第二話 花の薬
地震のあと、薬屋の前にできていた列は三日で半分になった。
その代わり、街外れの空き地には朝から人が並ぶようになった。まだ日も高くならないうちから、黒い岩の前には怪我人が集まる。肩を押さえた荷運び、腰をかばう老人、頭に布を巻いた傭兵、咳き込む女。みな、同じ方を見ていた。
イーサンのところへ来るのは、岩で痛みを消しても、どうにもならない者ばかりだった。
顎が外れた男。
肩の抜けた傭兵。
腱を切って指の動かない荷運び。
血を流しすぎて、立っていることもできなくなった女。
岩は痛みを奪う。
だが、ずれた骨も、切れた筋も、失った血も、元には戻さない。
そういう人間だけが、最後に薬屋の戸を叩いた。
「次」
イーサンが声をかけると、木椅子に座っていた男がのそりと立った。昨夜の酒がまだ抜けていない顔をしている。顎のあたりが不自然に腫れ、口元がうまく閉じていなかった。
「喧嘩か」
男は曖昧に頷いた。
「岩に触ったな」
今度は、はっきり頷く。
「痛く、は……ねえんだ」
しゃべりにくそうな声だった。顎がずれたままなのだろう。
イーサンは男の前に立ち、顔を覗き込んだ。確かに痛みは薄れているのかもしれない。だが、口の開き方も噛み合わせも狂っていた。これでは物も食えないし、そのうちまともに話すこともできなくなる。
「座れ」
男は大人しく腰を下ろした。
「戻すぞ」
男の顔色が変わる。
「おい、待て、ちょっと――」
「痛みはないんだろ」
そう言って、イーサンは顎に手をかけた。位置を探り、一気に押し戻す。鈍い音がして、男が短く呻く。
「……っ!」
「痛みがなくても、ずれたままじゃ使いものにならん」
イーサンは吐き捨てるように言った。
男は涙目のまま口を開閉し、ようやく顎が動くのを確かめる。礼を言うでもなく銅貨を置き、ふらつく足で出ていった。
その背中を見送ってから、イーサンは机の上に残った血を布で拭った。
岩は痛みを消す。
だが、それだけだ。
それだけのものを、街の人間はまるで治療のように扱い始めていた。
* * *
次に来たのは、荷運びの若い男だった。
右手を胸の前で抱え込み、顔色が悪い。
「どうした」
「縄が切れて、荷が落ちてきた」
「どこだ」
「指……いや、手首か」
イーサンは手を取った。親指と人差し指の動きが鈍い。握らせても力が入らない。
「岩には」
「触った。痛みはなくなった。だから、そのまま仕事に戻った」
「馬鹿か」
男は言い返さなかった。
指を動かさせ、手首をひねり、腱の走りを確かめる。完全に切れてはいないが、かなりやっている。無理をすればもっと悪くなる。
「当分、重いものは持つな」
「無理だ」
「無理でもだ。これ以上やれば、本当に動かなくなる」
男は唇を引き結んだ。そういう顔をする人間を、イーサンは何人も見てきた。休めない。仕事を止められない。明日の飯の方が、数年後の後遺症より重い。そういう顔だ。
イーサンは固定の布を巻きながら、低く言った。
「痛くないからといって、壊れてないわけじゃない」
男は俯いたまま、小さく息を吐いた。
「皆、そう言う」
「誰がだ」
「岩に行けば動けるって」
イーサンは返事をしなかった。
動ける。
その言葉が、どれだけ強いかはわかっていた。
動けるなら働ける。
働けるなら金になる。
今日を越えられる。
この街で、それ以上に説得力のある言葉は少ない。
* * *
昼過ぎ、客が切れたころ、ミラが店に顔を出した。
酒場兼宿屋の女主人は、戸口に寄りかかるなり言った。
「相変わらず、ろくでもない顔ぶれだね」
「いい顔ぶれの薬屋があるなら教えろ」
「ないね」
ミラは勝手に椅子へ座り、店の中を見回した。
「どう?」
「どうもこうもない」
「岩の方は賑わってるよ」
「見ればわかる」
「見なくても聞こえるだろうけどね」
外からは、人のざわめきがうっすら流れ込んでいた。あの空き地は、もう半分、街の広場みたいなものになり始めている。
イーサンは薬草を刻みながら言った。
「こっちに来るのは、あれでどうにもならなくなった連中だけだ」
「顎の男も見たよ」
「見せ物じゃない」
「でも皆、見てる」
ミラは机に肘をついた。
「今日、エルサが変だった」
イーサンは手を止めた。
「何だ」
「妙に機嫌がいい。いや、良すぎる」
エルサ。娼館で働く女の名前だった。前から眠り薬や胃薬を取りに来ていた。売れないわけではないが、決して楽をしている女でもなかった。
「酒か」
「違うね。酔ってるのとは違う」
ミラは少し考えるように視線を上げた。
「怖さが抜けてる、って感じ」
その言い方が引っかかった。
イーサンは刻んでいた薬草を脇へ寄せた。
「どこだ」
「裏手」
* * *
娼館の裏口近くは、昼でも薄暗かった。
壁に寄りかかるようにして、エルサが立っている。顔色はいつもよりいい。頬に血色が差し、目元まで妙にやわらかい。けれど、その明るさは生身の人間のものには見えなかった。無理に灯りを足したような、不自然さがあった。
「エルサ」
イーサンが声をかけると、彼女は振り向いた。
「あら、先生」
先生などと呼ぶときは、たいてい何かを誤魔化している。
「何をやった」
「ひどいわね。いきなり」
「顔色がよすぎる」
エルサは笑った。その笑い方も、少し軽すぎた。
「楽なのよ」
「何がだ」
「全部」
イーサンは近づき、手首を取った。脈が速い。瞳孔も少し開いている。酒ではない。熱でもない。
「花か」
エルサは答えなかった。
その沈黙で十分だった。
「誰に貰った」
「貰ったんじゃないわ」
「じゃあ何だ」
「ちょっと、吸わせてもらっただけ」
彼女は壁から背を離し、ゆっくりと立ち直った。
「すごいのよ。胸のあたりが軽くなるの。客の顔を見ても、嫌だって思う前に笑える。怖さも、面倒くささも、少し遠くなる」
それはイーサンの予想に近かった。だが、実際に本人の口から聞くと、余計に嫌だった。
「やめろ」
エルサは笑みを消した。
「どうして」
「そういうものは続けると戻れなくなる」
「戻るって、どこに?」
その返しは静かだった。
「客の顔を見るたび吐きそうになって、笑うだけで疲れて、終わったあとに手を洗っても臭いが落ちないような場所に?」
イーサンは黙った。
エルサは続けた。
「少し楽になってるだけよ。少しだけ、今日をやり過ごしやすくなるだけ」
「それが危ない」
「危なくないものなんて、この街にあるの?」
その一言で、イーサンは言葉を失った。
ある、と言い切れるほど、この街はまともではなかった。
「それでも」
ようやくそう言うと、エルサは目を逸らした。
「先生は、ちゃんと治す人だものね」
その言い方には、皮肉も、羨ましさも、少しだけ混じっていた。
「でも私は、治るまで待てないのよ」
イーサンは何も返さなかった。
* * *
その晩、ルカが来た。
戸を開けたときにはもう血の匂いが先に入っていた。肩口に浅い傷を作り、頬には新しい切り傷もある。だが、顔つきはいつもの戦帰りより妙に晴れていた。
「治せ」
「挨拶を覚えろ」
「今度でいい」
イーサンは椅子を指した。ルカは素直に座る。
「岩か」
「その前に花も使った」
イーサンの手が止まる。
「やっぱりか」
「少しだけだ。出る前に」
「誰に貰った」
「皆やってる」
ルカはそう言って笑った。
「すごいぞ、あれ。怖さが薄くなる。前より足が出る」
「足が出すぎて切られたか」
「でも生きてる」
ルカの声は軽い。軽いのに、言っていることは本気だった。
「前なら止まってたところで、今日は動けた。斬られるかもって考える前に身体が前に出る」
イーサンは傷を洗いながら言った。
「それは勇気じゃない。ただ鈍ってるだけだ」
「鈍ってても死ななきゃいい」
その返事は、若いくせに妙に荒んでいた。
イーサンは薬液をかけた。ルカは肩を少ししか揺らさない。
「痛くないのか」
「前より平気だ」
「それが危ない」
「でも戦える」
ルカは机の木目を見たまま、小さく言った。
「怖いんだよ」
イーサンは黙った。
「毎回、怖い。死ぬかもしれねえし、足がすくむかもしれねえし、自分だけ引いたらどうしようって思う。あれを使うと、そこが遠くなる」
若い傭兵のその言葉には、虚勢ではないものがあった。
イーサンは包帯を巻き終えてから、短く言った。
「一度でやめろ」
ルカは鼻で笑った。
「無理だな」
その言い方が、妙に自然だったのが気持ち悪かった。
* * *
その夜、薬屋に戻ったイーサンは、布に包んだ花を机の上へ出した。
昼に拾ったものだ。細く色の薄い花がいくつか。乾きかけているのに、甘い匂いだけは妙に残っている。
乳鉢を引き寄せ、花を潰す。
青臭さに混じって、あの甘い匂いが立ちのぼる。鎮痛薬とは違う。眠り薬とも違う。もっと、身体の奥ではなく、気分や恐怖の方へ回り込むような匂いだった。
イーサンは眉を寄せた。
エルサの笑い方。
ルカの軽くなった口調。
全部つながる。
これは傷を治すものではない。
痛みを消すものでもない。
もっと別のところを鈍らせ、別のところを持ち上げる。
怖さ。
嫌悪。
ためらい。
そういうものを薄くして、人を無理の利く状態へ押し上げる。
机に手をついたまま、イーサンはしばらく動かなかった。
岩は痛みを奪う。
そして花は、その先を支える。
壊れたまま動き続けるために、これほど都合のいいものはない。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
これは薬じゃない。
その確信だけが、暗い部屋の中ではっきり形を持っていた。
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