういうものですから」
「——もう、戻っては来ないのか?」
「……残念ですが、そうです。声だけを聴いたなら、それは確かにノートを奪われて……そして、消えたということですから」
「……そうか」
しばし無言になる凛に、ヴァイオリンを返してよこした。
「指の間隔が狭すぎますね」
「借りておいて文句を言うな」
無事に戻ってきたことに、ひとまず安堵する。
「おまえはなぜ、私たちのノートを奪わなかった?」
「……他人のノートになど興味はありません。変に生き延びられても資源の無駄ですしね。だから、彼らのスカウトも丁重にお断りしました」
「奴らに勧誘を受けていたのか?」
「ええ。でも言ったでしょう? 僕は知ってほしかった。僕の演奏で起こる痛みは、僕のノートの――僕らがこれまで犠牲にしてきた命の、痛みですから」
「身を以て、か」
「ええ。そして知ったなら、教えてほしかっただけです。僕らが人間である意味を。……誰も答えてくれませんでしたけどね」
「——ならばともに見つけだすしかないだろう。わたしに負けたくはあるまい?」
フルーツバスケットから投げたりんごを、哲樹は受け止めた。しばし眺めてから、赤くつややかな果実に皮ごと噛みつく。もそもそと咀嚼するのを見て、少し肩の荷が下りた気がした。
「……凛、もうひとつだけ教えてあげられる。ノートを奪うには特定の楽曲を弾かなければならない。ノートを奪うための楽曲というものがあるんです。それはヘンデルやヴィヴァルディではない。……僕の知るハウラーが弾いていたのは、武藤聖二の楽曲」
人の心を食らう悪魔の、呪文。
「彼らはあなたの父親が作曲した音楽で、人々のノートを奪っている。——彼はそれを、“ナンバー・ディストピア”と……そう、呼んでいました」
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