第四話 傷を治さぬ石
夜が更けるのを待って、イーサンは店を出た。
袋の中には、槌と火薬、それに布と火打石が入っている。薬草や包帯の代わりに、そんなものを持って歩くのはひどく不格好だった。だが、もう治すだけでは間に合わないところまで来ている。
左脚の古傷が、歩き出したとたんに鈍く疼いた。
痛みは止まれという合図だ。
それを無視し続けた人間が、ここまで壊れてきた。
そのことを誰より知っている自分が、今はその痛みを押して歩いている。
皮肉だな、とイーサンは思った。
だが足は止めなかった。
空き地に着くと、地割れの底の黒い岩が月明かりの下に沈んでいた。周囲の土は踏み荒らされ、花の茎が折れ、誰かが何度も膝をついた跡まで残っている。そこはもう災厄の現場ではなかった。使い慣らされた場所だった。人が利益を見つけた場所の顔をしていた。
イーサンは地割れの縁に立ち、袋から槌を取り出した。
「お前は、一度も治したことがない」
低く言った。
「痛みを黙らせただけだ」
返事はない。
黒い岩は黙ったまま、そこにあった。
イーサンは火薬の包みを足元へ置いた。まず槌で表面を割る。亀裂が入れば、そこへ火薬を詰めて砕く。薬師らしいやり方ではない。だが、ただ怒りに任せて殴りに来たわけでもなかった。
槌を振り上げる。
その瞬間、背後から腕を掴まれた。
振り返るより早く、もうひとりが肩を押さえ込み、別の男が袋を蹴り飛ばした。火薬の包みが地面を転がり、槌が土の上に落ちる。
ガレスの手下だった。
「何してる」
低い声が飛ぶ。
イーサンは肘を返し、ひとりの腹へ叩き込んだ。男が呻く。だが次の瞬間には、別の手が背中へ回り、腕をねじ上げられた。古傷のある脚を払われ、片膝をつく。
「離せ!」
「本気だったみてえだな」
男のひとりが地面に落ちた槌を拾い上げる。もうひとりが火薬の包みを持ち上げ、布をほどいた。
「壊す気だった」
その言い方に、別の男が薄く笑った。
「どうする?」
年長らしい男が首を振った。
「俺たちで決める話じゃねえ。ガレスのところへ連れていけ」
イーサンは顔を上げた。
「やめろ」
「やめるかよ」
腕を後ろへねじられたまま、無理やり立たされる。肩に鈍い痛みが走った。
「皆の飯の種を壊そうとしたんだ。親玉に見せるに決まってる」
男たちは槌と火薬を持ち、イーサンを引きずるようにして空き地を離れた。
* * *
ガレスは酒場の裏手にいた。
手下に突き出された槌と火薬の包みを見て、すぐに事情を悟ったらしかった。驚きもしない。ただ、イーサンを一度見て、それから道具を見た。
「ここまで揃えてきたか」
低く言う。
「本気だったんだな」
「どけ」
イーサンは睨み返した。
「今すぐだ」
ガレスは肩をすくめた。
「ここで潰すのはもったいねえな」
「何がだ」
「決まってるだろ」
ガレスは槌を手に取り、重さを確かめるように一度振った。
「皆にも見せてやれ。自分たちの救いを壊そうとした奴の顔をな」
その一言で、手下たちの顔つきが変わった。
イーサンは歯を食いしばった。
嫌な予感が、はっきり形を持つ。
「やめろ」
「やめる理由がねえ」
ガレスはそう言って、手下に顎をしゃくった。
「広場へ」
* * *
街の中心まで引きずられるあいだに、何人もの人間が振り返った。
酒場の前。井戸のそば。荷捌き場の脇。
夜でも、人のいる場所はいくらでもある。
「見ろよ」
「何だ?」
「薬師だ」
「どうしたんだ」
ざわめきが広がる。
ガレスの手下のひとりが、わざと聞こえるように叫んだ。
「こいつ、岩を壊そうとしやがった!」
その一言で、空気が変わった。
「何だと?」
「本当か」
「正気かよ」
イーサンは腕を掴まれたまま、よろめきながら立たされた。頬にはさっき地面へ叩きつけられたときの土がついている。肩は痛む。だがまだ、この時点では立っていられた。
ガレスは酒場の前の石段へ上がった。手下に合図し、イーサンをその前へ押し出させる。
「聞け」
ガレスの声はよく通った。
「こいつは、あの岩を壊そうとした。槌と火薬まで持ってな」
群衆がざわつく。
「何でそんなことを」
「ふざけるな」
「頭おかしいのか」
ガレスはそこでわざと間を置いた。
「これがなくなったら、困るのは誰だ?」
誰かが「俺だ」と言った。
別の誰かが「皆だ」と言った。
「そうだろうな」
ガレスは頷いた。
「痛みを消す石がなくなったら、困るのは誰だ。花がなくなったら、困るのは誰だ。戦えない奴、働けない奴、客前に立てない奴、眠れない奴。皆だ」
イーサンは声を張った。
「それは救いじゃない!」
ざわめきが一瞬だけ静まる。
「壊れたまま動かしてるだけだ。花は人を鈍らせる。岩は痛みを消すだけで、傷は治らない。お前らは自分が壊れていることすら見なくなった」
「うるせえ!」
飛んできたのは男の怒鳴り声だった。
荷運びの男だ。見覚えがある。手首を傷めたとき、自分が固定したはずの男だった。
「あれがないと働けねえんだよ!」
「働いて、その先で動かなくなるぞ」
「その先まで考える余裕がねえって言ってんだ!」
別の女が口を挟む。
「これがないと客前に立てないんだよ!」
エルサだった。顔色は悪く、目の下に影がある。それでも唇だけは妙に色づいていた。
「先生は待てって言うけど、待ってるあいだに食えなくなるのはこっちだよ!」
「だからって――」
「だからって、今日を越えなきゃどうにもならないんだよ!」
次々に声が飛ぶ。
「俺たちから取り上げる気か」
「自分は困らないから言えるんだ」
「治るまで待てる奴の理屈だ」
ガレスは、わざとそれを止めなかった。
止めないことで、群衆の怒りを育てている。
これは裁きではない。
裁きの形をしたリンチだ。
ミラは少し離れたカウンター口のあたりに立っていた。止めにも入らず、笑いもしない。ただ顔だけがひどく固かった。何か言いかけて、結局言わないまま、唇を閉じている。
群衆の中で、何人かが小さく頷いていた。
誰も「やめろ」とは言わない。
誰かが最初に手を出していい空気が、じわじわ場に満ちていく。
ガレスは群衆を見回した。
「どうする?」
それは問いかけの形をしていたが、ほとんど煽りだった。
最初に飛んできたのは、小さな石だった。
頬をかすめ、血がにじむ。
次は拳だった。
それからは早かった。
* * *
誰が最初に殴ったのか、途中から分からなくなった。
腹に拳が入る。
横から蹴りが来る。
肩を掴まれ、顔面を打ち抜かれる。
口の中が切れ、血の味が広がった。
倒れる。
だが終わらない。
背中に足が落ちる。
肋のあたりで鈍い音がする。
息が詰まり、吸おうとしても胸の奥まで空気が入らない。
誰かが怒鳴っていた。
「これがないと戦えないんだよ!」
「客を取れなくなる!」
「花が切れると眠れねえんだ!」
「何で壊そうとした!」
言葉と暴力が、もう区別のつかない勢いで降ってくる。
イーサンは腕で頭を庇った。
だがその腕を踏みつけられる。
手の甲に重みがかかり、骨が嫌な音を立てた。指先の感覚が一気に鈍くなる。
古傷のある左脚も蹴られた。
膝の横を踏まれ、足首を引っかけられ、捻られる。
痛みはある。
だが、それ以上に「まずい」と身体が理解していた。
自分の脚じゃないみたいに、力が入らなくなっていく。
誰かに髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
そこへ拳が来た。
視界が白く弾け、すぐに黒い点が散る。
イーサンは地面に吐いた。
血と唾液が石畳に落ちる。
胃の中のものまで上がってきたが、うまく吐ききれない。息が浅すぎた。
もう何発殴られたか分からない。
数える段階はとっくに過ぎている。
薬師としての知識が、嫌に冷静なところだけ残っていた。
肋が何本かやられている。
左脚は古傷ごと潰されている。
右腕もまともに上がらない。
手の骨も踏まれている。
出血が多い。
このまま続けば、本当にまずい。
痛みがあるうちは、まだいい。
だが、痛みがあるから助かるわけではない。
身体の壊れ方には、戻せるものと戻せないものがある。
自分が何度も患者に言ってきたことだった。
地面へ倒れたまま、イーサンは荒い息を吐いた。
肺がうまく膨らまない。
吸うたび、胸の奥で潰れた何かが擦れるような感覚だけがある。
群衆の熱はまだ冷めていなかった。
誰かがまた蹴ろうと足を上げた、そのときだった。
「そこまでだ」
ガレスの声が落ちた。
不思議なくらい、よく通った。
足が止まる。
拳も止まる。
「殺すな」
ガレスは石段を下り、血に濡れたイーサンのそばまで歩いてきた。
「まだだ」
誰かが荒い息のまま訊いた。
「まだ何だよ」
ガレスはイーサンを見下ろした。
その目には怒りも熱もなかった。ただ、使い道を考える目だけがあった。
「せっかくだ」
低く言う。
「最後まで役に立ってもらおうぜ」
その言葉に、何人かが息を呑んだ。
意味が分かったのだろう。
イーサンは地面に片頬をつけたまま、かすかに顔を上げた。
「やめろ……」
掠れた声しか出なかった。
血が口の端から垂れる。
ガレスは答えず、手下に顎をしゃくった。
「運べ」
* * *
男たちがイーサンの身体を持ち上げた。
持ち上げる、というより、半ば荷物のように担いだ。肩を掴まれ、脇を抱えられ、脚を引きずられる。足先が地面に当たるたび、身体のどこかが鈍く揺れた。
痛みはまだある。
だが、それよりも、身体の中から力が抜けていく感じの方が強かった。
口の中に血が溜まる。
飲み込むしかない。
吐き出すだけの息がない。
群衆もついてくる。
酒場の前から、路地を抜け、空き地まで。
誰も帰ろうとしない。
むしろ見届けようとしている。
自分が患者だったら、こんなふうに運ばせない。
頭を守り、脚を固定し、出血を止める。
そうしなければ、途中で死ぬ。
そんなことを、どうでもいいみたいに考えていた。
考えられるうちは、まだ終わっていないのかもしれなかった。
空き地へ着くと、夜風が頬の血を冷やした。
黒い岩は、相変わらずそこにあった。
月明かりの下で、何も知らない顔をしている。
街の人間をここまで変えたくせに、自分は何ひとつ手を汚していないような顔だ。
男たちはイーサンを地割れのそばへ下ろした。
いや、下ろすというより、投げたに近い。
背中が土に当たり、息が一度止まる。
目を開けているのが少しずつ辛くなっていた。
視界の端が暗い。
月も、人の輪郭も、滲んで見える。
少し離れたところに、ルカが立っていた。
群衆の後ろではなく、前の方だった。
なのに一歩も出ない。
顔色は悪い。
花が切れたときみたいな、青い顔をしている。
「……先生」
唇がそう動いた気がした。
だが声にはならなかった。
ガレスが岩の前にしゃがみ込み、イーサンの顔を覗き込んだ。
「まだ生きてるな」
その確認の仕方に、イーサンは薄く笑いそうになった。
死ぬかどうかを見ている目ではない。
咲くかどうかを見ている目だった。
「触れさせろ」
ガレスが言う。
手下がイーサンの腕を掴み、岩の方へ引いた。
身体が抵抗しようとしても、力が入らない。
右腕はまともに上がらない。左手の指は半分感覚がない。
「やめろ……」
それでも言った。
言葉というより、息の形だった。
返事はない。
黒い岩が、すぐそこにある。
イーサンは最後に、自分の身体を知ろうとした。
息は浅い。
胸の奥が潰れている。
血が喉に上がってくる。
指先は冷たい。
左脚はもう、自分のものみたいに反応しない。
このまま何もしなくても、助からないかもしれない。
それだけは分かった。
そして次の瞬間、手首が岩へ押しつけられた。
冷たかった。
地の底で長く眠っていたものの冷たさ。
血も、怒りも、哀れみも、何ひとつ受け取らない冷たさだった。
その瞬間、身体の中に散っていた痛みが、ひとつにまとまる気配がした。
古傷の疼き。
踏まれた手の骨。
潰れた肋。
ねじられた腕。
口の中の切れた肉。
殴られ続けた顔。
呼吸のたびに胸の奥で軋む壊れ方。
街の人間に囲まれ、治す側の自分が壊されていくことへの怒り。
助けてきた顔が、自分を殴ったことへの絶望。
それらすべてが、一瞬だけ強く脈打って――
すっと消えた。
痛みが、なくなった。
だが、それで助かったわけではないことが、今ははっきり分かった。
息は相変わらず浅い。
血は喉にある。
手足は冷え、身体はまともに動かない。
壊れたままなのに、痛みだけが取り払われている。
そして、地面が動いた。
土が盛り上がる。
ひとつではない。
ふたつ、みっつ、十、二十。
今まで見たどのときよりも激しく、太い茎が一斉に伸びた。黒土を裂き、折れた茎を押しのけ、濃い紫の花が夜の地面いっぱいに咲き乱れる。
これまでで最大だった。
花弁は厚く、湿って光り、夜の中でも色が分かるほど深い。
匂いは甘く、重く、肺の奥までまとわりつく。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
静まり返る。
誰もが見ていた。
イーサンではなく、そこから咲いた花を。
ガレスがしゃがみ、一輪を摘んだ。
指で潰し、匂いを嗅ぐ。
その仕草にはもう迷いがなかった。
「……上物だ」
低い声が、夜の空き地に落ちた。
その一言で、時間がまた動き出した。
誰かが花に手を伸ばす。
別の誰かも続く。
ひとつ摘まれ、ふたつ摘まれ、さっきまでイーサンを殴っていた手が、今度は花を奪う手に変わる。
「待て、押すな!」
「それ俺のだ!」
「濃いやつを取れ!」
「全部摘め、無駄にするな!」
怒号が飛ぶ。
花弁が千切れ、土が荒れる。
甘い匂いが血の匂いを覆い隠していく。
誰も彼の傷を見なかった。
潰れた手も、折れた肋も、血を流す口元も、見なかった。
ただ、そこから咲いた花だけを見ていた。
イーサンは地面に頬をつけたまま、かすかに顔を上げようとした。
だが、首は途中までしか持ち上がらない。
少し離れたところに、ルカがいた。
花に群がる連中の中で、ひとりだけ動けずにいる。
目が合った気がした。
ルカの唇が、わずかに動く。
何か言おうとしたのかもしれない。
だが、結局何も言わなかった。
その後ろでは、ガレスが次の花を摘んでいた。
イーサンは、自分の血が土に広がっていくのを見た。
夜に馴染んで黒く見えるそれが、花の影に飲まれていく。
身体の内側から、少しずつ力が抜けていく。
指先から順に冷えていく。
胸は浅く上下するだけで、次の一息がちゃんと来るのかも分からない。
月の光も、人の輪郭も、花の色も、少しずつ遠くなっていく。
そして、なお開いたままのイーサンの目から、ゆっくりと光が失われていった。
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