第2話 何回も落ちた夜、僕にはタオルしか渡せなかった
11月の倉庫に、冷気が忍び込み始めていた。
休憩室に入った仁は、隅のパイプ椅子に座る麻衣を見て足を止めた。
うつむいたまま、ぼろぼろにほつれた本家キャミーを両手で握りしめている。また、指が白くなるくらい。
いつも入ってくるなり「仁さん、今日のキャミーも絶好調です」と言う人間が、今日は微動だにしなかった。
「……落ちました。三回目です」
顔を上げないまま言った。声に、いつもの張りがなかった。
「感情が表面だけを走っているって言われました」
指がキャミーのほつれを引っ張った。
引っ張って、また戻す。その繰り返しを、仁はただ見ていた。
「地元じゃ誰も私の演技を見なかった。だから来た。それだけなのに」
声の端が震えた。強がりの皮が、どこかへ行ってしまっていた。
仁は何も言えなかった。
白い廊下が浮かんだ。
消毒液の匂い。
床に座り込んだ自分の手。
震えが止まらなくて、立ち上がれなくて、そのまま病院を出て二度と戻らなかった。
誰かになろうとして、なれなかった。
同じだ、と思った。だから言葉が全部、薄っぺらく感じた。
「大丈夫」も「またがんばれ」も、自分がいちばん嫌いな言葉だった。
そういう言葉で救われたことは、一度もなかったから。
仁はポケットに手を入れた。
指先に、折り畳まれた布の感触が触れた。あの日から、なんとなく持ち歩いていた。理由はわからない。
ただ、捨てられなかった。
仁はキャミー2号を、頭の上にそっと掲げた。
「……生きてます、キャミー2号」
麻衣が顔を上げた。
「……何してるんですか」
「元気だと証明しようかと」
三秒の沈黙。それから麻衣が噴き出した。
「受け取ります」
キャミー2号を両手で包んで、少しだけ息を吐いた。
肩が、ほんの少し下がった。それだけで、麻衣が少し遠くから戻ってきた気がした。
「仁さんって、なんで持ち歩いてるんですか」
「……捨てられなかっただけです」
麻衣はしばらく黙った。
キャミー2号を見て、それから仁を見た。
「不器用ですよね。でも、ちゃんとここにいる」
「……はい」
胸の奥で何かが鈍く疼いた。
否定できない分、少し痛かった。
それ以上、仁は何も言わなかった。
言葉を探しているうちに、また逃げてしまいそうだったから。
「……頼むぞ」と仁はキャミー2号に言った。
「聞こえてますよ」と麻衣が言った。
「……知ってます」
足元から冷気がじんわり上がってくる。
麻衣は本家キャミーとキャミー2号を、両手に一つずつ持った。二つのタオルを交互に見て、それから前を向いた。
窓の外は暗くなり始めていた。それでも麻衣は、席を立とうとしなかった。しばらくそのまま、二人とも黙っていた。
冷気が、二人の間をゆっくり流れた。何も言わなくても、ここにいていい。仁は初めて、そう思った。
それが怖くなかったのも、初めてだった。
キャミー2号が、麻衣の手の中でゆっくり温まっていくのを、仁は黙って見ていた。その温かさが、仁の手の甲まで伝わってくる気がした。確かに。
「まだ、やってみます」
今度の声は、さっきより遠くはなかった。
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