【異世界】傷を治さぬ石

Aki Dortu

第一話 地割れの石

朝から、血の匂いがしていた。


イーサンは薬瓶の栓を抜きながら、鼻の奥に残る鉄臭さを追い払うように、浅く息を吐いた。薬屋の戸は半分だけ開けてある。開け放てば埃が入るし、閉めれば呻き声がこもる。どちらにしても、気持ちのいい朝にはならない。


狭い店の中には、木の台に腰を下ろした男がひとり、壁にもたれて順番を待つ若い傭兵がふたり、奥の椅子で咳をこらえている女がひとりいた。誰も彼も、どこかしら壊れている。


「次」


イーサンが言うと、手前にいた傭兵が前へ出た。二十そこそこ。頬にはまだ若さが残っているくせに、腕にも首にも細かい傷がいくつもあった。今朝増えたばかりらしい裂傷が、左の脇腹に一本、浅く長く走っている。


「またお前か、ルカ」

「またって言うなよ。感じ悪いな」

「感じが悪いのは怪我の増え方だ」


ルカはへらりと笑って、上着をまくった。傷口の周りは赤く腫れ、血は固まりかけている。深くはないが、放っておけば面倒になる傷だった。


「切られたのか」

「かすっただけだ。相手が鈍くて助かった」

「お前が馬鹿なだけだ」


イーサンは煎じた薬を布に染み込ませ、傷口を拭った。途端に、ルカの肩が跳ねた。


「痛っ……!」

「当たり前だ。傷なんだからな」

「そこを何とかするのが薬師だろ」

「すぐには治らん」


ぶっきらぼうに言って、イーサンは粉薬を振り、包帯を巻いた。若い連中はみな同じだ、と心の中で舌打ちする。痛みさえ消えれば治ったと思う。血が止まれば元通りだと思う。身体が出している悲鳴を、ただ邪魔なものとしか見ていない。


「三日は無理するな」

「三日も休んだら飯が食えない」

「じゃあ二日だ」

「一日で頼む」

「身体を値切るな」


ルカは口を尖らせたが、それ以上は言い返さなかった。代わりに銅貨を二枚、机に置く。


「ツケはなしだぞ」とイーサンが言うと、ルカは肩をすくめた。


「わかってる。先生、そういうとこだけは厳しいよな」

「そういうとこ以外も厳しい」


それを聞いて、奥の女がかすかに笑った。笑った拍子に胸を押さえ、すぐに顔をしかめる。咳が長引いているらしい。


イーサンは次の患者に目を向けた。腫れた膝、ひびの入った指、熱と咳、古傷の痛み。毎日似たようで、ひとつとして同じではない。どれも放っておけば悪くなる。だが、この街では、怪我をしても休める人間の方が少ない。放っておくなと言っても、結局は働くしかなかった。


国境近くのこの街では、身体は使い潰すものだった。傭兵は戦で削れ、荷運びは荷で潰れ、女たちは笑いながら心をすり減らす。休むことに金がかかる土地では、痛みはいつだって後回しにされる。


昼を過ぎるころには、ようやく客が切れた。イーサンは腰を伸ばし、奥の棚から乾燥薬草を取り出して刻み始める。包丁を動かすたび、左足の奥が鈍く疼いた。昔の傷だった。若いころ、街の外れの争いに巻き込まれ、骨に変な癖がついた。それ以来、雨の前と、疲れた夜には決まって痛む。


だが、それでいいとイーサンは思っていた。


痛みがあるから、止まれる。

痛みがあるから、これ以上は駄目だとわかる。

厄介ではあっても、身体が壊れかけていることを知らせる声ではある。


夕方、店の外が急に騒がしくなった。


怒鳴り声ではない。もっと落ち着かないざわめきだった。何かおかしなことが起きたとき、人が思わず顔を見合わせる、あのざわつきに近い。


イーサンが顔を上げた、その瞬間だった。


床がずれた。


何か大きなものが街の下を通り抜けたような低い音が足元から突き上げてきて、瓶が揺れ、棚がきしみ、次の瞬間には世界が横にひっくり返った。イーサンは机に肩をぶつけ、そのまま床へ倒れ込む。背後でガラスの割れる音が続き、吊るしてあった薬束がばさばさと落ちた。


「くそ……!」


立ち上がろうとしたが、また激しい揺れが来る。壁の漆喰が剥がれ、表の方で誰かが悲鳴を上げた。戸が勝手に開き、土埃が一気に店の中へ流れ込む。


揺れは長かった。長すぎて、どこまでが最初の揺れで、どこからが次の揺れなのかわからなくなるほどだった。ようやく地面が静まったときには、息をするだけで喉が痛かった。


イーサンは咳き込みながら立ち上がった。店の中は滅茶苦茶だった。割れた瓶、こぼれた薬液、床に散った粉。だが、それを見ている暇はない。外の音が、それ以上のことを告げていた。


表へ出ると、街は半ば噛み砕かれたような有様だった。


屋根瓦が崩れ、壁が裂け、土埃が空気の中に漂っている。道の真ん中では荷車がひっくり返り、その脇で男が膝を抱えて呻いていた。遠くでは女の泣き声がする。子どもの叫びも混じっていた。


「イーサン!」


聞き覚えのある声に振り向くと、ミラが宿屋の前から手を振っていた。酒場兼宿屋の女主人で、こういう時でも声がよく通る。


「二階の棚が落ちた!頭を切ったのが三人、脚をやったのがひとり!」

「動ける奴は店に運べ!」

「今やってる!」


返事をして、イーサンはそちらへ向かった。走ろうとして、昔ほど脚が動かないことを思い出す。それでも進む。止まっている暇はない。


そのとき、街外れの方でひときわ大きな声が上がった。


「地面が割れてるぞ!」


何人もの視線がそちらへ向く。崩れた石壁の向こう、もともと空き地だった一角に、人が集まり始めていた。


嫌な予感がして、イーサンは向きを変えた。


空き地の真ん中に、大きな地割れができていた。黒い口を開けた獣のように土が裂け、その底は夕闇に沈んでよく見えない。崩れた土の縁に人々が集まり、ざわざわと何かを見下ろしている。


「どけ」


イーサンが低く言うと、顔見知りの男が肩をすくめて道を空けた。


割れ目の底に、それはあった。


黒い岩だった。


ただの石と言うには、妙に滑らかで、妙に暗い。濡れているわけでもないのに鈍く光を返し、夕方の薄明かりの中でも形だけがはっきり浮かび上がって見える。土の中から掘り出されたというより、ずっと地の底に潜んでいたものが、揺れでようやく姿を見せた――そんな気味の悪さがあった。


「触るな」


イーサンは反射的に言った。


だが遅かった。


「おい、ルカだ」


誰かが呟いた。


さっき薬屋にいた若い傭兵が、群衆の前に出ていた。いつの間にかまた血を流している。崩れた石でも食らったのか、額に切り傷が増え、脇腹の包帯も赤く滲んでいた。


「大丈夫か」と誰かが声をかけるより先に、ルカは地割れの縁に片膝をついた。片手で身体を支え、もう片方の手を、ふらつくように岩へ伸ばす。


「やめろ!」


イーサンの声が飛ぶ。


ルカの指先が、黒い岩に触れた。


その瞬間、ルカの顔から痛みが抜け落ちた。


さっきまで歯を食いしばっていた口元が、ふっと緩む。肩の力が抜け、呆けたように目を見開く。


「……あ」


ルカは自分の脇腹を押さえた。血は出ている。傷はそのままだ。額の裂け目だって塞がっていない。なのに、信じられないものを見るような顔で、彼は言った。


「痛く、ない」


群衆がどよめいた。


「何だと?」

「嘘だろ」

「立てるのか?」


ルカは一度瞬きをしてから、ゆっくりと立ち上がった。脇腹をかばう様子もない。さっきまで片膝をつくのも苦しそうだった男が、何事もなかったように足を踏みしめる。


「本当に痛くねえ……」


その声には、怯えより先に、喜びがあった。


イーサンは一歩前へ出た。背中に嫌な汗が流れる。違う、と頭の奥が叫んでいた。治っていない。見ればわかる。傷はそのままだ。血も止まっていない。ただ、痛みだけが消えている。


「下を見ろ」


誰かが囁いた。


岩の周りの土が、ゆっくりと盛り上がっていた。


最初は根かと思った。だが、それは細い茎だった。黒土を割るように何本も伸び、薄紫のつぼみを膨らませ、見る間に開いていく。花だった。見たことのない、妙に生々しい花。花弁は肉厚で、夜の色を吸ったように濃い。風もないのに、ぬめるように揺れた。


群衆が一斉に息をのむ。


ルカは呆然と足元を見下ろしていた。


「奇跡だ……」


誰かが、半ば祈るように言った。


その一言で、場の空気が変わった。


「神の恵みか」

「地震で出てきたんだぞ」

「傷が痛くなくなったのを見ただろ」

「本物だ」


ざわめきが一気に熱を持つ。さっきまで地震に怯えていた人間たちの目が、別の光を帯び始める。その変化が、イーサンにはたまらなく嫌だった。


「下がれ、ルカ」


イーサンは強く言った。


「傷は治ってない。動くな」

「でも、痛くない」

「だから危ないんだ」


ルカは眉を寄せた。意味がわからない、という顔だった。周りの連中も同じ顔をしている。


イーサンは地割れの縁から身を乗り出し、岩と花を睨んだ。鼻先に、甘ったるい匂いがかすかに届く。薬草ではない。腐った臭いでもない。何か、もっと都合のいいものの匂いだった。


そのとき、群衆の後ろから呻き声がした。


倒壊した家屋から運ばれてきた男が、片脚を不自然に折り曲げたまま担がれている。顔は土と涙でぐしゃぐしゃだった。


「ここに触らせろ!」

「痛みが消えるんだろ!」

「頼む、頼むから!」


誰かが叫んだ。


イーサンは振り返った。止めなければ、と思った。だが、そのときにはもう別の誰かが道を空け始めていた。助かるかもしれない。少しでも楽になれるかもしれない。その期待は、理屈より先に人を動かす。


「待て!」


制止の声は、ざわめきに呑まれた。


折れた脚の男が地割れのそばへ運ばれる。胸を押さえた女が列に加わる。腕を押さえた荷運び、頭を切った子ども、肩を外した兵士。誰も彼もが、黒い岩を見ていた。


ミラがいつの間にか隣へ来ていた。土埃まみれの顔で、低く言う。


「ずいぶんな顔だね」

「嫌なものを見てる」

「でも、止まらないよ」


イーサンは答えなかった。


止まらない。

その通りだった。


人々は地割れの縁へと集まり始めていた。今この瞬間の痛みを消してくれるものがあるなら、その先で身体がどうなるかなんて、ひとまず脇へ追いやれる。そういう目をしていた。


夕闇の中、黒い岩は黙っていた。

その周りには、異様な花がいくつも咲いていた。

そしてその前には、負傷者たちの列が、ゆっくりと伸び始めていた。


イーサンはその光景を見つめながら、左脚の奥で疼く古傷を、ひどく遠く感じていた。


痛みがあるから、人は止まれる。


だが、その痛みを奪うものの前で、人はどこまで進んでしまうのか。


列の後ろの方で、誰かが言った。


「次は俺だ」


その言い方が、薬屋の順番待ちと同じ調子だったことに、イーサンは寒気を覚えた。

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