第4話「欠けた意味」
第4話「欠けた意味」①
朝の光が、ひび割れた配送センターの屋上を淡く照らしていた。
凍結領域の名残はほとんど消えていたが、床のところどころにはまだ白い霜が残っている。
砕けた氷の欠片と、千切れた餅の跡が入り混じったそこは、戦いのあとというより、何かが無理やり剥がされた痕のように見えた。
モチカは座り込んだまま、胸元へ手を当てた。
キューブは相変わらず、動かない。
欠けた一面も、そのままだった。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
昨日と同じように、自分の心は途中で止まり、自分だけ取り残されているみたいな感覚も消えていない。
なのに、胸の奥には前より少しだけ重たいものがあった。
それは絶望ではなく、たぶん知ってしまった重さだった。
「立てる?」
隣でアヤメが聞く。
「立てるけど、立ちたくない」
「贅沢」
「そっちこそ足、大丈夫なの」
アヤメは自分の右足を見下ろした。
凍結の痕はまだ制服の裾と皮膚に薄く残っているが、歩けないほどではないらしい。試しに一歩踏み出して、少しだけ眉を寄せる。
「痛い」
「じゃあ大丈夫じゃないじゃん」
「でも歩ける」
妙に真面目な返答に、モチカは小さく息を吐いた。
笑ったわけじゃない。
ただ、少しだけ肩の力が抜けた。
立ち上がろうとしたその時、不意に頭の奥で鈍い音がした。
ぐらり、と視界が揺れる。
「……っ」
足元がふらつく。
アヤメがとっさに腕を伸ばしたが、触れるより先にモチカは膝をついていた。
まずい、と思った時には遅かった。
胸の奥が熱い。
いや、熱いというより、何かがこじ開けられるような感覚だった。
止まっていたはずの場所に、無理やり指を差し込まれるみたいな気味の悪さ。モチカは呼吸を詰まらせ、胸元を押さえる。
「モチカ?」
アヤメの声が遠い。
その瞬間、景色が変わった。
朝の屋上が消える。
代わりに現れたのは、白い部屋だった。
何もない、白い空間。
壁も床も天井も曖昧で、どこまでが部屋でどこからが空白なのか分からない。
その中心に、小さな少女が立っていた。
白い髪。
眠たげな目。
今よりずっと幼い顔。
見間違えるはずもない。
自分だった。
「……何、これ」
声は出したつもりだったが、空間に吸い込まれて消えた。
幼いモチカの前には、もうひとり、誰かがいた。
背中しか見えない。
細い肩。
やわらかく揺れる髪。
こちらへ手を伸ばしているのに、その輪郭だけが妙にぼやけていた。
顔だけが、どうしても見えない。
けれど、その背中を見た瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
知っている。
絶対に知っているはずなのに、思い出せない。
幼いモチカがその手を見つめている。
触れたいのに、触れられないみたいに。
その空気の震えだけで、モチカには分かってしまった。
これは記憶だ。
自分の、失くした記憶。
『……いや』
幼い自分が、かすれた声で言う。
『つながったら、だめ』
その言葉に、空間の白さがわずかに軋む。
目の前の誰かが、一歩近づく。
伸ばされた手が、もう少しで届く。
その瞬間だった。
幼いモチカの胸元で、キューブが強く明滅する。
六面あるはずの光の箱。
そのうちの一面だけが、不自然なほど濃く光っていた。
色とも感情とも言えない、名前のつかない光。
そして幼いモチカは、自分でそれに手をかけた。
「……やめて」
モチカの口から思わず声が漏れる。
けれど記憶は止まらない。
幼い自分の指が、キューブの一面へ食い込む。
ありえないはずだった。
心のキューブは触れられない。
普通なら、誰にも。自分自身にも。
なのに、あの時の自分は確かに触れていた。
『いらない』
幼いモチカが言う。
泣いていた。
けれどその涙さえ、ひどく静かだった。
『これがあると、きっと、ぜんぶ壊れる』
次の瞬間、光が裂けた。
ぱきん、と。
本当にそんな音がしたのか分からない。
ただ、世界そのものにひびが入ったみたいな感覚と一緒に、キューブの一面が剥がれ落ちるのを、モチカははっきり見た。
白い空間が崩れ始める。
手を伸ばしていた誰かの姿も、輪郭から先に砕けるように薄れていく。
見えない。思い出せない。顔が分からない。
でも、最後にその声だけが聞こえた。
『モチカ』
ひどくやさしい声だった。
そこで景色が弾けた。
モチカは荒く息を吸い込み、現実の屋上へ叩き戻される。
視界の端で、アヤメがこちらの肩を掴んでいた。
「モチカ!しっかりして!」
その声を聞きながら、モチカは震える手で胸元を押さえた。
キューブはやっぱり欠けていた。
でも今は、はっきり分かる。
欠けたんじゃない。
あれは。
自分で、捨てたんだ。
第4話「欠けた意味」②
アヤメに肩を支えられながら、モチカはしばらく動けなかった。
息が乱れている。
胸の奥がひどくざわついていた。
回らないはずのキューブそのものが揺れているわけではない。
ただ、その欠けた場所に風が吹き込むみたいに、記憶の残響が何度も胸の内側を撫でていく。
「今、何があったの」
アヤメの声は慎重だった。
モチカはすぐには答えられない。
喉が乾いていたし、何より、自分で見たものをまだうまく言葉にできなかった。
「……思い出した」
「何を」
「欠けた理由」
それだけ言うと、アヤメの表情が強張る。
モチカは床へ視線を落とした。
砕けた氷の破片の中に、朝の光が細かく散っている。
それを見ていると、さっきの白い部屋がまた脳裏をよぎった。
幼い自分。
誰かの背中。
届きそうで届かなかった手。
そして、自分で剥がした一面。
「私のキューブ……最初から壊れてたんじゃなかった」
ぽつり、と言う。
「自分で捨てた」
アヤメが息を呑む気配がした。
「そんなこと、できるの」
「普通はできないと思う」
「でも、あなたはやった」
「たぶん」
曖昧な返しになったのは、まだ断言するのが怖かったからだ。
けれど、見た。
確かに見た。
自分の指が自分のキューブへ触れて、一面を剥がした瞬間を。
あれが幻覚や夢じゃないことくらい、自分の中に残った痛みが教えている。
「どうして」
アヤメの問いは短かった。
モチカはすぐには答えられない。
どうして。
その理由こそ、いちばん深い場所に沈んでいる気がした。
けれど、完全に分からないわけじゃなかった。
記憶の断片に残っていた言葉がある。
これがあると、きっと、ぜんぶ壊れる。
あの時の自分は、そう言っていた。
「誰かと……繋がってたんだと思う」
やっと絞り出す。
「すごく強く。たぶん、今まででいちばん」
言葉にした瞬間、胸の奥がまた痛んだ。
顔は思い出せない。
名前も分からない。
なのに、その誰かを失った感覚だけは妙に生々しい。
思い出せないくせに、喪失だけが残っているのが、かえって苦しかった。
「その繋がりが壊れた?」
「壊した、のかも」
モチカは自嘲するみたいに小さく息を吐いた。
「たぶん怖くなったんだと思う。繋がってると、その相手の痛みも自分に入ってくるから。相手が壊れたら、たぶん自分も壊れる。だから、その元を捨てた」
アヤメは何も言わない。
否定も同情もされない静けさが、今は少しだけありがたかった。
モチカは続ける。
「私、ずっと“変われない”って思ってた」
「うん」
「でも違ったのかも。変われないんじゃなくて、変わるより先に、繋がるための何かを自分で切った」
口にしてみると、その言葉は思ったよりずっと重かった。
自分は被害者みたいな顔をしていたのかもしれない。
欠けているのは生まれつきで、止まっているのはどうしようもないことで、追われるのも全部そのせいだと。
でも実際には、自分で選んだのだ。
あの時、自分の一面を捨てた。
理由がどれだけ切実でも、その事実は消えない。
「……責めたい?」
気づいたら、そんな言葉が口をついていた。
アヤメが目を瞬く。
「誰を」
「私を」
「なんで」
「面倒な元凶がだいたい私だから」
アヤメは少しだけ黙って、それから呆れたみたいに言った。
「そういうところ、ほんと雑」
「褒めてる?」
「全然」
けれど、その声は少しやわらかかった。
アヤメはフェンスに寄りかかるようにして、遠くの街を見る。
「自分で捨てたとしても、その時そうするしかなかったんでしょ」
「……たぶんね」
「じゃあ今それを後ろから殴っても意味ない」
淡々とした言い方だった。
でも、妙に胸に残る。
「大事なのは、その欠けた意味を今どうするかでしょ」
その一言に、モチカは顔を上げた。
欠けた意味。
言葉にされると、それはただの傷じゃなく、何かの選択の痕に思えた。
完全になることを拒んだ跡。
繋がりを失うくらいなら、自分の一部を捨てる方を選んだ跡。
そこまで考えた時、朝の静けさを切り裂くように、低い振動音が足元から響いた。
びくり、と床が震える。
アヤメがすぐに顔を上げる。
「来る」
「早いね」
「機関は立て直しだけは速い」
冗談みたいに返したが、モチカの声も少し硬かった。
次の瞬間、配送センターの下層階から、鏡面を擦り合わせるみたいな嫌な音が響き始める。
ひとつやふたつじゃない。
複数。かなりの数だ。
アヤメの表情が険しくなる。
「これ、通常部隊じゃない」
「分かるの」
「整律波が強すぎる」
言葉と同時に、屋上の中央へ薄い光の円が広がった。
鏡の紋様だ。
転送陣みたいに幾何学模様が重なり、そこから冷たい銀光が噴き上がる。
モチカは即座に立ち上がろうとしたが、まだ肩と脚が痛む。
餅も完全には戻っていない。
掌に呼び出してみると、白い粘りは出るものの、どこか不安定に脈打っていた。
それでもゼロじゃない。
やるしかない。
光の円の中心に、人影が現れる。
ひとりではない。
前に立つのは、トウカだった。
その後ろに黒制服の部隊が六人。
そしてさらに中央、誰より静かに立っていたひとりを見た瞬間、アヤメの顔色が変わった。
「……室長補佐」
その呟きに、モチカは目を細める。
現れたのは男だった。
年齢は三十前後だろうか。
黒髪をきっちりと撫でつけ、表情にはひどく整った静けさがある。
けれど、その静けさはトウカの冷たさとは違った。
もっと奥に、何かを計算し続けている気配がある。
胸元のキューブは、恐ろしく整っていた。
揃っている、というより、もはや歪みそのものが存在しないような光。
「第六整律室補佐、真庭レイジ」
男は穏やかな声で名乗った。
「白玉モチカ。ようやく会えた」
その言い方に、モチカの背筋が冷える。
追ってきた敵の声じゃない。
ずっと前から待っていたものを確認するみたいな声だった。
「あなたの欠損には、ずっと興味があった」
レイジはそう言って、モチカの胸元をまっすぐ見た。
「欠けた一面は、事故じゃない。意図的な切除だ」
モチカの呼吸がわずかに止まる。
知っている。
この男は、知っている。
「やはり、あなたは“あの時”の生き残りだった」
朝の光の中で、その言葉だけがやけに冷たく落ちた。
第4話「欠けた意味」③
「あの時、って何」
モチカの声は、自分で思っていたより平たかった。
驚いていないわけじゃない。
むしろ逆で、驚きすぎて感情の置き場が見つからなかった。
胸の奥にいろんなものが刺さっているのに、自分のキューブは相変わらず動かない。だから全部、そのままの形で居座るしかない。
レイジはわずかに目を細めた。
笑っているようにも見えたが、温度はまるでなかった。
「知らないままここまで来たんだね。なら、あなたは本当に運が悪い」
「質問に答えて」
「答えるとも」
レイジは一歩前へ出る。
背後の部隊が同時に位置をずらし、屋上を半円状に囲んだ。
動きに無駄がない。
だが、トウカの時のような無機質な統一とは少し違う。全員がレイジの意図を先回りして動いている。
命令を待つというより、最初から思考の流れを共有しているみたいな不気味さだった。
「白玉モチカ。あなたは十年前、機関の旧研究区画で保護された特異個体だ」
その一言で、胸の奥が重く鳴った。
旧研究区画。
知らない言葉のはずなのに、どこかで引っかかる。
白い部屋。
ぼやけた背中。
届かなかった手。
「そこである実験が行われていた。心のキューブに生じる“関係性の共鳴”を、人為的に拡張する試みだ」
アヤメの表情が変わる。
「そんな計画、記録にない」
「表に出るわけがないだろう」
レイジは当然みたいに返した。
「整律以前の技術は、失敗例として処理された。特に“餅”に関する研究はね」
モチカの指先に、ぬるりと白が滲む。
無意識だった。
警戒か、怒りか、その両方かもしれない。
「餅は“間”に干渉する。つまり、人と人の心の境界だけじゃなく、未分化のキューブ領域にも入り込める可能性があった」
レイジの目が、ひどく静かに光る。
「あなたはその実験の核だった」
「……知らない」
「そうだろうね。記憶処理が入っている」
その言葉に、モチカの喉がひりつく。
「でも、断片は戻り始めている。さっき倒れた時、見たんじゃないか」
見透かされたような言い方だった。
モチカは答えない。
答えない代わりに、レイジを睨む。
その沈黙だけで、向こうには十分だったらしい。
「あなたは、あるひとりの被験者と異常なレベルで共鳴した」
風が吹く。
朝の冷気とは別のものが、背筋を撫でた気がした。
あるひとり。
ぼやけた背中。
優しい声。
モチカは無意識に拳を握る。
「その相手のキューブは、完成に最も近い安定性を持っていた。だが同時に、あなたと繋がったことで著しく揺らいだ」
レイジの声は穏やかだった。
だからこそ、内容の冷たさが際立つ。
「共鳴は増幅した。あなたは相手の感情を流入させ、相手はあなたの欠損に引き込まれた。二つのキューブは互いの間で異常干渉を起こし、区画全体を巻き込む崩壊が発生した」
モチカの頭の奥に、ばち、と火花みたいな痛みが走る。
白い部屋が揺れる。
警報音。
割れる光。
誰かの手。
そして、幼い自分の声。
これがあると、きっと、ぜんぶ壊れる。
「……やめて」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
けれどレイジは止まらない。
「だからあなたは選んだ。自分の一面を切除し、共鳴の核を捨てた。そうすることで、それ以上の連鎖崩壊を止めたんだ」
「・・・やめてって言ってる」
「結果として、あなたは生き残った。相手は消失した」
その瞬間、世界の音が遠のいた。
消失。
たった二文字なのに、それが胸の欠けた場所へ真っすぐ落ちた。
思い出せない顔。
思い出せない名前。
なのに、その人がもういないことだけは、ひどく明確だった。
「モチカ」
アヤメが何か言う。
でも、うまく聞こえない。
レイジの声だけが、やけに澄んで届いた。
「あなたが捨てた一面は、単なる感情じゃない。“共鳴の起点”だ」
レイジはモチカの胸元を指さす。
「他者と深く繋がりすぎることで生じる、関係性そのものへの感受領域。だからあなたは普通の意味では変化できない。成長の回転より先に、その核を失っているから」
モチカは息を詰めた。
変われない理由。
繋がると痛みが流れ込む理由。
餅だけが使える理由。
全部が一本の線で結ばれていく。
自分は、変化を捨てたんじゃない。
もっと前の場所。
人と深く繋がる起点そのものを、自分で引き剥がしたのだ。
「でも、完全には捨てきれなかった」
レイジが続ける。
「だから餅が残った。繋がりの媒介だけが、歪な形で生き延びた」
その言葉に、トウカが横目でレイジを見る。
初めて聞く話ではないのだろう。だが、どこか不快そうだった。
「レイジ補佐。説明は不要です。対象は回収を優先するべきかと」
「必要だよ」
レイジはさらりと返す。
「本人が理解した方が、選ばせやすい」
その言い方に、アヤメが鋭く言う。
「何を選ばせるつもり」
レイジはようやくアヤメを見た。
そして、あまりにも自然に言った。
「決まってる。欠けた一面の再接続だ」
空気が止まる。
モチカの指先が、かすかに震えた。
「……再接続?」
「そう。旧研究区画の崩壊で失われたはずだったが、最近になって残滓の座標が見つかった。あなたの欠損面は、完全に消えたわけじゃない。まだ機関の深層に保管されている」
レイジの口調は穏やかなままだ。
まるで忘れ物を返す話でもしているみたいに。
「取り戻せば、あなたのキューブは六面へ戻る。回転も再開する。変化できるようになる。痛みも感情流入も、今よりずっと正常に制御できるだろう」
それは、ずっと欲しかったもののはずだった。
変われること。
普通みたいに感情を回せること。
止まったままじゃなくなること。
それなのに、モチカの胸には別の冷たさが広がっていく。
「条件がある」
アヤメが先に言った。
レイジは小さく笑った。
「察しがいいね」
「何」
「再接続には、餅の起源領域を完全に管理下へ置く必要がある。つまり白玉モチカ本人の拘束と、能力の恒久封印」
アヤメの表情が険しくなる。
「それじゃ戻す意味がない」
「あるさ」
レイジは即答した。
「不安定な媒介を排し、正常な六面体として再構成する。要するに、彼女を“完成”へ近づける」
モチカは黙っていた。
完成。
その言葉だけは、妙にはっきり胸に刺さった。
普通になれる。
変われる。
でもその代わり、餅を失う。
繋がりに入り込むあの力を失う。
それはつまり。
今の自分を成り立たせているものの半分以上を、消すってことじゃないのか。
レイジが一歩近づく。
「あなたはもう知っているはずだ。欠けているままでは、また誰かを壊す」
モチカの呼吸が浅くなる。
「十年前みたいにね」
その一言が、いちばん深く刺さった。
白い部屋。
届かなかった手。
消えた誰か。
あの痛みが本物なら、自分は確かに一度、誰かとの繋がりで全部を壊しかけたのだ。
だったら。
自分が変われる代わりに、もう誰とも深く繋がれなくなる方が正しいのか。
朝の光の中で、欠けた胸元だけがやけに冷たかった。
第4話「欠けた意味」④
朝の風が、屋上の上を低く流れていった。
誰もすぐには動かなかった。
トウカたち機関の部隊は、命令ひとつで飛びかかれる間合いにいる。
アヤメはモチカの半歩前で、いつでも鏡片を展開できるよう肩に力を入れている。
レイジだけが、妙に穏やかな顔で待っていた。
答えを急かすでもなく、ただそこに立っている。
まるで、モチカがどちらを選ぶか最初から分かっているみたいに。
「……戻せば」
モチカはゆっくり口を開いた。
「私のキューブ、ちゃんと回るようになるんだ」
「なる」
レイジは即答する。
「欠損面が再接続されれば、停止した回転は再開する。感情の偏りも緩和される。過剰な流入も収まり、対人干渉の暴走も大幅に減るだろう」
「普通になれるってこと」
「普通以上かもしれない」
その返事は、ひどく整っていた。
迷いも、躊躇も、慰めもない。
ただ最適解を提示するみたいな声音。
モチカは胸元を押さえる。
ここにずっとあった欠けた感覚。
みんなが当たり前にできることを、自分だけできない苦しさ。
恐怖を逃がせず、怒りも理性も同じ場所に積もっていく不自由さ。
変わりたいのに変われない、あの鈍い閉塞。
それがなくなる。
止まったままじゃなくなる。
そう考えた瞬間、胸の奥で小さく何かが揺れた。
欲しい、と思った。
思ってしまった。
それはきっと、ずっと前から願っていたことだった。
「モチカ」
アヤメが低く呼ぶ。
その声に、モチカはわずかに顔を向けた。
アヤメはレイジを睨んだまま言う。
「そんな顔しないで」
「どんな顔」
「置いていかれそうな顔」
思わず、息が止まった。
自分では気づいていなかった。
でも言われた瞬間、分かってしまう。
今、自分はたしかに揺れている。
戻れるかもしれない場所へ、手を伸ばしかけている。
変われるかもしれない未来へ、少しだけ傾いている。
レイジは静かに続ける。
「白玉モチカ。あなたは勘違いしている。餅は本質じゃない。欠損の副産物だ。歪んだまま残った残滓にすぎない」
「副産物……」
「そうだ。あなたが本来持つべきものは、六面のキューブだ。均衡の取れた回転だ。餅のような不安定な媒介ではない」
モチカは掌を見た。
そこには、いつの間にか小さな餅が滲んでいた。
白くて、柔らかくて、少し不格好な塊。
綺麗でも、整ってもいない。
でもこの力で、アヤメに触れた。
この力で、トウカの凍結に抗った。
この力があったから、誰かの痛みを知ってしまった。
重くて、痛くて、厄介で、ろくでもない力。
けれど、それをただの残りかすだと言われると、胸の奥で妙に熱いものが滲んだ。
「違う」
小さく言う。
レイジが眉ひとつ動かさず見る。
モチカはもう一度、今度は少しだけはっきり言った。
「違うよ」
「何が」
「餅は、残りかすじゃない」
掌の白を、ぎゅっと握る。
「私はたしかに欠けてる。止まってる。普通じゃない。たぶん、すごく面倒な壊れ方もしてる」
言いながら、自分でその通りだと思った。
反論しようのない欠陥だ。
変われない。
流れ込みすぎる。
ひとりじゃ前に進みにくい。
敵から見れば危険個体そのものだろう。
でも。
「それでも、これで誰かに届いた」
モチカはレイジを見返す。
「これでしか届かなかったものがある」
アヤメがわずかに息を呑む気配がした。
レイジはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を傾げた。
「感情論だね」
「そうかも」
「再現性がない。危うい。いつかまた破綻する」
「するかもね」
モチカは自分でも驚くくらい、静かに言えた。
「でも、だから消していいとは思わない」
その瞬間、レイジの穏やかな目の奥に、初めてわずかな硬さが走った。
「十年前のことを忘れたのか」
「忘れてない」
忘れていないどころか、今も胸の奥でひどく痛んでいる。
顔も名前も思い出せない誰か。
自分のせいで消えたかもしれない誰か。
その喪失は、たぶんこれから先も消えない。
モチカは息を吸い、吐いた。
「だから怖いよ」
正直に言う。
「また誰かを壊すかもしれないって思うと、普通になれるならその方がいいのかもって、ちゃんと思った」
アヤメがちらりとこちらを見る。
止めない。
ただ、聞いている。
「でも」
モチカは自分の胸元に手を当てた。
欠けた場所。
冷たい風が吹き込むような場所。
十年前、自分で捨てた場所。
「私はあの時、たぶん“完全になる”方を拒んだんだと思う」
白い部屋の記憶が、かすかによみがえる。
壊れるのが怖かった。
失うのが怖かった。
それでも、全部を均して何も感じなくなる方は選ばなかった。
その結果が、この欠損だ。
「自分で捨てたくせに、今さら都合いいかもしれないけど」
モチカは口元を少しだけ歪める。
「それでも私は、あの時の自分が残した選び方を、なかったことにしたくない」
沈黙が落ちる。
レイジの目から温度が消えた。
「つまり、提案を断ると」
「うん」
「自分の欠損を肯定するわけだ」
「欠損そのものは、まだ好きじゃない」
モチカは即答した。
「不便だし、痛いし、最悪だから」
アヤメが横で、ほんの少しだけ口元を緩めた気配がする。
「でも、欠けたまま繋がろうとした自分は、否定したくない」
それが今、出せる精いっぱいの答えだった。
レイジは数秒、黙っていた。
それから静かに息を吐く。
「残念だ」
その声には、もう対話の余地がなかった。
「ならば予定通り、拘束の上で再接続する」
同時に、周囲の部隊が一斉に動く。
トウカの足元から霜が走り、後衛の隊員たちのキューブが発光する。
鏡槍、拘束環、整律膜。複数の干渉が同時に屋上を覆った。
アヤメが叫ぶ。
「来る!」
モチカは白い餅を両手に広げた。
まだ完全じゃない。傷も痛む。
相手は多い。
それでも、もう迷いはなかった。
「…アヤメ」
「何」
「私、普通にはならないかも」
「…知ってる」
「ひどい」
「でも、そっちの方が見失わない…!」
その返答に、モチカは一瞬だけ目を細める。
次の瞬間、霜が足元まで迫った。
モチカは低く腰を落とす。
「……じゃあ、欠けたまま行く」
白い餅が、朝の光の中で静かに脈打った。
第4話「欠けた意味」⑤
合図なんてなかった。
ただ、朝の光を切り裂くように、機関の干渉が一斉に降ってきた。
トウカの霜が床を這い、左右の隊員が鏡環を放つ。正面では整律膜が何重にも重なり、逃げ道そのものを平らに潰そうとしてくる。
どれもこれも、揃いきった意志の形だった。
モチカはその中心で、一歩だけ前へ出た。
怖くないわけがない。
相手は多い。
傷は痛む。
自分のキューブは相変わらず回らない。
普通の人みたいに、恐怖をどこかへ逃がすこともできない。
だから怖さは、怖さのまま胸にある。
それでも、もういいと思った。
欠けているなら、欠けたままで。
止まっているなら、止まったままで。
それでも選べることがあると、今は知っている。
「アヤメ、右お願い」
「左は任せて」
短い言葉だけで十分だった。
モチカが餅を床へ叩きつける。
白い粘りが薄く広がり、迫る鏡環をわずかに鈍らせる。
完全には止められない。
だが、その一拍があればいい。
アヤメの鏡片が右から走る。
整っていない、揺れた軌道。
でも今のモチカには、その揺れがよく分かった。
怖さも、決意も、そのまま乗った刃だからだ。
右の拘束環が弾かれる。
モチカはその隙間へ滑り込み、左から迫る整律膜へ半融解の餅を叩き込んだ。
柔らかさと硬さが混ざった白が膜の表面へ貼りつき、ぴし、とひびが走る。
「トウカ!」
レイジの声。
次の瞬間、霜がさらに濃くなる。
屋上の温度が落ち、モチカの足首まで白が這い上がってきた。
だが、もう前みたいには止まらない。
モチカは自分の肩の傷へ、強く手を当てた。
痛みが走る。
熱が滲む。
その熱を通して餅がわずかに柔らかくなる。
通すだけでいい。
繋ぐだけでいい。
完璧に勝たなくていい。
「私は、揃わない」
モチカは低く言った。
レイジが目を細める。
「だからこそ」
白い餅が、床から、腕から、アヤメの足元へと細い線で走る。
それは武器というより、ただの不格好な接続だった。
けれどその瞬間、アヤメが息を呑む。
「来る」
「うん」
呼吸が重なる。
アヤメの鏡片が、モチカの踏み込みとぴたり噛み合った。
左から牽制、右から攪乱、正面に生まれた一瞬の空白。
そこへモチカは一直線に飛び込む。
狙うのはレイジだ。
レイジの前に整律膜が三層、四層、五層と立ち上がる。
だがモチカは止まらない。
ひとつ目へ餅を押し当てる。
ひびが入る。
ふたつ目へ体当たりする。
砕ける。
みっつ目の向こうで、レイジの瞳が初めて大きく揺れた。
「なぜそこまで」
その問いに、モチカは迷わず答えた。
「欠けてるから、届きたいんだよ」
最後の膜を抜ける。
そのまま、レイジの胸元へ掌を叩き込んだ。
べちゃり、と白い音がした。
餅がキューブへ貼りつく。
流れ込んでくるのは、冷たい計算だけじゃなかった。
均されきった理性の底に、ひどく小さく、けれど確かに残っていたもの。
恐れだ。
乱れることへの恐れ。
繋がることへの恐れ。
完全でなくなることへの恐れ。
「……あんたも同じじゃん」
モチカが掠れた声で言う。
レイジの表情が崩れる。
その一瞬、アヤメの鏡片が飛んだ。
餅の貼りついたキューブの縁へ、鋭く突き刺さる。
ぱきん、と澄んだ音。
揃いすぎていたレイジのキューブ表層に、初めて明確なひびが入った。
同時に、部隊全体の連携が乱れる。
整律膜が霧散し、鏡環が軌道を失い、トウカの霜も一拍だけ薄れた。
レイジは胸元を押さえたまま、後ろへ下がる。
その顔から、あの余裕は消えていた。
「…撤収だ」
短い命令だった。
トウカが何か言いかけるが、結局は従う。
部隊が一斉に後退し、転送の鏡紋へ吸い込まれるように消えていく。
最後まで、レイジだけはモチカを見ていた。
「欠けた意味を肯定したこと、後悔する日が来る」
モチカは荒く息を吐きながら、それを見返す。
「ええ、来るかもね」
正直に言う。
「でも、その時もたぶん、誰かと一緒の方を選ぶ」
レイジの姿が消える。
屋上に静けさが戻った。
モチカはその場にへたり込んだ。
全身が痛い。
胸も苦しい。
でも、欠けた場所に吹き込む風は、さっきまでより少しだけ冷たくなかった。
アヤメが隣に座る。
「大丈夫じゃなさそう」
「大丈夫じゃない」
「知ってる」
少しだけ沈黙が落ちる。
朝日が高くなり、砕けた鏡片と餅の欠片を淡く照らした。
モチカは胸元へ手を当てる。
キューブは相変わらず欠けたまま。
回りもしない。
でも、今なら少しだけ分かる。
この欠けは、ただ足りない印じゃない。
完全になることより、繋がりを選んだ痕だ。
痛みをなくすことより、失っても誰かに届こうとした痕だ。
「……変なの」
「何が」
「欠けてるのに、前よりマシ」
アヤメが小さく笑う。
「それ、たぶん答えに近い」
モチカは空を見上げた。
高く、白い朝の空だった。
思い出せない顔はまだ戻らない。
消えた誰かの名前も分からない。
自分の罪も、痛みも、これから消えることはないんだろうと思う。
それでも。
変われないままでも、進める。
欠けたままでも、繋がれる。
そう思えたことだけは、確かだった。
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