【26】撃破

 全身を食い荒らす痛みの中で、わずかに凜は目を瞠る。 ノート? 確かにそう言った。征臣の言っていた、この暗くおぞましい情景がノートだと言うのか?

「僕は教えてほしいだけです。こんなにたくさんの犠牲を払いながら生きる意味が、価値が、果たして僕らにあるんですか? それほど人間は尊いのですか? だとしたらなぜですか? どうして僕らは存在自体がこんなにも残虐なのですか? なぜこれだけの犠牲の上に、僕たちは生きていかなくてはいけないのですか? ――どうして僕たちは、加害者でしかあれないのですか?」

 チェリストは再び手を止め、凛に問いかける。檻の中に、音符の死骸の上に倒れている凛の、わずか数メートル先。その眸にみちているのはたしかに苦悩だった。自分が人間であることに対する、深い、絶望。これまでとは違った感情が湧き上がってきた。

「……そうか。そういうことか」

 ハウラーの自覚など、ない。望んでもいない。けれどあのインジケーターが示すのが本当にハウラーの音の波形なら、わたしは何者なのだろう。たったひとつ愛した自分の個性が、すべてを賭して磨き上げてきた譲れないものが、人を傷つける害悪であるなら。

 ――あのときからわたしは腹の底で考え続けている。

 なぜ自分が、この世に生まれてこなくてはならなかったのかを。

「……まえ、を、」

 立ち上がると、ゆらり、と檻の底が揺れた。

「名前を、聞いていなかった」

 いつの間にか音符のなかに放り出してしまっていたヴァイオリンケースを引き寄せる。まだわずかなぬくもりの残る、灰色の音符のかけらたち。腕や肘が痛むせいで、指さえもまともに動くか少々心許なかった。チェリストの表情がわずかにゆらぐ。

「……佐藤です。佐藤、哲樹」

 本能的な行動だった。震える指で弓を手に取る。軋む肩にヴァイオリンをのせる。ワイヤーフレームの向こうの哲樹を見据えた。

「――演奏するつもりですか? あなたの、命の犠牲でできたヴァイオリンで?」

 哲樹のチェロの正体に、唐突に思い至る。カーボンファイバーと合成繊維だ。命の塊でできた伝統的な楽器を拒み、彼は無機物でできたボディと弓をえらんでいる。

「そうだ、哲樹。わたしは武藤凜、あの悪名高い武藤聖二の、娘だ。——わたしもおまえと同じものを探している。だからこそそのわけを見つける前に、くたばるわけにはいかない」

 凛の呼気を吸い込むように、ヴァイオリンが光を帯びた。シュプリームの輝きをその裡に溜め込み、脈打つように明滅する。この少年が、チェロを弾くことによってこの世界を、彼の感情を具現化しているのなら。

「わからないなら、誰も教えてくれないのなら、わたしたちで探すんだ、哲樹」

 哲樹が弦を押さえるより先、凛のヴァイオリンが鳴っていた。檻の中で。

 伴奏はいらない。手加減はしない。全力で弾いた。聴いている者がいる以上、いい加減なボウイングで空気を震わせるわけにはいかない。どんな荒れ果てた空間でも。ヴァイオリンをこの肩に載せて立つところが、いつでもわたしのステージだ。ライセンス試験で弾ききることができなかったパガニーニが、ワイヤーフレームを震わせた。

 ヴァイオリンが溜め込んでいた光が一気に放出され、間近で溢れる美しいシュプリームに目が眩む。ほんの一瞬だけ、ファセットカットの宝石が視界の端をかすめていくような気が、した。

 


 気がつくと駅前に戻ってきている。不可思議なことに、怪我はなかった。泥水のような疲労がまとわりついているが、何度も叩きつけられた痛みは消えている。

 ――生きて戻ってきた。わたしは、消えていない!

 荒い息でヴァイオリンを肩から下ろし、弓を滑らせて指先に引っ掛ける。そのまま掌を胸に当て、哲樹に向けて、頭を下げていた。自分でも理由を知らぬまま無意識に、ステージの上でそうするように。

 そこまでが限度で、膝をついてしまった。哲樹は凛に一瞥をくれるとチェロのケースを右肩にかけ、覚束ない足取りで離れていく。街灯の下を通過するとき、タトゥーの色が、黒ではなくヴェルディグリであることをようやく知った。

「待て……!」

 ぐらりと脳漿が揺れ、気分の悪さにうずくまった。消耗が激しい。とても追えそうにない。

(やつを野放しには……)

 ノートとはなんなのか。彼はハウラーではないのか。だとしたら何の目的で、どうやって。わたしたちは何者なのか。疑問符をぶつける相手をみすみす逃してしまう。

 どのくらいじっとしていただろう、不意に名を呼ばれた。

「凛ちゃん?」

「……雄吾さん」

 すぐ傍らに人の気配がする。背中を支える雄吾のてのひらは、あの演奏を想起させた。音楽を伸びやかに愛し、おおらかに抱くてのひら。

「大丈夫か? どこか苦しい?」

「……なぜ、あなたが……」

「千鳥くんが、君と連絡がつかないからって――近くにいるなら、ちょっとでいいから見回ってほしいって」

「……わたしが、もしこのままくたばったら……」

 力の入らない掌で、頑健な肩を掴んだ。

「あいつらに……黒い、チェロを持ったプレーヤーには気をつけろと……伝えてくれ。あなたも、だ」

「何言ってんだ、縁起でもない」

 意識の途切れそうな凜を、雄吾はかるがると抱き上げる。優しくたしなめる声が、不快感を遠ざけた。

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