【28】ハウラーの流儀
佐藤哲樹はわずかに眉をひそめた。
駅の表側では、路上ライブをしているようだ。時々ここに吹きに来ている、鷹揚なトロンボーンの音。ほんのわずかだが音が届く。これではチェロは弾けない。別の音が混ざるのが、好きではなかった。じゃり、と靴底がコンクリートを噛む音に顔を上げる。顔を見て嘆息した。
「……また勧誘のお話ですか? お断りしたはずですが」
「おまえは見込みがあると思っていたんだがな」
「でしょうね。ですが、あなた方に加担するつもりはありませんよ」
「ただただ通行人に、人間の存在意義を問うだけか。何が楽しい?」
「いつまでも道を塞いでいると通行人の迷惑ですよ」
赤い短髪に灰色の瞳。哲樹と対峙する男は、シニカルな表情の奥に暴力を帯びていた。左耳に光る、ピンクがかったブラウンのスタッドピアス。
「だとしたらおまえは、みだりに他者のノートを傷物にしただけだ」
「……あなたが言うんですか? そんな真っ当なことを?」
「真っ当かどうかは知らねえが、それじゃあ困るのさ。傷んだノートは、食えたもんじゃねえからな」
哲樹の動きが止まった。f字孔のタトゥーを刻んだ左手が、反射的にチェロのネックを握る。縋るように。
「――そしておまえの辛気臭いノートなど、腹の足しにもならない。わかるか? 奪う価値もないということさ」
トロンボーンの音色は、いつの間にか止んでいた。手にしていたヴィオラを、男はひょいと肩に乗せる。
「近藤絶佳、ソロリサイタルだ。観客が一人とは、少々勿体ねえがな」
リボンが背中で踊る感覚が、天雫の心を弾ませる。
“フォルテ”エリアでの路上ライブ。クリップライトをつけたブラックボードに、セットリストが手書きされている。雄吾が時々吹いているのを、今日は手伝わせてもらった。凛のストリートライブの申請をしてくれたお礼だ。アマオケを率いる雄吾には固定ファンもいるようで、演奏が終わると拍手が起こる。凜もそのうちこうなるんだ、と思うと、期待はいや増すばかりだった。朗らかな言葉を交わし、聴衆を見送った雄吾は、てきぱきと片づけをする天雫に声をかける。
「ありがとう、天雫ちゃん」
「すごいね、雄吾さん。ストリートライブでもあんなに人が集まるんだね」
「もともとこういうのがウチの活動のメインだからな。ホールとかで吹くより屋外のほうが好きなんだよ。露天商みたいに音楽を売り歩くっていうか。なんかこう、果物屋さんで売ってるメロンとかパインわかる? カットして割り箸さしてあるやつ。アレみたいな感じで、フレッシュな音楽を通りがかりにひとくち食べてってほしいっていうか」
「それ、すごく素敵」
「てへへ」
照れながらも慣れた動きで水抜きをし、愛器を分解してスワブで拭っている。こうして何度も夜風を通すことで、雄吾のトロンボーンは夜のトーンをはらむのだ。あらゆるものを静かに包み込むような、濃密なインディゴブルーを。
「凜ちゃんにはもう伝えたの?」
「それがその……まだなんです」
「ちょうどバタバタしちゃったもんな」
あのときも、助けてくれたのは雄吾だった。ひどく憔悴していたが「朗報だ」と凜は言っていた。佐藤哲樹。彼が展開した異空間を、中和のような状態にもっていったこと。“ノート”という単語について、天雫ははじめて教わった。自分もシャボン玉を出せるには出せる——三人の時しかやらないようにしている——けれど、そんな大掛かりなことを、できる人がいるなんて。
「今、チラシを作ってるの。それができたら言います」
「優しいんだね」
「違うの、優しいのは凛なの。だから私も、凛のためになにかしたいだけなの」
「やさしいが循環してるんだね?」
「うふふ」
にこにこと見合っていると、駅の裏手から、かすかに音が届いた。
「……あれ、誰か弾いてるな」
低く唸るような弦楽器の音に、にわかに空気が張り詰める。そこに込められる、決して好意的ではないなにか。思ったことは同じだったようで、再び顔を見合わせた。
「どうしよう雄吾さん、もしかしたら、また誰かが、」
「フォルテだと、通告してもな……」
「……わたし、結城さんになら連絡できます、“エ・アニム”のシュティレの」
「シュティレは、違うエリアには出動できないんだよ。——天雫ちゃん、ちょっと耳塞いでてくれるか?」
分解したばかりのトロンボーンを手早く組み立て、雄吾は苦笑した。
「マナー違反だけどな」
天雫が耳を塞いだのを確認し、思い切りアタックを入れる。掌越しにも届くファンファーレがびりびりと空気を震わせた。トロンボーンの威嚇射撃。駅の向こうまで届いたらしく、音が鳴りやむ。トロンボーンを天雫に預け、雄吾が歩き出そうとする。
「ここにいてくれるかい? ……見てくるよ」
「わたしも行きます、一人じゃあぶないから」
「……わかった、ヤバそうならすぐ逃げて。約束してくれるな?」
短く約束を取りつけて、雄吾は駅の裏手に回る。人通りのない暗がりに、誰かが倒れていた。天雫は小さく悲鳴を上げる。
「どうして、こんな…?」
助け起こされた左手にタトゥーが見えた。ヴェルディグリの、f字孔。意識のないことを確認し、雄吾が携帯端末を取りだす。
「動かさない方がいいな。救急車呼ぼう。見ててくれるか?」
「はい」
あちこちから出血している。すぐそばにかがみ込み、胸が上下しているのを見守りながら、凛に電話をかけた。彼はきっと、凜の言っていたひとだ。
「おまえや雄吾さんがやられたわけではないんだな?」
「そうなの、哲樹……くんが、殴られたみたいなの。雄吾さんが病院に連れて行こうって……。付き添うから少し遅くなるね」
「かまうなよ、とどめをさして帰ってこい」
「そ、そんな」
そこで、端末の向こうの声が千鳥に変わった。「おい!」という凜の抗議が遠くに聞こえる。
「おまえ、受診終えたら、そいつウチ連れて来れる?」
「えっ? ええと、でも」
「チェロ隠しときゃあ、それ系のことは何もできねえだろ。使えるものは何でも使わねえと、ほんとのとこまで辿りつけねえよ。——いいな? 天雫。雄吾さんいんなら、事情話して手伝ってもらいな」
「でも、凛は?」
「……そういうことなら、拷問してでも聞きだすしかないな」
ふたりの同意を得て、電話を切った。瞼が動いた。
「……待ってね。今、救急車を呼んでもらってるから」
「誰、だ?」
首元のリボンに目を留める。頭を動かしたはずみで、こめかみから流れた血が頬を伝った。暗がりで気がつけなかった。あわててハンカチを取り出す。
「あの、このあいだ、ヴァイオリニストに会ったでしょう? わたしは、あのひとの……」
言いながら止血しようとした手首を、哲樹はものすごい膂力で掴んだ。
「いたたたたっ」
「……どうして、ですか」
天雫の悲鳴を、彼は意に介さなかった。
「母親が自分の子どもの苦しみを取り除こうとするように……あなたが僕の苦しみを減らそうとしているように……僕は彼らの苦しみがなくなってほしいと思っているだけです。僕らのせいで苦しみながら死んでいく生き物を、少しでも減らしたいだけです……。それはそんなに奇異なことですか? そんなに、人からおかしいと言われなければいけないことなんですか?」
必死の訴えだった。今まさに、目の前で死に絶えていく命を見送るだけの、身を切られるような静かな叫び。表通りに立っていた雄吾が救急隊員を連れて戻ってくる。
「待たせたな。――どうした、なんかあったか?」
天雫はかぶりを振り、滲んだ涙を拭って救急車に乗り込んだ。
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