第三話 痛みの値段
その頃になると、岩の前には怪我人だけではなくなっていた。
朝の空き地には、腕を押さえた者や足を引きずる者に混じって、花を拾いに来る者まで立っている。岩のそばにしゃがみ込み、土の中から乾きかけた花を摘み、布に包んで持ち帰る。最初は珍しがっているだけのように見えた。だが、数が増えれば、それは習慣になる。
イーサンは薬屋の前でそれを一度見て、すぐに店へ戻った。
見たくないものは増える一方だった。
来る患者も変わってきていた。
顎が外れた者、肩が抜けた者、腱を痛めて指が動かない者、血を失って倒れた者。そこまでは前と同じだ。だが、最近はもうひとつ種類が増えた。
花が切れると落ち着かなくなる者
昼前に来た男は、腕の傷よりも落ち着かなさの方がひどかった。椅子に座らせても膝が揺れ、視線が定まらない。浅い裂傷のはずなのに、妙に汗をかいている。
「傷は大したことない」
イーサンは布で血を拭きながら言った。
「騒ぐほどじゃない」
「傷で来たんじゃねえ」
男は唇を舐めた。
「花だ。切れた」
イーサンの手が止まる。
「何だと」
「昨夜から吸ってねえ。眠れねえし、胸がむかむかするし、頭ん中がざわざわする」
男はそう言いながら、指先で机を何度も叩いた。
「少しでいいんだ。どっか持ってねえか」
「持ってるように見えるか」
「薬師だろ」
「だから持たん」
イーサンが言い切ると、男は舌打ちした。苛立ちと焦りと、どうしていいかわからない顔が混ざっている。
花は、もう気晴らしではなくなり始めていた。
恐怖や嫌悪を薄くするだけではない。なくなると、今度はそれが何倍にもなって返ってくる。そういう段階まで来ている人間が、少しずつ増えていた。
「帰れ」とイーサンは言った。「吐くなら外で吐け」
男は悪態をつきながら出ていった。戸が閉まったあともしばらく、机を叩く指の音が耳に残った。
イーサンは深く息を吐き、棚の瓶を見上げた。
自分の薬は、痛みを和らげることはあっても、ここまで人を変えない。花は変える。だから広まる。広まるから、さらに取り返しがつかなくなる。
* * *
昼すぎ、ミラの酒場へ薬を届けに行くと、店の隅でガレスが若い連中に囲まれていた。
酒を飲んでいるわけでもない。卓の上には、乾いた花が布に包まれていくつか並んでいた。
「なあ、どっちが強いんだ」
「昨日のやつより、こっちの方が効いた気がする」
「色の濃い方が残るんじゃねえか」
口々に言う若い男たちに、ガレスは気のない顔で答える。
「知らねえよ。だが、同じじゃないのは見りゃ分かる」
そう言いながら、薄い花を一本取り、指で潰す。鼻先へ寄せ、すぐに卓へ戻す。次に濃い色の花を潰し、匂いを確かめる。
「こっちは匂いが残るな」
それだけで、周りの連中は妙に真顔になった。
イーサンは足を止めた。
ガレスはまだ値段を言っていない。買うとも売るとも言っていない。だがもう十分だった。
違いがある。
見分けられる。
強いものと弱いものがある。
そう思った瞬間から、人はそれを並べ始める。
ミラが低く言った。
「ずいぶんな顔だね」
「嫌なものを見てる」
「まだ売り買いはしてないよ」
「してなくても始まってる」
ミラは答えなかった。
ガレスは卓を囲む若い連中を見回し、肩をすくめた。
「慌てるな。持ってくる花が全部同じなら、話は早い。けど違う。なら、違いを見ないと損だろ」
損。
その言葉が妙に軽く出たことに、イーサンは寒気を覚えた。
* * *
その日の夕方、空き地でまた人だかりができていた。
駆けつけると、輪の真ん中には二人の男がいた。片方は荷運びで、腕を切っている。もう片方は傭兵で、肘から先を変な角度に曲げていた。崩れた石材でも落ちてきたのだろう。顔色は悪いのに、周囲の目つきには別の熱があった。
「触れさせろ!」
誰かが叫ぶ。
若い荷運びが先に岩へ手を伸ばした。指先が触れた途端、男は肩の力を抜き、ほっとしたような顔をした。足元の土から花が二、三本伸びる。細い茎、薄い色、小ぶりな花。見慣れてきた光景だった。
次に、肘をひどくやった傭兵が岩に手をついた。
その瞬間、土が盛り上がった。
太い茎が一気に何本も伸び、濃い紫の花がまとまって咲く。さっきの花とは色も艶も違った。昼の光の下でも、ぬらりとした光沢がある。
周囲の人間が一斉に息を呑む。
「見ろよ」
「全然ちがう」
「匂いも濃い」
ようやく皆が、はっきり見てしまったのだ。
花は同じではない。
咲く量も、色も、匂いも違う。
そしてその違いは、傷の深さや痛みの強さと結びついている。
そこへ、群衆の後ろからガレスが出てきた。
相変わらず、古傷と荒事の匂いをまとった男だった。最近は岩の近くでよく見かける。何をするでもなく、ただ眺めているようでいて、目だけはいつも動いていた。
ガレスは先に咲いた細い花を一本摘み、指先で花弁を潰した。鼻先に寄せ、すぐに捨てる。次に、濃い花を一輪取って同じことをした。
「細いな」
低く言った。
誰に向けたともつかない声だったが、その場は妙に静かになった。
ガレスは濃い方を見ながら続ける。
「こっちは香りが残る」
誰かが問うた。
「何が違う」
ガレスは肩をすくめた。
「効きだろ」
その言い方が、あまりにも自然だった。
イーサンは前へ出た。
「勝手に触るな」
「減るもんじゃねえ」
「そういう目で見るなと言ってる」
ガレスは振り向き、口元だけで笑った。
「どんな目だ」
「値踏みする目だ」
数人が小さく笑った。ガレスは否定しない。
「値踏みして何が悪い」
「人の傷から咲いたものだぞ」
「だからだろ」
ガレスは濃い花を指で回しながら言った。
「同じ花なら話は早かった。だが違う。強いのと弱いのがある。なら、見分ける奴がいた方がいい」
その場の空気が少しだけ変わった。
見分ける。
その言葉が、皆の中にするりと入った。
もう奇跡でも怪異でもない。
選別できるもの、比べられるもの、扱えるものになり始めている。
「馬鹿なことを言うな」
イーサンの声は低かった。
「馬鹿かどうかは、そのうちわかる」
ガレスはそう言って花を懐に入れた。
その手元を、何人かが食い入るように見ていた。
* * *
その日の夕方、ミラの酒場では、普段と違う客がいた。
傭兵でも、常連の荷運びでもない。借金取りに追われているような、薄汚れた若い男だった。頬はこけ、爪の先まで貧乏が染みついている。
男は隅の卓で、ガレスに食い下がっていた。
「本当に違うのか」
「濃いのは残るのか」
「薄いのはいくら集めても駄目なのか」
ガレスは酒を一口も飲まず、卓に肘をついている。
「知らねえよ」
そう言ったが、口調には少しも困った感じがなかった。
「ただ、薄いのはすぐ抜ける。濃いのは残る。それだけだ」
「じゃあ、こっちを持っていけば――」
「お前の持ってるような花じゃ無理だな」
ガレスは男の布包みを指先でつついた。
「そんなかすり傷の花、いくら集めても知れてる」
その場でイーサンの足が止まった。
まだ値段は言っていない。
だが、もう十分だった。
良し悪しがあり、強弱があり、それを誰かが選ぶ。そこまで始まれば、次は金に決まっている。
ミラがカウンターの奥から、低く言った。
「ろくでもないね」
「あれを追い出せ」
「追い出しても外でやるよ」
イーサンは舌打ちした。
「ガレス」
呼ぶと、男は面倒くさそうに顔を上げた。
「何だ、薬師さん」
「お前、何を始める気だ」
「始めてねえよ。皆が勝手に持ってくるだけだ」
「そういう顔じゃない」
ガレスは少しだけ笑った。
「顔で何がわかる」
「お前みたいな男は、金の匂いがしたときだけ目が変わる」
それを聞いて、周りの客がまた小さく笑った。ガレスは肩をすくめる。
「そうだとして、何が悪い」
イーサンは返事をしなかった。
悪い。
だが、そう言うだけではもう足りない気がした。
この街では、悪いと知っていても腹が減る。腹が減れば、悪いものにも手を出す。そういうところまで来ている。
* * *
決定的だったのは、その翌日のことだった。
昼過ぎ、空き地の方で悲鳴が上がった。
イーサンが駆けつけると、人垣の中心で若い男がうずくまっていた。あの、酒場でガレスに食い下がっていた借金持ちの男だった。左手を押さえているが、指の隙間から血が垂れている。足元には石が転がっていた。
自分でやったのだ。
手の甲を潰すように、何度も打ちつけたのだと一目でわかった。
周囲の人間が、引いたような、けれど完全には引ききれていない顔で見ている。
「何してる!」
イーサンが怒鳴るより早く、男は這うように岩へ近づいた。
「どけ……どけよ……!」
血まみれの手を岩に押しつける。
次の瞬間、男の顔から痛みが抜けた。
そして土が盛り上がる。
太く、濃い花だった。
昨日よりも、酒場の喧嘩のときよりも、はっきりと上物だとわかる咲き方だった。色が深い。茎も太い。匂いが空気を押しのけるように立ち上がる。
人垣がざわめいた。
「見ろ……」
「すげえ」
「本当に違う」
誰もが、まず花を見た。
イーサンは男のそばへ膝をつき、手を引き寄せた。骨がやられている。指も何本か折れているだろう。放っておけば使いものにならなくなる。
「布を持ってこい!」
叫んでも、一拍遅れた。
皆、まだ花を見ていた。
ようやく誰かが動いたときには、男は岩にもたれたまま、半ば笑うような顔をしていた。痛みが消えているのだ。だから、自分がどれほど壊れたかも、まだ本当にはわかっていない。
その向こうから、ガレスが歩いてきた。
群衆が少し道を空ける。
ガレスは咲いた花を見下ろし、しゃがみ込み、指先で一輪摘んだ。潰し、嗅ぎ、わずかに目を細めた。
「……上物だ」
その一言が、あまりにも自然に落ちた。
イーサンは顔を上げた。
「貴様」
ガレスは肩をすくめた。
「何だ」
「こいつは自分で手を潰したんだぞ」
「見ればわかる」
「止めろ。こんなことを続けさせるな」
ガレスは摘んだ花を見ながら言った。
「俺がやらせたわけじゃない」
「お前が値踏みし始めたからだ」
「違うな」
ガレスはゆっくり立ち上がった。
「皆、最初からわかってたんだよ。薄いのと濃いのがあるってな。俺は口にしただけだ」
その言い方が、余計に腹立たしかった。
「人の痛みに値段をつけるな」
イーサンが言うと、ガレスは初めて少しだけ真顔になった。
「もうついてるさ」
周囲を顎で示す。
「傭兵は強い花が欲しい。女は客前で持つやつが欲しい。花が切れたら落ち着かねえ奴もいる。欲しい奴がいて、違いがあるなら、値はつく」
「それでいいと思ってるのか」
「いい悪いの話をしてるうちは、あんたの方が楽だ」
ガレスはそう言って、懐から小さな銀貨を出した。血まみれの若い男の前に落とす。
「持ってけ」
男は呆けたように銀貨を見た。
次に花を見た。
そして、自分の潰れた手を見た。
その順番だった。
イーサンは、その瞬間にわかった。
この街は、痛みを消す岩を手に入れたのではない。
痛みから利益を取るやり方を覚え始めたのだ。
止血を手伝わせながら、イーサンは周りを見た。
誰も青ざめてはいなかった。
誰も怯えていなかった。
皆、ただ見ていた。
どれだけの傷で、どれだけの花が咲くのか。
その答えを見物するように。
ぞっとした。
もうここは、傷を治す街ではない。
* * *
夜、薬屋に戻ったイーサンは、店の奥から槌を引っ張り出した。
昔、棚を組むために使ったきりになっていたものだ。持ち上げると重い。重いが、足りない気がした。
次に、火薬と、包むための布、それから火打石を机の上へ並べる。
槌。
火薬。
布。
火打石。
薬師の机とは思えなかった。
だが、もう治すだけでは追いつかないところまで来ている。
あの岩がある限り、花は咲く。
花が咲く限り、人はそこに理由を見つける。
恐怖を鈍らせるために。
客前で笑うために。
働くために。
そして、金に換えるために。
イーサンは左脚の古傷を押さえた。鈍い痛みが、いつもよりはっきりそこにある。
痛みは、止まれという合図だ。
それを奪うものは、人を壊れたまま先へ進ませる。
花はその先で、人をさらに売り物に変える。
もう十分だった。
壊すしかない。
そう思ったときには、もう迷いはほとんど残っていなかった。
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