第二話「開戦」

天正二年(1574年)春。

美濃南部――木曽川流域。


ついに、両軍は対峙した。



武田信玄率いる武田軍は、山間と河川を背に陣を敷いた。


騎馬の機動を活かすため、あえて平野に出切らない。

敵を引き込み、崩す――それが信玄の狙いである。


本陣には、山県昌景、馬場信春ら歴戦の将が並ぶ。


「……織田はどう出る」


信玄の問いに、昌景が答える。


「正面に鉄砲隊を展開。後方に備えの兵。数においては、我らを上回ります」


信玄は小さく頷いた。


数では劣る。

それは織り込み済みだった。


「よい」


視線を前方へ向ける。


「数で勝つ戦など、つまらぬ」


対するは、織田信長。


織田軍は平野に大規模な布陣を敷き、前面に鉄砲隊を展開していた。


後に長篠の戦いで完成を見る戦術――

その“原型”とも言える配置である。


軍議の場。


柴田勝家が声を上げる。


「敵は山を背にしております。ならば押し潰すのみ!」


だが信長は、首を振った。


「違う」


静かに言う。


「引きずり出す」


そして続ける。


「武田は“待つ戦”に長ける。ならば、こちらが仕掛けてはならぬ」


「では……?」


問うたのは、羽柴秀吉。


信長の目が細くなる。


「揺さぶれ」



戦は、昼過ぎに動いた。


織田軍の鉄砲隊が前進し、間合いを測る。


乾いた音が、平野に響く。


――ダン、ダン、ダン。


統制された射撃。


武田軍前衛に弾丸が降り注ぐ。


だが。


「動くな」


武田信玄の命は、ただ一つ。


動かぬ。


騎馬も、足軽も、ただ耐える。


「……撃たせよ」


無駄に突撃すれば、鉄砲の餌食となる。

それは、信玄も理解していた。


やがて、鉄砲の音が途切れる。


再装填。


その僅かな“間”。


「今じゃ」


信玄の目が鋭く光る。


「左翼、出よ」



山県昌景率いる赤備えが、風のように動いた。


正面ではない。

側面へ――


地形を縫うように進み、織田軍の横腹へと迫る。


「来たぞ!」


織田方に緊張が走る。


鉄砲の向きを変える。

だが、間に合わない。


騎馬が、距離を詰める。


「撃て!」


散発的な銃声。


数騎が倒れる。

だが止まらない。


「突き崩せ!」


昌景の号令とともに、武田騎馬が突入した。


だが、その瞬間。


「――そこだ」


織田信長が、静かに言った。


織田軍後方。


控えていた予備隊が、一斉に前進する。


さらに。


側面にも、伏せられていた兵が現れる。


「挟め」


信長の策は単純だった。


“誘い込み”。


武田の機動を逆手に取り、包囲する。



激突。


騎馬と槍。

鉄砲と刀。


戦場は、一瞬で混沌と化す。


「……ほう」


武田信玄は、わずかに口元を緩めた。


「読んでおるな、信長」


ならば――


「馬場」


「は!」


馬場信春が応じる。


「中央を押し上げよ」


「……!」


それは、あえて正面から圧力をかける命令だった。


鉄砲の射線に入る危険な動き。


だが――


「今、敵は側面に気を取られておる」


信玄の読み。


実際、織田軍の一部は昌景の対応に兵を割いている。


「一気に崩す」


武田中央軍、前進。


鉄砲が火を噴く。


兵が倒れる。


それでも、進む。


「押せえええ!」


怒号。


ついに、織田軍前列と激突する。



その頃。


戦場の背後――


小規模な軍勢が、静かに動いていた。


徳川家康。


彼は、あえて本戦には加わらなかった。


「……今だ」


低く言う。


狙うは、武田の補給線。


「火を放て」


徳川軍が、後方の兵站拠点へ奇襲を仕掛ける。


煙が上がる。


武田軍の一部に動揺が走る。



報はすぐに、信玄のもとへ届いた。


「……家康か」


わずかに目を細める。


「面白い」


だが同時に。


咳。


激しい咳が、信玄を襲う。


膝に血が落ちる。


「御屋形様!」


近習が駆け寄る。


だが信玄は手を上げ、制した。


「……構うな」


息を整え、前を見る。


戦は、まだ決していない。


一方、信長もまた報を受ける。


「徳川が動いたか」


一瞬の沈黙。


そして――


「よい」


短く言う。


「崩れるぞ」


戦は、日没とともに収束した。


決着はつかなかった。


武田も、織田も、大きくは崩れていない。


だが――


互いに理解した。


(こやつ……)


(やはり……)


簡単には、倒れぬ。


夜。


武田本陣。


信玄は座していた。


その呼吸は、明らかに荒い。


「……次で決める」


誰にともなく呟く。


岐阜陣中。


信長は、夜空を見上げる。


「次だ」


その目に迷いはなかった。


天正二年(1574年)春。

木曽川の霧が、ゆっくりと晴れていく。


決戦、二日目。




夜明け前。


武田本陣。


武田信玄は、すでに起きていた。


眠りは浅い。

咳は止まらない。


膝元には、乾いた血の跡。


それでも、彼は鎧に手をかける。


「御屋形様……」


馬場信春が、声を落とす。


「今日は、我らにお任せを」


信玄は、静かに首を振った。


「ならぬ」


短い言葉。


だが、絶対だった。


「ここで退けば――二度と、この機は来ぬ」


その意味を、誰もが理解していた。


織田信長と、正面から決着をつける機会。

それは、この一戦を逃せば失われる。


「……出る」


信玄は立ち上がる。


その背は、かつてよりもわずかに小さく見えた。

だが、その気迫は、誰よりも大きかった。



一方、織田陣。


織田信長は、すでに布陣を終えていた。


前面には鉄砲隊。


だが、前日とは明らかに違う。


「三列に分けよ」


その命により、鉄砲隊は段状に配置されていた。


前列が撃つ。

退く。

次が撃つ。


途切れない射撃。


後に長篠の戦いで知られる戦法――

その“完成形に近いもの”が、ここにあった。


「……来るぞ」


信長は呟く。


武田は、必ず攻める。


そう読んでいた。




朝日が昇る。


武田軍、前進。


「進め!」


山県昌景の声が響く。


赤備えが、再び動く。


だが、前日とは違う。


織田軍の鉄砲は、止まらない。


――ダン、ダン、ダン、ダン。


連続する銃声。


倒れる馬。

崩れる兵。


それでも、武田は止まらない。


「怯むな!」


昌景が叫ぶ。


だが。


(違う……)


彼は感じていた。


昨日より、重い。


前へ出るたびに、確実に削られる。



中央。


武田信玄は、静かに見ていた。


(これが……信長の答えか)


鉄砲を“壁”にする戦。


騎馬の機動を封じる、合理の極致。


だが。


「ならば、壊すまでよ」


信玄の目が光る。


「全軍、押し上げよ」


ざわめき。


それは、総攻撃の命令だった。


武田軍、突撃。


騎馬も、足軽も、すべて前へ。


弾丸が降り注ぐ。


血が舞う。


それでも。


「進めえええ!」


ついに、一部が織田前列へ到達する。


白兵戦。


槍と刀がぶつかる。


鉄砲の優位が、崩れる瞬間。



「……今だ」


織田信長は、即座に動いた。


「予備を出せ」


後方に控えていた兵が、一斉に前進する。


さらに。


「右を開けろ」


意図的に、一部を下げる。


そこへ――


武田軍が流れ込む。


「囲め」


罠。


突破した武田兵を、逆に包囲する。




戦場は、混沌を極めていた。


勝っているのか、負けているのか――誰にも分からない。


だが確実に言えることがある。


双方、限界に近い。


その時。


「御屋形様!」


報が届く。


「後方、再び火の手!」


徳川家康。


再度の揺さぶり。


補給が揺らぐ。


兵の間に、不安が広がる。


信玄は、目を閉じた。


一瞬。


そして、開く。


「……退く」


その一言。




「全軍、後退せよ」


静かに、しかし確実に命が下る。


ざわめき。


だが、逆らう者はいない。


これは敗走ではない。


「戦を、続けるための退き」


信玄の判断だった。


織田軍は、深追いしなかった。


いや――できなかった。


「……止めよ」


織田信長は言う。


兵もまた、限界だった。


「ここで無理をすれば、こちらが崩れる」



夕刻。


戦は、終わった。


勝敗――なし。


だが。


武田は初めて、“押し返された”。


織田は初めて、“押し切れなかった”。


夜。


武田本陣。


信玄は、激しく咳き込んでいた。


血が止まらない。


「……御屋形様」


誰も、言葉を続けられない。


だが信玄は、笑った。


「よい戦よ」


そして、呟く。


「信長……やはり、ただ者ではない」


一方。


信長は、静かに言った。


「仕留めきれなかったか」


悔しさはない。


だが、確信があった。


「次だ」


戦は、終わっていない。


だが、確実に“何か”が変わった。


武田信玄の時間は、残り少ない。

織田信長の戦は、完成へ近づいている。


そして――


次の一手が、すべてを決める。

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