最終話「揃わないから、繋がれる」

第5話「揃わないから、繋がれる」①


その日の夕方、街はひどく静かだった。

朝の戦闘を終えてから、モチカとアヤメは市街地の外れにある小さな廃駅へ身を潜めていた。

線路はもう使われておらず、ホームの端には錆びた柵が斜めに傾いている。

ガラスの割れた待合室には古い時刻表が残ったままで、風が吹くたび、紙の端がかさりと鳴った。


けれど、静かなのはこの場所だけじゃない。

遠くに見える街並みそのものが、どこかおかしかった。


「……人が少ない」


アヤメがホームの柱越しに外を見ながら言った。

モチカも黙って頷く。


夕方なら、もっと灯りがつき始めていい時間だった。

帰宅する人、買い物袋を提げた人、駅前で立ち話をする人。

そういう生活のざわめきが、街にはあるはずだった。

なのに今、見えるのは妙に整いすぎた流れだけだ。

車は一定の速度で走り、歩く人影は少なく、たまに見かけても皆、同じ方向へ吸い寄せられるように進んでいく。


「避難誘導……じゃない」


アヤメの声が硬くなる。


「もっと強い整律波が出てる」


モチカは掌を開いた。


小さな餅が滲み出る。

いつも通りの白だ。

けれど、それを見ていると胸の奥が妙にざわついた。


朝、レイジは言っていた。


欠けた一面の残滓が、機関の深層に保管されていると。

そして再接続のためには、自分を拘束し、餅を封じる必要があると。

あれがただの脅しならよかった。


だが、あの男はそんな曖昧な嘘をつく感じではなかった。

もっと冷たく、もっと正確に、人がいちばん迷う言葉だけを選んで差し込んでくる種類の人間だ。


「モチカ」


アヤメが不意に呼ぶ。


「何」


「まだ考えてる?」


何を、とは聞かなかった。

聞かなくても分かる。

欠けた一面のこと。

取り戻せるかもしれない自分のこと。

普通になれるかもしれない未来のこと。

モチカは少しだけ黙ってから、正直に言った。


「考えてる」


「……そっか」


「でも、答えは変わらないと思う」


モチカは遠くの街を見たまま続ける。


「欲しいとは思った。ちゃんと。でも、それと選ぶかどうかは別」


アヤメは何も言わなかった。


それ以上、止めることもしない。

ただ、少しだけ肩の力を抜いた気配だけが伝わってくる。

その時だった。

空の色が、わずかに変わった。


夕焼けの赤が、鏡みたいに平らな銀色へ塗り潰されていく。

雲じゃない。

空そのものに巨大な面が何枚も重なっていくみたいな、異様な変化だった。

次の瞬間、街のあちこちから光の柱が立ち上がる。


「始まった……!」


アヤメの顔色が変わる。


「……全域整律装置」


「そんなのまであるの」


「ある。けど、実戦投入なんて聞いたことない」


光の柱は全部で六本。

街を囲むように立ち、空に浮かぶ巨大な鏡面と接続していく。

その中心で、ゆっくりと巨大な立方体の輪郭が形を成し始めた。


キューブだ。


街全体を覆うほど巨大な、銀色の心のキューブ。


モチカは息を呑んだ。

見た瞬間、分かってしまった。

あれは人々のキューブへ干渉するための装置だ。

無理やり揃えるための、巨大な型。

感情の向きも揺らぎも全部押し均して、世界そのものをひとつの面に揃えるための檻。


「レイジ……」


アヤメが低く呟く。


「最初からこれが目的だったんだ」


ホームの外で、ひとりの女性が足を止めた。

買い物袋を持ったまま、空を見上げている。

次の瞬間、その胸元が淡く光った。

キューブだ。

向きが急速に揃っていく。

驚きも、戸惑いも、全部何かに均されていくみたいに、表情から生気が薄れていく。


「まずい」


モチカは立ち上がった。

別の通りでは、立ち止まっていた子どもが急に泣きやみ、母親らしき人も慌てることなくその手を引いた。

まるで最初から何も感じていなかったみたいな静けさで。


怒りも、悲しみも、迷いも、全部消される。


整えられるんじゃない。

奪われる。


「行くよ、アヤメ」


モチカは低く言った。


「あれを止める」


「中心制御塔はたぶん旧研究区画の上層」


アヤメもすぐに立ち上がる。


「一番行きたくない場所だけど」


「奇遇。私も」


そう言いながら、モチカは掌の餅を握り込んだ。

柔らかい白が、かすかに脈打つ。

空では、巨大な銀のキューブがゆっくり回転を始めていた。

まるで世界中の心を、ひとつの向きへ揃えるための時計仕掛けみたいに。


モチカはそれを睨み、静かに息を吸う。


「揃いすぎると、人じゃなくなる」


誰に言うでもなく呟いて、それから前を向いた。


「だったら、崩しに行くしかない」


白い餅が、夕暮れの風の中で細く伸びる。

その先にあるのは、自分が失った場所で、たぶん全部の始まりだった場所だ。

欠けた意味を知った今なら、もう逃げない。


世界が揃ってしまう前に。


誰かの心が静かすぎる箱になる前に。

自分のこの欠けたままで、届くところまで行く。

モチカはホームの端を蹴った。


白い帯が夜の入口へ放たれ、二人の身体を街の中心へ引っ張っていく。


決戦は、もう始まっていた。



第5話「揃わないから、繋がれる」②


街へ戻った瞬間、空気の違いが肌で分かった。


さっきまで人の生活があったはずの通りが、妙に静かだった。

車は信号に従ってきちんと止まり、きちんと発進する。

歩道を歩く人たちも、ぶつかることも立ち話をすることもなく、同じような歩幅で進んでいく。


整っている。

整いすぎている。

そこには苛立ちも焦りもなく、同時に、笑い声もため息もなかった。


「気持ち悪い……」


アヤメが小さく言う。

モチカは答えず、通りを見渡した。

視界の端で、コンビニの前にいた若い男が、落とした財布を拾おうともせず通り過ぎていく。

信号待ちをしていた女の子が、空を見上げたまま瞬きもしない。

ベンチに座る老人は微動だにせず、ただ前だけを見ている。


胸元のキューブは、みんな淡く光っていた。

そしてその向きが、少しずつ、同じ面へ揃えられていく。


「全域整律は感情を消すんじゃない」


アヤメが走りながら言う。


「面の向きを固定して、揺れを止めてる。怒りも悲しみも楽しさも、全部ひとつの方向へ押し込んでるんだと思う」


「結果として、消えてるのと同じ」


「……うん」


二人はビルの屋上を飛び移りながら中心部を目指した。


進むほど、銀色の光は濃くなる。

街の上空を覆う巨大なキューブは、まるで空に打ち込まれた冷たい心臓みたいに脈動していた。

その六面から落ちる光が街へ降り注ぎ、人々のキューブを少しずつ揃えていく。


モチカは歯を食いしばる。

あれは“平和”なんかじゃない。

迷いも葛藤もなくなれば、争いは減るのかもしれない。

でも、それは誰かを思って悩むことも、許せなくて怒ることも、失って泣くことも、全部まとめて奪うってことだ。


そんなの、ただ静かなだけの空っぽだ。


旧研究区画へ近づくにつれ、機関の部隊も増えていった。

屋上と屋上の間に鏡面の足場が張られ、整律兵たちが無駄のない動きで配置についている。

以前なら捕獲目的の陣形だった。

今は違う。

街全体を守る装置の一部として、自分たちも揃いきった歯車になっている。


「…止められるかな…モチカ」


アヤメが珍しく弱い声を出す。


モチカは一瞬だけ横目で見る。

怖いのだろう。

自分だって怖い。

相手はひとつの部隊じゃない。

街そのものが敵側の盤面になっている。


「止める」


モチカは短く言った。


「無理でも、揺らす」


「ずいぶん雑」


「今さら…」


アヤメが少しだけ息を漏らす。


笑ったのか、呆れたのか、その両方かもしれない。

次の瞬間、正面のビル屋上に部隊が展開した。


五人。鏡槍三、拘束環二。

さらに後方に整律膜の展開役がひとり。

先頭の隊員が無機質に告げる。


「対象確認。白玉モチカ、四方鏡アヤメ。制圧を開始する」


「どいつもこいつも同じ喋り方」


モチカが吐き捨てる。


返事の代わりに、鏡槍が放たれた。


一直線。

正確。

迷いがない。


モチカは右へ跳び、着地と同時に餅を広げる。

白い帯が鏡槍へ絡みつくが、以前より手応えが軽い。

相手のキューブが揃いすぎていて、感情の引っかかりが薄いのだ。


「繋がりが浅い……」


モチカが小さく呟く。


「整律されるほど干渉が均される」


アヤメが鏡片を飛ばしながら答える。


「でも、ゼロじゃないはず!」


その言葉に、モチカは一気に踏み込んだ。

鏡槍を餅で逸らし、そのまま先頭の隊員の胸元へ掌を叩き込む。

触れる。流れ込んでくる感情は少ない。

薄い。

まるで遠くから聞こえる声みたいにかすれている。


でも、あった。


戸惑い。

小さな違和感。

揃いきった静けさの底で、まだ完全には沈んでいない人間の揺れ。


「……いる」


モチカの目が細くなる。


「まだ、中にちゃんといる」


隊員がモチカを振り払おうとする。

だがモチカは離れず、餅を胸元のキューブへ貼りつけた。

固定するのではなく、わざと少しだけ角度をずらすように引く。

完璧に止める必要はない。

揃いきった向きに、小さな乱れを入れればいい。


ぎし、と音がした気がした。

隊員の動きが一拍だけ止まる。

その瞬間、アヤメの鏡片が横から飛び込み、防御面を弾き飛ばした。後衛が慌てて整律膜を重ねるが、さっきまでの精度がない。

ほんの少し、連携が鈍る。


「効いてる!」


アヤメが叫ぶ。


「揃ってるなら、崩せばいい」


モチカは低く返す。


「全部壊すんじゃなくて、少しズラすだけでいい!」


その考えが、突然はっきり形になった。

今までモチカは、相手と繋がり、受け止め、止めようとしていた。


でも今、相手は“揃えられすぎている”。

なら必要なのは、綺麗に固定することじゃない。

整いすぎた面を、あえて崩すこと。

バラバラにするんじゃない。

人間らしい揺れへ戻すために、均されすぎた向きを解く。


「アヤメ、中心制御塔までの最短は」


「この先三ブロック。旧研究区画の上層連絡橋を抜ければ行ける!」


「じゃあ道、こじ開ける」


モチカは両腕から白い餅を噴き出させた。

柔らかい帯が屋上全体へ広がり、隊員たちの足元、腕、胸元へ細く絡みつく。拘束ではない。

少しだけ引く。

少しだけズラす。

整いすぎた面へ、ほんの数度の乱れを差し込む。


それだけで、世界は変わる。


隊員のひとりが、初めて戸惑うように足を止めた。

もうひとりが、仲間を庇おうとして動きを乱す。

完璧な歯車だった連携に、小さな人間らしさが戻る。


「行ける!」


アヤメが前へ出る。

鏡片が揺れた軌道で走り、空いた道を切り開く。

モチカはその背中を追いながら、胸の奥で強く思った。


揃わないから、迷う。

迷うから、ぶつかる。


でも、揃わないからこそ、手を伸ばす余地がある。


空の巨大なキューブは、なおも街を均し続けていた。

その中心へ向かいながら、モチカは静かに息を吐く。

壊すんじゃない。

取り戻すんだ。


人の心が、ちゃんと揺れられる形を。





第5話「揃わないから、繋がれる」③


旧研究区画の上層連絡橋は、街の中心を貫くように空中へ伸びていた。

かつては研究員たちの移動用だったのだろう。透明な壁面に囲まれた細い通路は、今では半分以上が鏡面装甲へ置き換えられ、外から見れば巨大な銀の管みたいに光っている。

その内部を、モチカとアヤメは息を切らしながら走っていた。

足元の床には整律紋が薄く刻まれ、そこを通るだけで胸の奥がざわつく。

自分のキューブまで、何かに撫でられるみたいな嫌な感覚だ。


「これ……通路自体が装置になってる」


アヤメが言う。


「中心へ近づくほど、整律波が強くなるはず」


「親切にどうも、って感じじゃないね」


「全然嬉しくない説明だけど」


軽口を返しながらも、二人の足は止まらない。

通路の外では、空に浮かぶ巨大な銀のキューブがさらに回転を速めていた。

六本の光柱が脈を打つたび、街のあちこちで人々の動きが少しずつ均されていくのが見える。

信号待ちの列は真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐで、交差点のざわめきは消え、ビルの窓際に立つ人影たちも皆、同じ角度で空を見上げていた。

あのまま進めば、街じゅうの心がひとつの方向へ固定される。


モチカは拳を握った。

怖いとか、焦るとか、そういう感情は全部そのまま胸の奥にある。

相変わらず自分のキューブは回らない。

けれど今は、それでいいと思えた。

揺れているから、止めたいと思える。痛いから、見過ごせない。


その時、通路の先で鏡扉が音もなく閉じた。


「来る」


アヤメが立ち止まる。


次の瞬間、左右の壁面が一斉に明滅し、整律兵が八人、鏡面の中から浮かび上がるように現れた。

さらにその奥、閉ざされた扉の前にはトウカが立っていた。

灰色の髪、凍ったようなキューブ、冷たい目。

朝と同じ姿のはずなのに、今は街全体の光を背負っているせいか、さらに静かな怪物みたいに見えた。


「ここから先へは進ませない」


トウカが言う。


「中心制御塔は、整律の核。未完成が触れていい場所じゃない」


「その未完成に、朝やられたの忘れた?」


モチカが返す。


「忘れていない」


トウカの声は平坦だった。


「だから今度は、揺らがせない」


通路いっぱいに霜が走る。


床、壁、天井。透明だった場所が瞬く間に白く曇り、冷気が肺の奥まで刺さってくる。

餅を出せば凍る。

分かっている。

けれど、分かっているから手がないわけじゃない。

モチカはゆっくり腰を落とした。


「アヤメ」


「うん」


「正面、開けられる?」


「やるしかないでしょ」


整律兵たちが同時に動く。

鏡槍、拘束環、整律膜。

狭い通路では避ける場所が少ない。

真正面から押し潰すための陣形だった。

最初の鏡槍が来る。


モチカは右へ半歩だけずれ、左手の餅を細く伸ばした。

霜に触れた瞬間、先端は凍る。

だが全部じゃない。

手元の熱が残っている中心部だけは、わずかに粘りを保つ。


そこへ力を込める。

凍った先端ごと、鏡槍へぶつけた。

ぱきん、と乾いた音。


砕けたのは餅の方だ。

けれど、その破片が白い粒となって槍の軌道へ散る。

整律兵が即座に第二射を重ねようとする。

その一拍前に、モチカは指を握った。

白い粒が、鏡槍と兵の腕へ貼りつく。

少しだけズラす。

たったそれだけで、二本目の槍は味方の整律膜へかすった。


「今!」


アヤメが叫び、鏡片を放つ。

揺れた軌道の刃が、整律膜のひびへ突き刺さる。

狭い通路に光の破片が散り、先頭の兵たちがよろめいた。

トウカの目が細くなる。


「またその手法」


「また効くってこと」


モチカは低く返し、前へ出た。

冷気が強い。

足元から這い上がる霜が靴底を白く染める。

腕の餅も硬化が速い。

けれど、この狭さなら逆にいい。

相手の整った連携は、通路では密集しすぎる。

一箇所乱せば、後ろまで鈍る。


モチカは床へ餅を叩きつけた。

白が薄く広がる。


トウカの霜とぶつかり、半分凍り、半分だけ粘る。その曖昧な境目が、通路の真ん中に一本の不安定な線を作った。


「アヤメ、左壁」


「分かった!」


アヤメの鏡片が左の壁面を削る。

細い破片が降る。

その反射に一瞬、整律兵たちの視線が揺れた。

その隙にモチカは、凍りかけた餅を兵たちの足元へ走らせる。

拘束じゃない。


少しだけ角度を変えるだけ。

ひとりの足が半歩遅れる。

その半歩に後続が引っかかる。

整いすぎた陣形が、将棋倒しみたいにわずかに崩れた。


「まだ人間じゃん」


モチカが吐き捨てる。

その一言と同時に、トウカが前へ出た。


霜が一気に濃くなり、通路の中央から巨大な氷鏡が立ち上がる。

壁ではない。

歪んだ鏡だ。そこに映るのは、今の自分たちじゃない。


白い部屋。

幼いモチカ。

手を伸ばす、顔の見えない誰か。


「っ……!」


モチカの呼吸が乱れる。


「見せる必要がある」


トウカが静かに言う。


「お前の欠損が、何を壊したか」


氷鏡の中で、幼い自分がキューブの一面へ手をかける。

その瞬間、胸の奥の欠けた場所がずきりと痛んだ。

思い出せないはずの喪失が、形だけ先に戻ってくる。

消えた誰か。自分で捨てた一面。

止められなかった崩壊。


「モチカ!」


アヤメの声が遠くなる。

トウカの狙いは分かった。

倒すことじゃない。

止めること。

迷わせること。

自分の選択にもう一度ひびを入れること。


モチカは息を吸う。


痛い。苦しい。見たくない。

でも、もう逃げないと決めた。


「……知ってるよ」


小さく呟く。


「私が壊したかもしれないことくらい」


氷鏡の中で、白い部屋が揺れる。

それでもモチカは前を向いた。


「でも、それでも」


掌に白い餅を滲ませる。


「揃えば解決するとは思わない」


そのまま、モチカは氷鏡へ拳を叩き込んだ。

凍りかけの餅が表面へ張りつき、そこから細かなひびが広がっていく。

記憶を映した鏡が割れ、白い部屋の像が砕け散る。

アヤメがその瞬間を逃さず、鏡片を連続で走らせる。

ひびは一気に通路全体へ走り、整律兵たちの前衛ラインを飲み込んだ。

トウカの氷鏡が崩れる。


その向こうに、閉ざされた扉が見えた。

中心制御塔への最後の隔壁だ。


「道、開いた!」


アヤメが叫ぶ。

モチカは荒い息のまま頷く。

胸の欠けた場所はまだ痛い。

たぶん、ずっと痛いままだ。

でもそれでいい。


その痛みごと、自分が選んだものだから。


「…行こう」


短く言って、モチカは扉へ駆けた。


その先にいるのは、たぶんレイジだ。

街全体を揃えようとしている中心。

そして、自分の欠けた一面が眠っているかもしれない場所。

通路の最後で、銀の光が待っていた。




第5話「揃わないから、繋がれる」④


最後の隔壁を抜けた瞬間、空気が変わった。

そこは塔というより、巨大な空洞だった。

旧研究区画の最上層をまるごとくり抜いたような、円形の制御室。

床も壁も天井も鏡面と光路で構成され、その中心には六本の光柱が集まり、ひとつの核を形作っている。

空に浮かぶ巨大な銀のキューブと、この場所は完全に繋がっていた。


そして、その核の手前にレイジが立っていた。

ひとりで。

いや、正確には違う。

レイジの背後、光柱の中心には、ガラスの棺みたいな縦長の容器があった。

その内部で、何かが淡く光っている。欠けた面。言葉にするより先に、モチカの胸がずきりと痛んだ。


「来ると思っていた」


レイジが振り向く。

穏やかな声。

整った表情。

けれどその静けさは、もうただの余裕には見えなかった。

どこか焦りに似た硬さが、輪郭の奥に混じっている。


「親切に待っててくれたんだ」


モチカが低く返す。


「待っていたというより、確認したかった」


レイジの視線が、モチカの胸元へ落ちる。


「君が欠けたままでここまで来るのか。それとも、途中で自分の不完全さに耐えきれなくなるのか」


「残念だったね」


「いや」


レイジは小さく首を振る。


「むしろ期待通りだ。君はずっとそうだ。壊れそうなまま、壊れない方を選ぶ」


その言い方に、モチカは眉をひそめた。


「……私を知ったように言わないで」


「知っているとも」


レイジは容器の方へ片手を向ける。


「十年前、あの区画で何が起きたか。君が誰と繋がり、何を失ったか。そして、なぜ今も餅が残っているのか」


アヤメが一歩前へ出る。


「その欠損面を使って、何をしてるの」


「簡単な話だよ」


レイジの声は静かだった。


「揃えるための最後の不足分を補っている」


六本の光柱が強く脈打つ。

空の巨大なキューブも呼応し、街へ降る銀光がさらに濃くなる。


「人の心は本来、揃わない。だから争う。だから傷つけ合う。だから失う」

レイジは淡々と続ける。


「けれど、君の欠損面は特殊だ。他者との関係性そのものに干渉する起点。

これを核にすれば、個々のキューブを一つの位相へ接続できる。

迷いも葛藤も越えて、全員を同じ向きへ導ける」


「導く、じゃない」


モチカが吐き捨てる。


「縛る、でしょ」

「結果として安定するなら、言葉の違いに意味はない」


その瞬間、制御室の壁面に無数の人影が映った。


街の人々だ。

歩道を歩く者。

家の窓辺に立つ者。

信号待ちをする者。

みんな胸元のキューブが銀に染まり、少しずつ同じ角度へ揃っていく。

その光景に、モチカの喉が熱くなる。


「それで満足?」


「満足ではない。必要なんだ」


レイジの声がわずかに硬くなる。


「揃わない心は、必ず誰かを壊す。君がそうだったように」


胸の欠けた場所が痛む。

白い部屋。

届かなかった手。

消えた誰か。

その記憶の輪郭が、またうっすら浮かび上がる。


怖い。


正しいのは、レイジの方かもしれないと一瞬でも思ってしまう自分が、まだいる。


もし全部揃ってしまえば、あんなふうに誰かを失わずに済んだのかもしれない。

もし自分が普通に回るキューブを持っていたなら、あの時もっと違う選び方ができたのかもしれない。


だが次の瞬間、隣でアヤメが言った。


「モチカ」


短い呼びかけだった。

でも、それだけで十分だった。

モチカはゆっくり息を吸う。

怖さは消えない。

迷いも消えない。

自分のキューブはやっぱり回らない。

それでも今、自分はひとりじゃない。


「……違うよ」


モチカはレイジを見た。

「私はたしかに誰かを壊したかもしれない。今も、その痛みは消えてない」


掌に白い餅が滲む。


「でも、だからって全部揃えればいいなんてならない」


レイジの目が細くなる。


「なぜ」


「揃ったら、手を伸ばす理由まで消えるから」


モチカは一歩前へ出る。


「痛いから支えたいし、迷うから誰かに聞きたいし、欠けてるから届きたいって思うんでしょ」


その言葉が落ちた瞬間、容器の中の欠損面が強く明滅した。


まるで、何かに反応するみたいに。

レイジの表情が初めてはっきり変わる。


「共鳴……?」


モチカも息を呑んだ。

胸の欠けた場所が、熱い。

呼ばれているような、逆に自分が呼んでいるような、不思議な感覚だった。

あの面はまだ失われていない。


ここにある。

そして今、自分へ戻ろうとしている。


でも。


モチカは容器を見つめながら、静かに言う。


「取り戻さない」


アヤメが目を見開く。

レイジも一瞬だけ言葉を失った。


「君は……」


「欲しくないわけじゃない」


モチカは正直に言う。


「回りたい。普通みたいに変わりたい。ちゃんと欲しいよ」


胸の痛みが強くなる。


それでも、視線を逸らさない。


「でも今ここで戻ったら、たぶん私はまた“ひとりで完成する方”を選ぶ」


白い餅が、掌の中で柔らかく脈打つ。


「それは、もう違う」


モチカはレイジをまっすぐ見た。


「私は、揃うより繋がる方を選ぶ」


レイジの穏やかな仮面が、ついに剥がれた。


静かな怒りが、その奥から顔を出す。


「なら、力づくで揃えるしかない」


同時に、制御室の全光路が一斉に点灯した。

六本の光柱が広がり、巨大な整律陣がモチカたちの足元に展開する。

決着の時が来たのだと、肌で分かった。




第5話「揃わないから、繋がれる」⑤


足元に広がった整律陣は、まるで巨大な歯車だった。

六本の光柱が制御室の床へ幾重にも線を刻み、その中心でモチカたちを閉じ込める。

空の巨大キューブも同時に強く明滅し、街全体へ降り注ぐ銀光が一段と濃くなった。映し出された壁面の街では、人々の歩みがさらに静かになっていく。

表情は薄く、感情の角は削られ、ひとつの大きな箱の中へ収められていくみたいだった。


「これで終わる」


レイジが低く言う。


「揃わない心の時代は、ここで終わる」


「終わらせない」


モチカは即座に返した。


同時に、整律陣が起動する。


足元から光が這い上がり、胸のキューブへ直接触れてくる。

熱いわけじゃない。

冷たいわけでもない。

ただ、自分の感情の向きを無理やり掴まれて、どこかひとつへ揃えられそうになる嫌な圧力だった。


「っ……!」


アヤメが膝をつきかける。

鏡片を出そうとしても、光がそれを均してしまう。

揺れた軌道を持つ前に、整った形へ押し込まれてしまうのだ。

レイジは動かない。

ただ制御核の前に立ち、全体を支配する指揮者みたいに静かにこちらを見ている。


「未完成は、未完成である限り、必ず揺らぐ」


その声が制御室に落ちる。


「だから支配される。だから壊れる。なら、最初から揃えてしまえばいい」


モチカは歯を食いしばる。

揃えられる感覚が、胸の中へじわじわと入り込んでくる。

怖い。

思考が平らになる。

迷いや痛みが均されて、楽になる方向へ引っ張られる。


ああ、これに呑まれたら楽だ、と一瞬思ってしまう。

苦しまなくていい。

誰かの感情が流れ込んでくることもない。

欠けた場所に風吹くみたいな寒さも、きっと静まる。

でも、その静けさの先にあるものを、モチカはもう知っていた。


何も感じないこと。

何も揺れないこと。


誰かへ伸ばす手さえ、必要なくなること。


「……嫌だ」


小さく呟く。


掌に白い餅を滲ませる。

整律陣の光に触れて、すぐに形が鈍る。

だが消えない。

柔らかく、曖昧で、不格好な白がそこに残る。


「まだ出すのか」


レイジの声に、初めて苛立ちが混じる。


「それは欠損の残り滓だ」


「違う」


モチカは顔を上げた。


「これは、今の私だ」


その瞬間、胸の欠けた場所が強く痛んだ。

容器の中の欠損面が、まるで呼応するように明滅する。


戻れる。

今なら戻せる。


その誘惑が、胸の奥で何度も揺れる。

けれどモチカは、そこへ手を伸ばさなかった。

代わりに、掌の餅を床へ叩きつける。


白が整律陣の線へ広がる。全部は止められない。

全部は壊せない。でも、線と線の“間”へ入り込むことはできる。


「餅は、“間”を繋ぐ」


モチカは低く言う。


「だったら、揃えられた心と心の間にも、入れるはず」


白い餅が、整律陣の隙間へ入り込む。

ひとつひとつは細い。

頼りない。

すぐに銀光に押し潰されそうになる。

でも、モチカは止めない。


床から、光柱へ。

光柱から、壁面へ。

壁面から、街の映像へ。


「アヤメ!」


「うん!」


アヤメが立ち上がる。

まだ整律の圧は強い。

膝も震えている。


それでも彼女は鏡片を出した。

綺麗に揃った刃じゃない。

乱れた、小さな光。

その揺れが、モチカの白い線と重なる。


餅が繋ぐ。

鏡が反射する。

制御室の光路に、ほんの小さなズレが生まれる。

レイジの表情が変わった。


「……やめろ…!」


「やめない…!」


モチカは踏み込む。


「揃えたいなら勝手に揃えればいい。でも、人の心まで奪うな…!」


整律陣がさらに強く脈打つ。

モチカの胸へ圧力が走る。

欠けたキューブが軋む。

苦しい。痛い。今にも潰れそうだ。

それでも、今はひとりじゃない。

流れ込んでくる。


アヤメの怖さ。

支えたいっていう熱。

街の中で、まだ消えきっていない戸惑い。

泣きそうな子どもの震え。

誰かを呼びたいのに声にできない、無数の小さな感情。


全部が痛い。

全部が重い。


でも、それがあるから分かる。

まだ、終わってない。


「……ここからが、もちもちタイムだ!」


モチカが叫ぶ。

自分でも少し変な決め台詞だと思った。

でも今は、それでよかった。


白い餅が一気に膨れ上がる。

武器の形じゃない。槍でも刃でもない。

巨大な網だ。


制御室いっぱいに広がる、不格好で柔らかな白い網。

それが六本の光柱すべてに絡みつき、整律の流れを一度に引っ張った。


「何を……!」


レイジが初めて声を乱す。


「崩すだけ…!」


モチカは歯を食いしばったまま言う。


「……揃えすぎた向きを、元に戻すだけ!」


網は光柱を壊さない。

制御核も砕かない。

ただ、角度をズラす。


ひとつの向きへ固定されていた流れを、少しずつ、バラバラへ戻していく。

アヤメの鏡片がそのズレを次々に反射する。

銀の光は制御を失い、壁面へ、天井へ、空の巨大キューブへ跳ね返る。

巨大キューブの六面にひびのような乱れが走った。


その瞬間だった。


街の映像の中で、信号待ちをしていた女の子が、ふっと瞬いた。

買い物袋を持った女性が、落としそうになった袋を慌てて掴んだ。

ベンチの老人が、ゆっくり首を巡らせる。


戻り始めた。


怒りも悲しみも楽しさも、全部いびつなまま。

でも、人の心らしい揺れが、街へ戻っていく。


「そんなものは、また争いを生むだけだ!」


レイジが叫ぶ。


「そうだよ」


モチカは真正面から言い返す。


「でも、それだけじゃない」


そのまま、最後の一歩を踏み込んだ。

レイジの胸元へ、掌を叩き込む。

白い餅がキューブへ貼りつく。

流れ込んでくるのは、冷たい理性だけじゃなかった。


怖かったのだ。

壊れるのが。

失うのが。



揃っていない誰かを信じるのが。



「……あんたも、ほんとは分かってる」


モチカが掠れた声で言う。


「揃っても、寂しさは消えない」


レイジの目が大きく揺れた。

その一瞬、アヤメの鏡片が飛ぶ。

餅の貼りついたキューブの縁へ、真っ直ぐではない揺れた軌道で突き刺さる。


ぱきん、と澄んだ音がした。

割れたのはキューブじゃない。

その表面を覆っていた、完璧すぎる整律の層だ。


同時に、空の巨大キューブがひび割れる。

六本の光柱が明滅し、銀の光が一斉に薄れていく。

街を覆っていた整律が、解けた。

制御室に静けさが落ちる。

白い網は役目を終え、ふわりと崩れた。


レイジはその場に膝をつく。

胸元を押さえたまま、もう立ち上がらない。

いや、立ち上がれないのだろう。

揃いすぎていた心に、初めて揺れが戻ってしまったから。


モチカも膝をついた。

全身が重い。

胸の欠けた場所も、ひどく痛む。

でも、空気はもう冷たすぎなかった。

容器の中の欠損面が、静かに明滅する。


それはまだそこにあった。

戻ろうと思えば、戻せるのかもしれない。

けれどモチカは、最後まで手を伸ばさなかった。

アヤメが隣に座り込む。


「……終わった?」


「たぶん」


「たぶん便利すぎ」


「じゃあ、だいたい終わった」


「……雑」


二人の間に、少しだけ笑いに似た息が落ちた。

モチカはゆっくり立ち上がり、制御室の外、光を取り戻した街を見下ろす。


人々は混乱していた。

立ち止まり、空を見上げ、誰かを呼び、泣く子を抱きしめ、怒った顔で何かを訴えている。

静かじゃない。

きれいじゃない。

でも、ちゃんと人の街だった。


胸元へ手を当てる。

キューブは相変わらず欠けたまま。

回りもしない。

普通には、結局ならなかった。

それでもモチカは、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……揃わないからこそ」


静かに呟く。


「私たちは、繋がれる」


風が吹いた。

白い餅の欠片が、光の中でふわりと舞う。

欠けたままの心。

不揃いな感情。

痛みごとの繋がり。

きっとこれからも、面倒で、苦しくて、簡単じゃない。


それでも、誰かの心が揺れるたびに、そこには手を伸ばす余地がある。


完璧じゃないから、支え合える。

足りないから、届こうとする。

変われないままでも、誰かとなら前へ進める。

空に浮かんでいた巨大な銀のキューブは、完全に崩れず、ただ静かに形を失っていった。


ひとつの箱ではなく、無数の光の欠片となって、夕暮れの街へ溶けていく。

モチカはその光を見上げる。

思い出せない誰かの顔は、まだ戻らない。


欠けた意味の全部も、まだ抱えきれていない。

でも、それでいいと思えた。


足りないまま、生きていく。

揃わないまま、繋がっていく。

その先にある明日なら、たぶん。


悪くない。


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Broken Boundary: Cube SiZueAlKo @SiZue_Nox

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