【25】葬送競争(コルテージュ・レース)
瞬きの間に、あたりは別世界になっていた。コンクリートの高い天井。影が落ちている。トンネルだろうか。重く淀んだ空気のなかに、色褪せたグラフィティアートが見える。判読できない、異国の言語のようなそれは、五線譜に書かれた楽譜のようだった。チェロを構えたままの少年だけが、変わらなかった。
状況の激変に、頭が追いつかない。凜がいるのは直径6~7メートルほどの、球体の檻のなかだった。無機質な、つめたいワイヤーフレーム。骨組みだけの、地球儀のような。凛の足元には、無数の音符が蠢いていた。掌に乗るくらいの、黒いト音記号や四分音符。ヒールを埋め、足首に触れている。けものとも魚ともつかない、不思議な感触。けれど呼吸をしているのがわかった。生きている。未知の生き物のかすかなぬくもりがもたらすものは安心感ではなく、拷問器具に入れられてしまったような恐怖だった。球体は支えを必要とせず、地面を離れて揺れている。
「……なんだ、ここは」
座標が全く変わってしまったことも、閉じ込められていることも、すべてが不条理だった。チェリストは檻の外にいる。隙間から腕は伸ばせるものの、ギリギリのところで届かなかった。
彼は答えない。彼が弓を動かすと、球体の檻はゆっくりと廻り始めた。ラットレースのように、前に向かって。不意にバランスを崩して、派手に倒れ込む。下敷きになった音符たちがやわらかく圧殺される感触があって、生理的な不快感が這い上ってきた。起き上がっても、凛の下にいた音符たちだけがもう動かない。黒かった表面が灰色になり、やがて漂白されていく。それが、音符の死だった。後味の悪さを払拭する間もなく、凜のいる場所の傾斜が急になる。踏みこたえようとしても強制的に重心はずらされて、前のめりに押し潰してしまった。笛の音のような高いか細く悲鳴が、耳をつんざく。
「止めろ……!」
「どうしました? いつもあなたがしていることですよ」
ヴァイオリンケースをしっかり抱いた。バランスが取りづらいが、よりによって音符の死骸に埋もれさせるわけにはいかない。
「ほら、ね? 生きているとはこういうことでしょう? あなたは今日、何を食べましたか? 美味しく楽しく食事をしたのですよね? ――この世に僕らと等しく命を受けた、生き物たちの死骸で、ね」
咽ぶようにチェロが鳴り、球体の回転速度が上がる。一気に頂点まで巻き上げられた凜は、重力に放り出されて落下した。音符の敷き詰められた檻の底に激突する。
「――ッ、く……!!」
衝撃で一瞬、呼吸すらもできなくなる。ヴァイオリンと指をかばったせいで、肩や頭をしたたかに打ちつけていた。檻は無慈悲に回り続けている。痛みに悶える暇さえも与えてはもらえない。すぐ傍らの彼を、ワイヤーフレーム越しに見上げる。
「止めろ、なぜこんなことを……!」
「なぜ? あなたの食事と同じじゃないですか」
表情のない眸にぞっとした。わたしはここから、生きて出られるのか?
「別にあなたを責める気はありませんよ。悪気はないんでしょう? 彼らを苦しめるつもりなんて毛頭ないでしょう? ……それなのに食べずには、殺さずにはいられないんでしょう? 肉も魚も野菜もバランスよく殺して摂取して、そうやって生きて動いているんでしょう?」
凛の命をもてあそぶように、気まぐれに弾いては淡々としゃべる。檻の回転が一定ではないせいで、またしても凛は音符たちの上に倒れた。ヴァイオリンケースが投げ出される。折れて、ちぎれた音符たち。死にきれなかった灰色のものは、痛みにもがくように身を震わせている。
「それにしても……案外届かないものですね。彼らはこんなに痛々しい悲鳴をあげているのに。大半の人はそれに見向きもせず、お金儲けや恋愛沙汰や娯楽に必死です。音楽を生み出したわりに、人間というのは難聴ですね。これほどまでにたくさんの生き物の声が、なぜ聴こえないんでしょう」
動けていることにさえ罪悪感がつきまとう。7メートルから落下したのだ。本来なら平気なわけがないのに。——彼らを、下敷きにしたからだ。
「知ろうともしないというのは、ある種の防衛本能なのかもしれませんね。心ある人間なら、誰だって自分が生きているだけで他の生き物の喉をかき切っているジェノサイダーなんて思いたくありませんものね。『そこそこ不満はあるけれどそれなりに幸せで、家族や友人に愛されるかわいい自分』でいたいですものね? 僕のように自分の属する種を憎んでしまったら、それはそれは生きにくくてしかたがないでしょうからね。だけどね、僕らはみんな同罪です。一人残らず大量殺戮者です。人種も年齢も性別も職業も貧富も関係ありません。どんな差別もそこには介在しない。――究極の平等だと思いませんか」
弓が上がると同時に、本能的な恐怖に晒されて立ち上がるよりない。もう一度落下したら、動ける自信はなかった。よろよろと体勢を整え、回転を続ける檻の中を走りだす。凛の歩調にあわせ、音符たちの断末魔がひっきりなしに上がった。回って、倒れて、殺された音符たちの破片がワイヤーフレームの隙間から落ち、積もっていく。天井から新たな音符が、凜に圧し潰されるために降り注いできた。走っても走っても、ゴールにたどり着けないループのトラック。白く乾いた音符の死骸たちは、獣や魚の骨のようにも、見えた。
「人間として生きていくつもりなら、それなりの覚悟をしてください。僕らはこれだけ命を犯しているんですよ? いまさら反論できると思いますか? 音響犯罪で人が消えるなんて――どうということはないですよ。それがどんなに残酷だろうと、取り立てて嘆くことではありません。そうでもなければ僕らは到底彼らに顔向けできませんからね。順番ですよ」
もういくつ踏み殺したかわからない。自分を死から遠ざけるために、彼らを死に食わせている。そうすればどうなるかわかっていながら、その漆黒の
「毛皮を着るのもペットを飼うのも、僕は悪いことだとは思いません。それは個人の自由ですし、その人にとって必要なら止める理由もありませんからね。……ただそれなら、せめて彼らの悲鳴を聴いてほしい。彼らの痛みを知ってほしいんです。このノートの理由はそれだけ……そして、知るとはこういうことです。彼らへの扱いが妥当だと言うなら、しかたがないと言うのなら、別に同じことをされても文句はないはずですよね? その人自身が生きたまま刈り取られ、四肢を食いちぎられてもいいということですよ、ね」
少年が話すごと、言葉がガラスの破片となって皮膚に刺さってくるようだった。その声を耳にするだけで、からだじゅうに痛みがはしる。それは有無を言わさない、物理的な痛みだった。
「善か悪かの議論など、ここでは意味を成しません。僕らだって彼らを殺すことなしには生きていかれませんし、彼らにそんな概念は理解できなかもしれませんからね。――ですから、ここにあるのはただ痛みです。僕らが彼らに強いてきた命の犠牲の集積所。生きている限り、終わることのない殺戮の永久機関。それが僕のノート……“
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