【29】天啓
屠殺場、という場所を知ったことが、ひとつのきっかけではあったと思う。
最初はそこにいる人間を憎悪した。けれど時間が経つにつれ、誰も好き好んで、動物たちの命を奪っているわけではないのだということを知った。むしろ誰よりも命の重みに触れ、それでも誰かがせざるを得ない役割として、その手を汚しているのだ。命を食らうことの必要な、多くの人の代わりに。食らって生きる、殺して生きる。その営みを責められないことは、わかっている。——けれどそれならば、せめてその苦痛とだけでも、凄惨さとだけでも向き合わなければ、名もなき無数の生き物たちに、僕らは顔向けできないのではないか?
暗いトンネルの奥底、ワイヤーフレームの中に哲樹はいる。ぐるぐると廻るその球体の檻のなかで、哲樹の重さで潰れてゆく音符たち。その痛みが、哲樹に返ってくる。だってこうでもしなければ、不公平ではないか。
(大丈夫ですよ、わかっていますから)
宙に投げ出され、落ちる衝撃。終わることのない痛みの葬列。だから僕はこの檻の中で彼らの痛みを感じ続ける。痛みを言葉にすることができない彼らの代わりに。それを主張する、最後のひとりになっても。
(だから安心して死んで)
(あなたたちの痛みは、僕が引き継ぐから)
(人間に、絶望しないで下さい)
雄吾が対応を引き受けてくれ、「知人」ということにして、哲樹を連れ帰ってきた。全身に打撲や擦過傷はあったものの命に別条はないらしい。が、予想に反して回復は思わしくなかった。何しろ水以外、一切の食事を受けつけないのだ。
「食べたくありません。……命でないものがない」
凛たちにではなく、哲樹は医師にそう言った。
「僕は自分が人間であることに、心底嫌気がさしたんです。……ですからどうぞ、お構いなく」
わざわざ往診を頼んだ結果が栄養失調とは。
「筋金入りだな。ある意味見直したが」
「これでゴリゴリ肉食ってたら逆に友達になりてえけどな」
「とはいえここで死なれても後処理が面倒だ。どうしたものか」
肉や魚はおろか、野菜や穀物すらも口にしないのだ。医師はビタミン剤を注射してくれたが、食物を摂らないことにははじまらない。つきっきりでいるわけにもいかず、ひとまず出勤することにする。万策尽きて美也子に相談を持ちかけた。
「日増しにカオスになってくわね、あんたんちは」
締め作業のあと、フルーツサンドを切ってくれる。真っ白なクリームではなく、細かく砕いたアールグレイの茶葉が贅沢に練り込まれた、品のあるロイヤルミルクティー色のクリームなのがサンライズオリジナルで、つい先日試食した時から凜の推しメニューだった。
「上司として何か助言はないのか?」
「いいじゃない、きっと愛情に飢えてんのよ」
「……愛情に飢えただけであんなツイストドーナツみたいな人格ができあがるのか……」
美也子は数年前、夫と子どもを“行方不明”でなくしている。サンライズはそこからひとりで立ち上げた店だ。注がれるべき愛情をうしなった子どもたちと、愛情を注ぐ対象をうしなった親たち。うまくいかないものだ。
「乳製品も卵もダメっていうのはわかるけど、野菜もダメとはねえ……。それは手ごわいわ」
もきゅもきゅと精力的にフルーツサンドを平らげる凜を見て、美也子は指を鳴らした。
「そしたらさ、果物はどう? あれは植物を殺して奪うものじゃないわよ」
「だが、卵や乳製品だって、鶏や牛が死ぬわけではないのに食わないんだぞ」
「卵なんかとは違うわ。果物はもともと、鳥や獣が食べるために作られてるものでしょ。種を運ぶために。それなら納得するんじゃない?」
「——」
「何よ」
「さすがは年の功だな」
「ぶっ飛ばすわよ」
眠りながらうなされる哲樹を、千鳥と天雫はかわるがわる看護していた。
「もったいねえなあ、チェロ弾けんのに。せっかくノートだっけ、面白そうなことできるってのにさ。どいつもこいつも音楽下手すぎだろ」
「……うん」
確かに千鳥なら、誰かを招ける自分の異空間があったとしたら、それはそれは派手な音楽でデコレーションすることだろう。遊び心満載の、ノートにするに違いない。けれどみんながみんな、千鳥のようになれるわけではない。目の前で蒼白な顔で眠る哲樹は、どんな風に生きてきたのだろう。何を見てきたのだろう。起こしても、会話はほとんどできなかった。語ることを、生きることを、全身で拒否している。檻に閉じ込められたように。それでもわずかずつ傷口は塞がり、皮膚がつながっていく。
「あなたはこんなにたくさんの命を内包してるのに……あなたの体は、こんなに必死にあなたを生かそうとしてるのに……死ぬなんて、もったいないよ、哲樹くん」
語りかける天雫の横顔に、千鳥が小さく言う。
「……出動するか」
「え?」
「凛のときもやっただろ。安眠アンサンブル。……気休めかもしんねえけど」
「——うん」
なんて無力。それでも少しでも痛みに寄り添いたいだけの、試み。千鳥が防音室から、ピアノの音を送ってくれる。哲樹のチェロも、そこで眠っていた。カッチーニの「アヴェ・マリア」。そっと、目には見えない哲樹の傷口を塞ぐことを願いながら。乱れていた呼吸が少しずつ、深くなっていく。
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