第3話 一生、洗わせてもらえませんか

12月の倉庫に差し込む光は、夏より白く、温度が低かった。


麻衣はパイプ椅子に座って、ぼろぼろのキャミーを膝に置いていた。


隣に仁が座ると、麻衣はしばらく何も言わなかった。それだけで、今日も駄目だったとわかった。

 

手元に、くしゃくしゃに折り畳まれた給料明細があった。倉庫のバイト代と夢を天秤にかけている人間の手だ、と仁は思った。


指先が、紙の端をゆっくりなぞっていた。夢を追う金が尽きる前に、夢が尽きようとしている。


そういう顔だった。仁はそれを、黙って見ていた。何か言おうとして、止まった。また逃げるか、と自分に言い聞かせながら、椅子に座り続けた。

「……もう、諦めようかな」

 

怒りでも涙でもなく、ただ静かだった。その静けさが、かえって重かった。

「全部賭けて来たのに。諦めたあとの私が、全然想像できなくて」

 

仁は黙って聞いていた。立ち去りたい衝動が来た。椅子を引いて、「お疲れ様です」と言って、持ち場に戻れば終わる。


でも足が動かなかった。逃げるな、と自分に言い聞かせた。逃げたあとが、また続く。それだけは、一年かけて知っていた。


「仁さんは」と麻衣が言った。「逃げたくなること、ありますか」


「……あります。今もちょっと」


「正直すぎて笑えますね」


「でも」と仁は続けた。呼吸を一つ、意識して吐いた。


「逃げたあとが、ずっと続くんで。俺、知ってます。一年、続いてるから」


麻衣が仁を見た。品定めじゃなく、確かめるような目だった。


「一年、ここにいるんですね」


「……気づいたら」


「逃げてないじゃないですか」


その言葉が、仁の胸のどこかに当たった。逃げてきた一年だと思っていた。でも麻衣はその一年に、別の名前をつけた。


仁はキャミー2号をポケットから出した。


「キャミー2号は、まだここにいます」


麻衣はそれを受け取って、給料明細と一緒に両手でまとめて握った。


「キャミー、しっかりしてよね」


「……あの、俺じゃないですよね」


「仁さんにも言ってます」

 

麻衣は笑った。こらえようとして、こらえきれなかった笑いだった。

 麻衣は立ち上がった。


給料明細とキャミー2号を握ったまま、仁をまっすぐ見た。


「私と一緒に、もう逃げずに進もう」


白い廊下が浮かんだ。消毒液の匂い。床に座り込んだ自分の手。また逃げるか、と思った。


心臓が、一度だけ強く打った。握りしめていた手が、ゆっくり開いた。

「……俺、夜勤も入ります」


麻衣が目を丸くした。


「あんたのキャミー。一生、洗わせてもらえませんか」


沈黙が落ちた。


「……それ、プロポーズですか」


「タオルの、教育係として」


 麻衣はもう一度笑った。


今度は、こらえようとしなかった。

二人は並んで出口へ歩いた。


自動扉が開くと、白い光が差し込んだ。明日もまた、この倉庫に戻ってくる。何も解決していない。仁の過去も、麻衣の夢も、まだそのままだ。それでも二人は、並んで歩いた。

 

麻衣の手の中で、給料明細とキャミー2号が、一緒に温かかった。

 










キャミー3号が現れるのは、もう少し先の話だ。

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夢に負け続けた彼女が握るのは、ボロボロのタオルだった。 灰野 リグ @sakura_dibi

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