夢に負け続けた彼女が握るのは、ボロボロのタオルだった。

灰野 リグ

第1話 そのタオル、キャミーって言います

「キャミー、またお世話してね」

女はタオルに向かって、ごく自然な声で言った。

「……今、タオルに話しかけましたか」

「タオルじゃないです。キャミーです」

 坂東仁は固まった。

「タオルに……名前、ついてるの……?」

 八月の倉庫は、段ボールの紙臭さと機械油と汗が混じった空気が充満していた。


日雇いを始めて三ヶ月。


医学部を逃げ出してから一年。


実習初日、患者の血を見て廊下に座り込み、そのまま二度と戻らなかった。着信が鳴るたびに画面を伏せる。


友人の連絡先は全部消した。誰とも深く関わらなければ、また逃げても誰も傷つかない。


そう思って、ここを選んだ。段ボールを積んで、汗をかいて、誰とも目を合わせない。


誰かに名前を覚えられる前に、次の現場へ移ればいい。そうやって一年、やり過ごしてきた。それで十分だと、ずっと思っていた。


「見た目は完全にタオルですが」


「失礼ですよ、キャミーに。そういうこと言う人、キャミーは覚えてますよ」


 女は眉一つ動かさず言い切った。ただその指だけが、関節が白くなるくらいタオルをきつく握っていた。笑顔と、白い指。そのちぐはぐさが、仁の目に引っかかった。


見た目は普通の作業着姿だ。でも、あの指だけが違った。誰かにそう見せないように、笑顔で隠している。そんな気がした。


「狩野麻衣です。そっちはキャミー2号。本家と混同しないように」

「……坂東仁です」

「繊細なので丁寧に扱ってください」

「……承ります」


返す言葉が見つからなくて、仁はとっさにそう言った。麻衣がわずかに目を丸くして、それから小さく口角を上げた。


「筋がいいですね、仁さん」


仁はキャミー2号で額を拭いた。冷たい柔らかさが肌に馴染んで、汗が引いていく。段ボールを積む音、フォークリフトの唸り、遠くで誰かが怒鳴る声。それだけが仁の世界だった。


三ヶ月、それで十分だと思っていた。でも今日、初めて誰かの声が耳の奥に残った。


休憩が終わって、麻衣は持ち場へ戻った。


その背中を、仁はなんとなく目で追った。熱気の中で、麻衣はもう一度キャミーを握った。


さっきと同じように、指が白くなるくらい。誰かに見せるためじゃない。自分が壊れないために握っている。


そんな気がした。笑顔のまま、指だけが必死な人間を、仁は初めて見た気がした。それがどういう意味なのかは、まだわからなかった。ただ、目が離せなかった。


仁は手の中のキャミー2号を見た。白くて四角くて、どこからどう見てもタオルだった。でも今日、仁はこれを捨てなかった。ポケットに入れたまま、持ち場に戻った。


積み上げた段ボールの隙間から、熱気がじわりと流れ込んでくる。汗が、また額を伝った。今度は拭かなかった。キャミー2号を、ポケットの中で握ったまま、仁は箱を積み続けた。なぜかはわからなかった。ただ、手放したくなかった。ずっと、ずっと、そうだった。


それだけは、確かだった。仁はもう一度、ポケットの中のキャミー2号を握った。手のひらに、布の柔らかさが馴染んだ。

 名前を覚えなくていい場所で、仁は今日初めて、誰かの名前を覚えた。


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