最終話「風林火山、ここに尽く」
天正二年(1574年)春。
木曽川の戦いから数日後。
戦は、決して終わってはいなかった。
武田軍は、整然と退いていた。
敗走ではない。
崩壊でもない。
だが――勝利でもなかった。
武田信玄は輿の中で、じっと目を閉じていた。
咳は、もはや隠しきれない。
血の量も、日に日に増している。
「……御屋形様」
馬場信春が声をかける。
「甲斐へ戻るべきにございます」
沈黙。
しばしの後、信玄は目を開いた。
「戻らぬ」
その声は、かすれていたが――意志は揺らがない。
「ここで退けば、信長は息を吹き返す」
それは事実だった。
織田軍もまた消耗している。
だが、尾張・美濃という本拠を持つ彼らは、立て直しが早い。
対して武田は遠征軍。
時間が経てば経つほど、不利になる。
「……では」
馬場が続けようとした言葉を、信玄は制した。
「決める」
その夜。
武田本陣で開かれた軍議は、これまでとは違っていた。
静かで、短く、そして重い。
「織田は、鉄砲を壁とする」
信玄は言う。
「ならば、その壁を壊すのではなく――崩す」
重臣たちは黙って聞く。
「敵の“構え”を乱す」
そのために必要なもの。
「夜」
一言。
「総力をもって、夜襲をかける」
ざわめきが走る。
織田軍は、規律が高い。
夜戦にも備えている可能性がある。
だが――
「今しかない」
信玄の声は、静かだった。
「わしが生きておる間に、信長を討つ」
それが、すべてだった。
同じ頃。
織田信長は、夜空を見上げていた。
「……来るな」
誰に言うでもなく、呟く。
武田は、退いた。
だが、それで終わる男ではない。
「次がある」
そしてそれは――
「急ぐ」
信長は命じた。
「陣を詰めよ。隙を作るな」
彼もまた、感じていた。
これが、決着の前触れであると。
その夜。
月は薄く、雲に隠れていた。
武田軍は、音もなく動いた。
騎馬を抑え、足軽を先行させる。
草を踏む音すら殺す。
山県昌景が先陣を切る。
その後ろに、馬場信春。
そして――
中央に、信玄。
「……いくぞ」
小さな声。
だが、それが合図だった。
最初の火は、織田陣の外れで上がった。
「敵襲!」
叫び声。
だが、その直後――
別方向でも火。
さらに、別の場所でも。
多方向同時攻撃。
織田軍の陣が、一瞬揺らぐ。
「崩せ!」
昌景の号令。
武田兵が、一気に突入する。
混乱の中、鉄砲は十分に機能しない。
夜。煙。叫び声。
視界は悪く、指揮は乱れる。
だが。
「落ち着け」
織田信長の声が響く。
「慌てるな。位置を守れ」
驚くべきことに、織田軍は崩壊しなかった。
各部隊が持ち場を維持し、徐々に体勢を立て直す。
「……さすがじゃ」
武田信玄は呟く。
だが同時に。
「もう一押し」
混戦の中。
ついに、両軍の中心がぶつかる。
信玄の本隊と、信長の直近。
距離――わずか。
「信長……!」
誰かが叫ぶ。
だが、姿は見えない。
旗印だけが、闇の中で揺れている。
信玄は、馬上で咳き込んだ。
激しく。
血が、止まらない。
それでも。
「進め」
その一言で、兵は動く。
一方。
信長は、その報を受ける。
「信玄、本陣近し」
一瞬。
そして、笑った。
「よい」
「来い」
戦は、さらに激しさを増す。
だが、その裏で――
信玄の身体は、限界に達していた。
意識が、遠のく。
音が、消える。
視界が、揺れる。
「……御屋形様!」
誰かの声。
だが。
信玄は、ただ前を見ていた。
(あと……少し……)
その時。
一陣の風が吹いた。
旗が、大きく揺れる。
武田の「風林火山」。
織田の「永楽通宝」。
二つの象徴が、同じ風にたなびく。
信玄は、ふと笑った。
(ここまでか)
夜明け。
戦は、自然と止んでいた。
どちらも、これ以上は動けなかった。
そして。
武田本陣。
沈黙。
誰も、声を出さない。
そこにあったのは――
静かに横たわる、武田信玄の姿だった。
その報は、すぐに広がった。
武田信玄、死す。
享年、五十を過ぎてなお、戦場にあった男。
武田軍は、撤退を開始する。
指揮を引き継いだのは、武田勝頼。
だが、軍の空気は変わっていた。
あの男がいない。
それだけで、すべてが違った。
一方。
織田本陣。
織田信長は、静かに報を聞いた。
「……そうか」
それだけだった。
喜びも、油断もない。
ただ一言。
「終わったな」
戦は、織田の優勢のまま終わる。
だがそれは、圧勝ではない。
信玄は、確かに信長を追い詰めた。
あと一歩で、歴史は変わっていた。
後年。
人は語る。
もし、武田信玄が、あと数年長く生きていたならば。
もし、あの夜、もう一押しできていたならば。
天下は、武田のものになっていたかもしれぬ、と。
だが現実には。
生き残ったのは、織田信長であった。
そしてその道は、やがて――
天下布武へと続いていく。
風は止んだ。
だが、その名は消えない。
甲斐の虎。
戦国最強と謳われた男。
その生涯は、最後の最後まで――
戦であった。
― 完 ―
もし武田信玄がもっと長生きしていたら @tomatyan33
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