もし武田信玄がもっと長生きしていたら

しろもち

第一話「西上、止まず」


元亀四年(1573年)正月。

甲斐の虎、武田信玄は、すでに死の淵にある――そう噂されていた。


だが、その噂は敵方から流されたものでも、味方が隠したものでもない。

信玄自身の身体が、確かに終わりへ向かっていたからである。


遠江・三河国境。

冬の冷気が陣中を包む中、信玄は野田城の陣にあった。


前年の三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康を完膚なきまでに打ち破った武田軍は、その勢いのまま西進を続けていた。

この戦いにより、織田信長は、自らの東方防衛が決して万全ではないことを思い知らされることとなる。


――だが、その勝者であるはずの信玄が、床に伏していた。


「御屋形様……」


静まり返る本陣。

灯火の揺れる中、山県昌景は声を潜めた。


信玄は咳き込み、しばし応じない。

やがて、かすかに目を開ける。


「……昌景か」


声はか細い。だが、その眼光だけは、いまだ鋭く燃えていた。


「兵の動きはどうなっておる」


「は。野田城は間もなく落ちましょう。敵はすでに持ちこたえきれぬ様子にて」


信玄は小さく頷く。


野田城は三河東部の要地。

ここを抑えれば、徳川領はさらに圧迫される。

だがそれ以上に、この進軍の真の目的は別にあった。


――織田信長。


天下布武を掲げ、美濃・尾張を掌握し、中央へと手を伸ばす男。

信玄は、その野望を見逃さなかった。


「……信長は、来るか」


「は。援軍の動きは未だ鈍く。三河の守りは、徳川のみでございます」


その言葉に、信玄はわずかに笑った。


「慎重よのう、信長は」


三方ヶ原での敗報。

それは、織田にとって軽いものではなかった。


鉄砲を主軸とした新たな戦術。

合理と革新をもって戦国を塗り替えようとする信長であったが、それでもなお、武田の機動力と統制力の前には苦戦を強いられた。


「だが――」


信玄の目が、再び閉じられる。


「……このままでは、わしの方が先に尽きるか」


それは、誰よりも彼自身が理解していた。


数日後。


野田城、落城。


だがその報が届いたとき、武田本陣には別の緊張が走っていた。


信玄の容態が、急激に悪化していたのである。


高熱。

止まらぬ咳。

食も進まぬ。


軍医たちは顔を見合わせ、言葉を濁した。


「……もって、幾日か」


誰も口にしない。

だが、誰もが悟っていた。


ここで信玄が倒れれば――西上作戦は瓦解する。


武田軍の強さは、信玄その人にあった。

その存在が消えたとき、遠征軍は帰路すら危うくなる。


そして何より。


それを最も望む者がいる。


尾張の覇者、織田信長である。


その頃、岐阜城。


織田信長は、静かに報を受けていた。


「……武田信玄、病に倒れる、か」


家臣たちは顔を見合わせる。

その真偽は不明。だが、確かなことが一つあった。


もしこれが事実ならば――戦局は一変する。


「いかがなされますか」


重臣の問いに、信長はすぐには答えなかった。


三方ヶ原の敗北。

あれは単なる一戦ではない。

武田という存在の重さを、骨の髄まで思い知らされた出来事だった。


(あの男は、ただの武将ではない)


戦場を読む力。

兵を動かす技。

そして何より、戦そのものの意味を理解している。


(あれが生きておる限り……)


信長は、ゆっくりと口を開く。


「……様子を見る」


「は?」


「焦るな。確かめよ」


冷徹な判断だった。


敵が倒れたと聞いて飛びかかるのは愚策。

それが信長の流儀である。


「真に死ぬなら、そのとき討てばよい」


その一言に、家臣たちは沈黙した。


再び、三河。


死の気配が漂う陣中で――


信玄は、突如として目を覚ました。


「……水を」


その声に、近習が慌てて駆け寄る。


水を口に含み、ゆっくりと飲み下す。

そして、彼は体を起こした。


「御屋形様!?」


集まる重臣たち。


馬場信春、山県昌景らが、息を呑む。


信玄は、彼らを見渡した。


その眼に、もはや死の影はなかった。


「……まだじゃ」


低く、しかし確かな声。


「まだ、終わってはおらぬ」


誰も言葉を発せなかった。


奇跡――というには、あまりにも静かな復活だった。


だが、その意味は大きい。


武田信玄が、生きている。


それだけで、戦の流れは変わる。


「軍を、動かす」


その一言で、すべてが決まった。


撤退はしない。

停滞もしない。


西へ――進む。


「徳川を削り、道を開く」


信玄は地図に目を落とす。


三河。遠江。

そして、その先にある尾張。


「信長を討つ」


その言葉に、誰一人として異を唱えなかった。


こうして、史実ではここで途絶えるはずだった進軍は――続いた。


甲斐の虎は、なおも牙を剥き、天下へと迫る。


だがそれは同時に。


織田信長という、もう一匹の怪物との、避けられぬ衝突を意味していた。



天正元年(1573年)春。

三河の空は、重く沈んでいた。


岡崎城。

徳川家康は、静かに座していた。


敗北の記憶は、未だ生々しい。


三方ヶ原の戦い――

あの一戦で、徳川軍は壊滅的打撃を受けた。


討ち死にした将。散った兵。

そして何より、自らの判断の甘さ。


(武田信玄……)


その名を思い浮かべるだけで、胸の奥に冷たいものが走る。


「殿」


声をかけたのは、酒井忠次であった。


「武田の動き、なお活発にございます。野田城はすでに落ち、周辺の国衆も次々と従っております」


家康はゆっくりと目を開く。


「……そうか」


短い言葉。だが、その内には焦燥があった。


信玄が倒れたという報は、確かに届いていた。

しかし――


「その後、動きは止まっておらぬのだな」


「は。むしろ、統制は乱れておりませぬ」


つまり。


(生きておる)


家康は確信した。


あの男は、まだ戦場にいる。


一方その頃、三河東部。


武田本陣。


武田信玄は、静かに軍議を開いていた。


「徳川は籠るか」


問いに対し、山県昌景が即座に答える。


「は。岡崎に兵を集め、野戦は避ける構えにございます」


「よい」


信玄は頷いた。


「無理に攻める必要はない」


重臣たちの間に、わずかなざわめきが走る。


かつての信玄ならば、ここで一気に押し潰していたはずだった。


だが今は違う。


「兵糧はどうか」


「は。遠江よりの輸送、滞りなく」


「ならばよい」


信玄は地図に指を置く。


三河一帯に広がる徳川領。

それを、じわじわと囲うように線を引く。


「削れ」


その一言。


「城を落とすことに拘るな。田畑を押さえ、人を従わせよ」


それは、戦ではなく“支配”の命令だった。


軍議の後。


馬場信春が、信玄に近づく。


「御屋形様」


「なんじゃ」


「……ご無理をなされておりますな」


信玄はわずかに笑う。


「顔に出ておるか」


「隠しきれるものではございませぬ」


しばし沈黙。


やがて信玄は、静かに言った。


「長くはもたぬ」


馬場は何も言わない。


「だがな」


信玄は遠くを見る。


「今、止まれば――すべてが無に帰す」


甲斐・信濃で積み上げたもの。

幾度もの戦で築いた威。

そして、この西上の機。


「信長を討つ。この機は、今しかない」


その言葉に、馬場は深く頭を下げた。


同じ頃、美濃・岐阜城。


織田信長は、軍議の席にあった。


重臣たちが並ぶ。


柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀――


そうそうたる顔ぶれである。


「武田は、生きておる」


信長は断言した。


場がざわめく。


「なぜそう言い切れるのです」


問いかけたのは光秀だった。


信長は、地図を指で叩く。


「動きが整いすぎておる」


確かに。


武田軍の侵攻は、乱れがない。

補給、布陣、進軍速度――いずれも統制が取れている。


「病の将に、これほどの軍は動かせぬ」


沈黙。


「ならば、いかがなさいますか」


今度は秀吉が問う。


信長は、ゆっくりと笑った。


「戦わぬ」


その一言に、空気が凍る。


「徳川に任せる」


「……見殺しに、なさると?」


勝家が低く言う。


信長は首を横に振る。


「違う」


そして続ける。


「削らせるのだ」


武田に徳川を攻めさせる。

だが決戦は避ける。


そうすれば――


「武田は疲弊する」


信長の目が細くなる。


「そのとき、討つ」


再び三河。


小競り合いが続いていた。


武田軍は城を包囲し、だが無理攻めはしない。

周辺を制圧し、兵糧を断つ。


徳川軍は出撃せず、守りに徹する。


消耗戦。


だが、その重圧は徳川側に大きくのしかかっていた。


岡崎城内。


家康は報告を聞いていた。


「……じわじわと、か」


歯噛みする。


「出れば敗れる。籠れば削られる」


完全に主導権を握られている。


(これが、信玄か……)


若き頃、三河を守るために戦い続けた日々。

そのすべてが、今、試されている。


「援軍は」


「織田よりの動き、未だございませぬ」


その言葉に、家康は目を閉じた。


(信長……見ているな)


助けには来ない。

だが、見捨ててもいない。


(耐えよ、ということか)


ならば。


「耐える」


家康は静かに言った。


「この戦、急ぐな。持ちこたえよ」


その頃、武田本陣。


信玄は、一通の報を受け取る。


「……上杉、動くか」


上杉謙信。


かつて幾度も刃を交えた宿敵。


その謙信が、北陸方面で動きを見せているという。


信玄は小さく笑った。


「面白い」


信長を挟む形になる。


意図したものではない。

だが、結果としては――好機。


「天は、まだ我を見放してはおらぬな」


だが次の瞬間、激しく咳き込む。


血が、わずかに混じる。


近習が慌てるが、信玄は手で制した。


「騒ぐな」


息を整えながら、彼は言う。


「まだ……終わらぬ」


三河、美濃、そして北陸。


三つの勢力が、それぞれに動き始めていた。


武田信玄――進む者。

徳川家康――耐える者。

織田信長――待つ者。


だが、この均衡は、長くは続かない。


いずれ誰かが、決断を下す。


そしてその瞬間、戦国の流れは大きく傾くことになる。



天正二年(1574年)初頭。

戦は、静かに臨界へと近づいていた。



三河東部、武田本陣。


武田信玄は、地図の上に指を置いていた。


「……美濃へ入る」


その一言で、場の空気が変わる。


重臣たち――山県昌景、馬場信春らが、わずかに顔を見合わせた。


「御屋形様、それは……」


昌景が言葉を選ぶ。


「織田との、正面衝突にございます」


「そうじゃ」


信玄は即答した。


迷いはない。


「徳川は、もはや風前の灯」


この一年、武田軍は三河・遠江において徹底した“削り”を行った。

城は孤立し、田畑は押さえられ、徳川の兵は動けない。


「家康は籠るしかない」


事実、徳川家康は岡崎を中心に防衛に徹していた。


「ならば――」


信玄は指を西へ滑らせる。


「本丸を討つ」


尾張・美濃。

織田信長の本拠。


「信長を倒さねば、この戦は終わらぬ」


しかし、その決断は同時に“賭け”でもあった。


補給線は長く伸びる。

東国からの遠征。

そして何より――


信玄自身の身体。


軍議の後、馬場信春が再び問う。


「御屋形様、今一度お考えを」


信玄は静かに振り返る。


「怖いか」


「……は」


正直な答えだった。


信玄は、わずかに笑った。


「よい」


そして、低く言う。


「戦とはな、恐れを知る者が勝つ」


一拍。


「だが、恐れて動かぬ者は、必ず敗れる」


その言葉に、もはや異論はなかった。



岡崎城。


徳川家康は、報を受けていた。


「……武田、美濃へ?」


「は。西進の構えを明らかにしております」


重臣、酒井忠次の声は重い。


家康は沈黙した。


(ついに来たか)


武田が徳川領にとどまる限り、まだ耐える余地はあった。

だが、美濃へ向かうということは――


(織田とぶつかる)


そしてそれは、戦の主導権が完全に武田にあることを意味する。


「信長は、動くか」


「不明にございます」


家康は、ゆっくりと立ち上がる。


「……ならば、我らはどうする」


誰もすぐには答えられない。


戦うか。

籠るか。

あるいは――


「追う」


家康は言った。


「武田の後背を脅かす」


ざわめきが走る。


「殿、それは危険にございます!」


当然の反応だった。


だが家康は続ける。


「正面で勝てぬなら、別の戦い方をするまでよ」


信玄の“削り”に対し、今度は徳川が“揺さぶる”。


「武田に、安心して進ませるな」


その目には、もはや三方ヶ原の敗者の影はなかった。



美濃・岐阜城。


織田信長は、報を受けるや否や立ち上がった。


「来るか」


短い言葉。


だが、それは確信だった。


「ついに、正面から来る」


軍議の席。


柴田勝家が口を開く。


「迎え撃ちましょう。ここで叩けば、武田は終わりにございます」


力強い進言。


だが、それに対して――


「軽い」


信長の一言が落ちる。


場が凍る。


「武田信玄を、ただの一軍勢と思うか」


勝家は黙る。


代わって、羽柴秀吉が口を開いた。


「ならば殿、いかがなさいます」


信長はゆっくりと歩き、地図の前に立つ。


「引く」


再び、空気が揺れる。


「美濃の一部を捨てよ」


「……!」


勝家が顔を上げる。


「殿、それでは――」


「よい」


信長は遮る。


「土地など、いくらでも取り返せる」


そして、鋭く言う。


「だが、信玄は一人しかおらぬ」


沈黙。


「奴を討つ機は、一度きりよ」




越後・春日山城。


上杉謙信は、静かに軍配を置いた。


「武田が、西へ出たか」


報告に、家臣が頷く。


「は。すでに美濃侵攻の構え」


謙信はしばし黙考する。


宿敵――武田信玄。


幾度も戦い、決着のつかなかった相手。


「……死ななんだか」


誰にも聞こえぬほどの声で呟く。


本来ならば、この時期、信玄はすでにこの世にいないはずだった。

だが現実には――生きている。


「面白い」


謙信は立ち上がる。


「ならば、こちらも動くまでよ」


北陸方面へ進出し、織田を牽制する。


結果として、それは信玄を利する動きとなる。


だが謙信にとって重要なのは――


「戦うべき相手が、生きておること」


それだけだった。




天正二年、春。


武田軍はついに美濃へと足を踏み入れる。


織田軍は後退しつつ、布陣を整える。

徳川軍は背後から圧力をかけ始める。

上杉軍もまた、西へと動く気配を見せる。


すべてが、収束していく。


一点へ。


信玄と信長。


戦国を代表する二つの意志が、ついに直接ぶつかろうとしていた。


その夜。


武田本陣。


信玄は、一人で座していた。


灯火の揺れの中、静かに息を吐く。


咳が、止まらない。


血が、掌に滲む。


「……まだじゃ」


誰に言うでもなく、呟く。


「あと一歩……」


視線の先には、西。


尾張の方角。


そこにいる男の姿を、はっきりと思い描いていた。


織田信長。


「貴様を討たねば……」


その言葉は、夜の闇に溶けた。


一方、岐阜城。


信長もまた、眠ってはいなかった。


「信玄……」


名を呼ぶ。


それは恐れではない。

だが、軽視でもない。


「来い」





「その首、この信長が取る」

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