第3話「断たれる繋がり」

第3話「断たれる繋がり」①


夜明け前の空は、薄い硝子みたいな色をしていた。


ビル群の隙間を渡る風に乗って、モチカとアヤメは街の外れまで逃げてきていた。

高架の下を抜け、人気のない倉庫街を越え、今は使われなくなった配送センターの屋上に身を潜めている。


空調設備は止まり、コンクリートは夜気を吸って冷たい。

息をするたび、喉の奥が少し痛んだ。


「ここなら少しは……」


言いかけて、モチカは壁にもたれた。

脚に力が入らない。

頭の奥が鈍く重い。

昨日から何度も他人の感情を受け止め続けたせいで、自分の中がまだうまく静まっていなかった。

アヤメが少し離れた場所からそれを見る。


「大丈夫じゃなさそう」


「平気」


「それ、平気な人の顔じゃない」


「じゃあ、微妙」


「正直でよろしい」


少し前までなら、こんな会話はなかったはずだった。

敵として向かい合っていた相手が、今は同じ屋上で同じ疲れ方をしている。

それがまだ少し不思議で、少しだけ落ち着かない。


モチカは手のひらを見た。

白い餅が、とろりと小さく滲み出る。

生み出そうと思えば出せる。

形も変えられる。昨日までと同じように。


けれど、触れた時に流れ込んできた感情の残りが、まだ肌の内側にこびりついていた。

アヤメの迷い。

幹部の怒り。

名も知らない隊員の恐怖。

全部、まだ少しずつ残っている。


「……ほんと、効率悪い能力」


「今さら?」


「今さら」


アヤメはフェンス越しに遠くを見た。

朝の街はまだ眠り切っていない。

どこかでトラックのエンジン音が鳴り、遠い道路を走るライトが細く流れていく。

何も知らない人たちの生活が、あの向こうで普通に続いている。


「機関は、すぐ来る」


アヤメが低く言った。


「昨日の撤収は、負けたからじゃない。接触を嫌っただけ。あなたの餅は、あの人たちにとって想定以上に危険だって分かったから」


「それ、褒めてる?」


「脅威認定の意味で」


「褒め言葉じゃない」


返しながら、モチカは小さく息を吐いた。


脅威。危険個体。欠損。未完成。

そういう言葉には慣れているつもりだった。


けれど、慣れたから平気になるわけでもない。

骨の近くに刺さった棘みたいに、聞くたび少しだけ疼く。

アヤメがこちらを見る。


「でも、たぶん今日は違う」


「何が」


「追い詰め方」


その言い方に、モチカは目を細めた。


アヤメは少し迷ってから続ける。


「昨日までは、あなたを捕まえるために接触を前提に動いてた。でも今は違う。あなたの餅が心に干渉するなら、そもそも繋がらせなければいい。近づかせなければいい。触れさせなければいい」


「それ、かなり嫌な予告」


「私もそう思う」


言葉が落ちた、その時だった。

屋上の床一面に、白い霜のようなものが走った。


「……っ!」


モチカは反射的に飛び退く。


けれど遅い。

自分の足元に垂れていた餅が、霜に触れた瞬間、ぱきりと硬質な音を立てた。

柔らかいはずの白が一瞬で凍りつき、硝子細工みたいな鈍い光を帯びる。


「何、これ」


アヤメの声が強張る。


次の瞬間、屋上の中央に、鏡面の柱が音もなく立ち上がった。

その前に立っていたのは、ひとりの女だった。


黒い制服。

銀章。

長い外套の縁まで、無駄なく整っている。

年齢は二十代半ばくらいだろうか。淡い灰色の髪を後ろで束ね、感情の温度を感じさせない目でこちらを見ていた。


胸元のキューブは異様だった。


揃っている、というより、凍っている。

面の向きが一切揺れず、冷たい静止の光だけがそこにあった。


「カガミ機関、第六整律室室長」

女は淡々と名乗る。


「氷鏡トウカ。白玉モチカ、及び汚染個体・四方鏡アヤメを回収する」


その声が落ちるのと同時に、屋上を走る霜が一気に広がった。

モチカはとっさに餅を射出しようとした。


白い帯が掌から伸びる。

だが、空中で霜に触れた瞬間、その動きが止まる。

凍る。固まる。伸びることも、絡みつくこともできないまま、白い彫刻みたいに硬直して砕け散った。

モチカの目が見開かれる。


「……うそ」


「嘘じゃない」


トウカは静かに言う。


「餅は“間”に入り込む媒介。ならば、その間ごと凍結すればいい」


また一歩、彼女が前へ出る。

床を這う霜が、モチカたちの足元まで迫る。


「繋がりは揺らぎを生む」


トウカの声には、怒りも侮蔑もなかった。

ただ事実を述べる冷たさだけがある。


「だから凍らせる。止める。断つ。それが最も美しい」


モチカは歯を食いしばった。

掌に力を込める。

もう一度、餅を出す。


だが結果は同じだった。

生まれたそばから凍りつき、形を成す前に砕ける。

繋ぐための力が、奪われる。

その感覚は、思っていたよりずっと重かった。


ただ武器を失うのとは違う。

誰かへ届くための道そのものを、目の前で塞がれるみたいな感覚だった。


「モチカ!」


アヤメが鏡片を放つ。

だがトウカは片手を上げるだけで、その軌道上に薄い氷鏡を出現させた。

鏡片はそこに触れた瞬間、白く曇り、力を失って床へ落ちる。


「無駄」


トウカは言う。


「凍結下では、干渉も反射も成立しない」


その一言が、屋上の空気をさらに冷やした。

モチカは胸の奥に手を当てる。

自分のキューブは、相変わらず回らない。

餅も凍る。

アヤメの鏡も通じない。


繋がる手段が、ない。


その瞬間、モチカは初めてはっきり理解した。


これは不利なんてものじゃない。

完全な孤立だ。



第3話「断たれる繋がり」②


トウカがもう一歩踏み出す。

それだけで、屋上の温度がさらに落ちた気がした。


霜は床のひび割れをなぞり、フェンスの網目を白く染め、モチカの足首近くまで静かに這い寄ってくる。

派手さはない。

怒号もない。

なのに、今まで戦ってきた誰よりも息苦しかった。


「下がって」


モチカが小さく言う。


「それ、今さら」


アヤメは低く返した。


「ここで下がったら、私は本当に・・・一人になる」


その言葉に、モチカは一瞬だけ目を伏せる。


そうだ。

昨日までの自分なら、一人の方が楽だと言えたかもしれない。

誰も巻き込まないで済むし、誰の感情も流れ込んでこない。

傷つくのは自分だけで済む。


でも、もうその考え方だけでは立てないところまで来ている。

トウカは二人のやり取りに表情ひとつ変えなかった。


「感傷は判断を鈍らせる」


「便利だね、その言い方」


モチカは睨み返す。


「何でも切り捨てられる」


「切り捨てているのではない」


トウカの声は冷たいままだ。


「不要な揺らぎを停止しているだけ。人は感情を持つから迷う。迷うから誤る。誤るから傷つけ合う。ならば、その途中を凍らせればいい」


「そんなの」


アヤメが息を呑む。


「生きてるって言わない」


トウカの視線が初めてアヤメへ向く。


そこには怒りも失望もなく、ただ検分するような静かな温度だけがあった。


「四方鏡アヤメ。やはり汚染が進んでいる」


「その言い方、やめて」


「事実だ」


「違う!」


アヤメの声が屋上に響く。

鏡片がいくつも展開される。

まだ不安定な光。

揺れがある。

けれど、その揺れこそが今の彼女だった。


「・・・私は・・・壊れてない!」

叫ぶように言って、アヤメは鏡片を放った。


鋭い光が三方向からトウカへ走る。

だが次の瞬間、そのすべてが空中で白く凍り、音もなく砕けた。


トウカは腕すら動かしていない。


「感情に任せた干渉は脆い」


静かに告げる。


「熱を持つほど、凍結しやすい」


その言葉と同時に、アヤメの足元に氷鏡が立ち上がった。


反応が遅れる。

鏡板ではなく、檻のような立ち上がり方。

アヤメはとっさに身をひねったが、避けきれない。

右足が氷の縁に触れた瞬間、そこから白い冷気が這い上がる。


「っ……!」


アヤメが膝をつく。

制服の裾が凍りつき、足の動きが一瞬で鈍る。


「アヤメ!」


モチカは反射で手を伸ばした。

餅を出そうとして、止まる。

いや、止められる。

掌から生まれた白は、トウカの凍結領域に触れる前にぱきぱきと硬化し、指のあいだから崩れ落ちた。


届かない。


その事実が、胸の真ん中へ重く落ちた。

今までなら、餅があれば何かできた。

捕まえる。

引く。固定する。

せめて触れるところまでは行けた。


けれど今は、その最初の一歩すら許されない。


「……来ないの?」


トウカが言う。


「繋がりを誇るわりに、ずいぶん無力」


モチカは奥歯を噛みしめた。


怒りが湧く。

悔しさもある。

けれど胸の奥にあるキューブは、やはりぴくりとも動かない。

普通ならここで感情を切り替えられる。

怒りを推進力にして踏み込める。

理性で恐怖を押し込めることもできる。


でもモチカにはそれができない。


怖いものは怖いまま。

悔しいものは悔しいまま。

無力感は無力感のまま、胸の真ん中に居座る。


「ほんと……最悪」


掠れた声で呟く。


「ようやく理解した?」


トウカが一歩進む。


「餅は不安定さの象徴だ。熱を持ち、形を変え、余計なものを繋ぎすぎる。だから凍らせる。揺らぎごと止める。それで終わる」


「終わらない!」


アヤメが顔を上げる。

足を凍らせたまま、それでもトウカを睨んでいた。

痛みで眉が歪んでいる。

怖いはずだ。それでも、その目は折れていない。


モチカはその横顔を見て、胸の奥で何かが疼くのを感じた。

昨日まで、この子は敵だった。

整えられて、揃えられて、感情を押し込める側にいた。

それなのに今は、凍りついた足で立とうとしている。

自分の意思で、揺れたまま。


なのに、私は届かない。

その事実が、何より苦しかった。


トウカが右手を上げる。

白い霜が一点に集まり、細長い氷の槍を形作る。

狙いはモチカではない。

動けなくなったアヤメだ。


「不安定要素は先に除去する」


その宣告に、モチカの呼吸が止まりかけた。

考えるより先に前へ出る。

だが餅は凍る。走っても間に合わない。


どうしても届かない。


孤立。

完全な孤立。


昨日までの自分なら、それでも諦めるしかないと思ったかもしれない。

一人で生きるしかないと、いつものように飲み込んだかもしれない。


けれど今は、違った。


届きたい。

助けたい。

繋がりたい。


その気持ちだけが、胸の中で痛いほどはっきりしていた。


氷槍が放たれる直前、モチカは唇を噛んだ。


血の味が広がる。

その痛みの中で、不意に思い出す。

昨日、アヤメの手を引いた感触。

男のキューブに触れた時の、押し潰されそうな怒り。

誰かの痛みを知ってしまって、もう無関係ではいられなくなったあの感覚。

一人では前に進めない。


その言葉が、今さらみたいに胸の中で重く響いた。

氷槍が、放たれる。



第3話「断たれる繋がり」③


氷槍が放たれる。

白く、細く、音もなく一直線に。


狙いはアヤメの胸元。

凍りついた足では避けきれない角度だった。

モチカは反射で駆けた。


間に合わないと分かっていても、足が止まらなかった。

餅は使えない。

出しても凍る。

伸ばしても届かない。

なら、自分が行くしかない。


「モチカ!」


アヤメの叫びが聞こえる。

その瞬間、モチカはアヤメの前へ滑り込んだ。

氷槍が肩を貫く。

鋭い痛みが骨まで走り、息が潰れた。

熱いのか冷たいのか分からない感覚が一気に広がる。

膝が折れそうになるのを、どうにか踏みとどまる。


「……っ、ぅ……!」


刺さった場所から冷気が染み込んでくる。

皮膚だけじゃない。

体の中の温度そのものを奪われるみたいな嫌な冷たさだった。


アヤメの目が見開かれている。


「なんで……!」


「なんで、って」


モチカは荒い息を吐きながら、少しだけ口元を歪めた。


「放っておく方が、後味悪いから」


強がりだった。

本当はそんな軽いものじゃない。

放っておけないと思ってしまった。

繋がってしまったから。

相手の痛みも、怖さも、知ってしまったから。


トウカはその様子を見ても表情を変えなかった。


「非合理」


「そっちの基準・・・もう飽きた・・・!」


モチカは肩に刺さった氷槍を掴む。

砕こうとしても、表面が白く凍りついていてうまく力が入らない。

冷気が指先まで這い上がってくる。


「自分の身を削ってまで他者を庇う」


トウカの声は淡い。


「繋がりとは、やはり欠陥だ。判断を鈍らせる」


「違う」


アヤメが言った。

まだ足は凍ったままだ。

立ち上がれてもいない。

それでも声だけは、さっきよりはっきりしていた。


「それは鈍ったんじゃない」


アヤメはトウカを睨む。


「選んだの」


その言葉が、モチカの胸に落ちた。

選んだ。

たしかにそうだった。

怖くても、痛くても、合理的じゃなくても、今、自分はここに立つ方を選んだ。

誰かを庇う方を、手を伸ばす方を、勝手にじゃなく自分で選んだ。


なのに餅は凍っている。


繋ぐための手段は断たれたまま。

それが悔しくて、情けなくて、どうしようもなかった。


「あなたはいつもそう」


トウカがアヤメに視線を向ける。


「揺らぎを美化する。だが揺らぎは不完全でしかない。不完全は、いつか壊れる」


「壊れるかもしれない」


アヤメは息を整えながら返す。


「でも、止まってるだけよりはいい」


トウカの目が、ほんのわずかに細くなる。

初めて、冷たさの奥に何かが揺れた気がした。

モチカは肩の痛みに顔をしかめながら、床へ視線を落とす。


霜。

凍結領域。

餅はそれに触れると硬化する。


でも、さっき刺さった氷槍の根元だけ、ほんの少し曇り方が違っていた。

自分の体温で、わずかに融けている。

その瞬間、頭の奥で何かが繋がった。


餅は変化と維持を同時に成立させる存在。

凍っても終わりじゃない。

形を保ったまま、変わり続けるものだ。


「……そうか」


小さく呟く。


「モチカ?」


アヤメが訝しげに呼ぶ。

モチカは肩に刺さった氷槍を逆に押さえ込み、自分の熱をそこへ集中させた。

じわ、と嫌な痛みが走る。冷たさと熱さがぶつかって、腕全体が痺れる。


「何をしている」


トウカが初めて問いを含んだ声を出す。


「試してる」


モチカは唇の端を少しだけ上げた。


「餅が凍るなら、溶かせばいい」


馬鹿みたいな理屈だった。

でも他にない。

誰とも繋がれないなら、自分の中に残った熱で道を作るしかない。

モチカは空いている左手を強く握る。

掌から、ほんのわずかに白いものが滲んだ。

いつもの柔らかな餅じゃない。半分凍って、半分だけ粘っている不格好な白。

けれどゼロじゃない。


出た。


その事実に、モチカの目が細くなる。


「アヤメ」


「……何」


「少しだけ時間ちょうだい」


「それ、嫌な前振り」


「でも必要」


アヤメは一瞬だけ黙り、すぐに頷いた。


「分かった。稼ぐ」


凍った足を無理やり引きずるようにして、彼女が前へ出る。

鏡片を一枚、二枚、三枚。

まだ不安定な光。

それでも確かにトウカへの牽制になる。


モチカはその背中を見ながら、半凍結の餅をじっと見下ろした。

一人では前に進めない。


でも、一人じゃないから、今この数秒をもらえた。


だったら。


ここで終わるわけにはいかない。



第3話「断たれる繋がり」④


アヤメが前へ出る。

凍りついた足を引きずるたび、氷の薄皮がぱきぱきと割れた。

痛くないはずがない。

けれど彼女は止まらない。

鏡片を展開しながら、真っすぐトウカを見据えていた。


「それ以上、近づかないで」


声は震えている。


でも、逃げてはいなかった。


トウカはその姿を見て、ほんのわずかに目を細めた。


「その状態で私を止めるつもり?」


「止める」


「無理だ」


「それでも」


短い言葉と同時に、アヤメの鏡片が飛ぶ。


一直線ではない。

揺れて、散って、少しずつ角度を変えながら迫る不規則な軌道。

整えられた機関の攻撃とは真逆の、乱れた刃だった。


だがトウカは冷静に片手を上げる。


空中に薄い氷鏡が幾枚も咲くように現れ、鏡片を次々に凍らせて落としていく。

ぱりん、ぱりん、と小さな破砕音が連続する。


「揃わない干渉は脆い」


トウカが淡々と言う。


「心が乱れている限り、精度は上がらない」


「精度だけで、生きてない!」


アヤメは叫び、さらに一歩踏み込んだ。


その足元へ霜が集中する。

トウカの凍結領域が、まるで意思を持つみたいにアヤメの進路を塞いでいく。


アヤメは鏡板を足場代わりに斜めへ跳んだ。


だが、着地の瞬間をトウカは見逃さない。

細い氷の杭が床から何本も突き上がる。

アヤメは二本を避け、一本を鏡で受け、最後の一本に肩をかすめられた。


「っ……!」


よろめく。

それでも倒れない。


モチカはその背中を見ながら、半凍結の餅を両手で包み込んでいた。

白い塊はいつもみたいに素直じゃない。

冷たく硬い部分と、熱を含んだ柔らかい部分がまだらに混ざっている。

形を変えようとするとすぐ固まり、力を抜くとわずかに粘る。


扱いづらい。

最悪なくらい、不安定だ。


「でも」


モチカは小さく呟く。


「不安定だから、終わりじゃない」


餅は変化と維持を同時に成立させる。

凍結されたから終わるなら、餅は“間”なんか繋げない。止められても、その途中に留まり続けるからこそ、餅なのだ。


モチカは肩の傷に手を当てた。

氷槍の破片がまだ食い込んでいる。

その周囲だけ、体温でわずかに溶けていた。

痛みと熱が、冷気の中でせめぎ合っている。


だったら、熱のある場所から繋げればいい。

掌の餅を、肩の傷へ押し当てる。

じゅ、と小さく音がした気がした。

冷たい餅が、血と熱に触れて曇る。溶けきらない。

凍りきらない。ぐずぐずの白が、皮膚の上で形を保ちながら揺れる。


「それは悪手」


トウカが視線だけを向ける。


「自分の体温程度で凍結領域は覆せない」


「覆すんじゃない」


モチカは低く返す。


「通すだけ・・・!」


その瞬間、トウカの眉がほんの少しだけ動いた。

モチカは肩から腕へ、腕から掌へと、体温を含んだ半融解の餅を細く引いた。

綺麗な帯ではない。

千切れそうで、ぼろぼろで、見た目はひどく頼りない。


けれどゼロではない。

その細い一本が、確かに繋がっている。

アヤメがトウカの正面で鏡片を炸裂させる。

目くらましにもならない程度の散り方。

だが、それでいい。

ほんの一拍、視線を止められれば足りる。


「モチカ!今!」


声が飛ぶ。

モチカは前へ出た。

霜の上へ足を踏み込む。

靴底が白く凍る。

冷気が脛まで這い上がる。

けれど腕の中を通る半融解の餅は、ぎりぎりで生きていた。

体温に近い場所だけ、わずかに柔らかさを保っている。


トウカが初めて明確に反応する。

右手を振り、床から氷壁を立ち上げた。

進路を塞ぐ透明な壁。

だがモチカは止まらない。

左手を壁へ叩きつける。

半融解の餅が氷壁に触れた瞬間、全部は凍らなかった。

接触面の内側だけ、白く曇りながら粘る。


「……!」


トウカの目がわずかに見開かれる。


モチカはその一点に全体重をかけた。

ばき、と鈍い音。

砕けたのは壁そのものじゃない。

曇った接触点だ。

凍りきらず、溶けきらず、どちらにもなりきれなかった境目が、先に悲鳴を上げたのだ。


ひびが走る。

そこへ、アヤメの鏡片が飛び込んだ。

ひびの線をなぞるように突き刺さり、氷壁が大きく崩れる。

モチカは割れた隙間を抜けて、一気に距離を詰めた。

トウカの目の前まで。


「・・・来るな」


トウカの声が初めて低く揺れる。

周囲の霜が一斉に逆巻き、何本もの氷槍を生み出す。

モチカは息を吸った。


怖い。正直、かなり怖い。


でもその感情はどこにも逃がせない。逃がせないなら、抱えたまま行くしかない。


「逃げない」


小さく言って、モチカは掌の白を握り込む。


「・・・ここからが、もちもちタイムだ」


不格好な餅が、わずかに脈打った。



第3話「断たれる繋がり」⑤


不格好な餅が、掌の中でかすかに脈打つ。

白いのに濁っていて、柔らかいのに硬くて、今にも千切れそうだった。


いつもの餅とはまるで違う。

綺麗でもないし、扱いやすくもない。

けれど、その中途半端さが今は心強かった。

凍りきらず、溶けきらない。

止まりきらず、失われきらない。


まるで今の自分みたいだと、モチカは一瞬だけ思った。


トウカの周囲に浮かぶ氷槍が、一斉に向きを変える。

数は多い。

避け切るのは無理だ。

けれどもう、退くつもりはなかった。


「あなたは」


トウカが静かに言う。


「どうしてそこまで不完全でいられるの」


問いというより、理解できないものを見る目だった。


モチカは前を見たまま答える。


「いられるんじゃない」


足を踏み込む。


「そういうまま、進むしかないだけ」


氷槍が放たれる。

正面、左右、頭上。

白い殺意が静かに降る。


モチカは半融解の餅を腕に巻きつけ、そのまま前へ出た。

一本目を逸らす。

二本目が脇腹をかすめる。

三本目が太腿を裂く。

痛みが遅れて熱になる。


けれど止まらない。

止まれば、ここで全部終わる。

アヤメの鏡片が横から走る。

完璧じゃない。

だが十分だった。

右から迫った二本の氷槍の角度がずれ、モチカの進路にわずかな隙間が生まれる。


「行って!」


アヤメの声が飛ぶ。

モチカはその隙間へ身体をねじ込んだ。

トウカがさらに凍結領域を強める。

足元から冷気が這い上がり、掌の餅がまた硬化しかける。


でも、今度は消えなかった。

モチカはトウカの胸元を見据える。


揃っているのではなく、凍りついているキューブ。

動かないことで、乱れを拒み続けている光。


「止めるだけじゃ、終わらない」


モチカは低く呟く。


「繋がりは、断ったことにしても残るから」


そのまま掌を叩き込む。


べちゃり、と鈍い音がした。

半融解の餅がトウカの胸元へ貼りつく。

凍る。だが全部は凍らない。

モチカの熱を含んだ中心だけが、わずかに粘りを残したままキューブ表面へ食い込む。


トウカの目が初めて大きく揺れた。


「な……」


「凍っても、終わりじゃない」


モチカは歯を食いしばる。


「間にあるなら、そこからまだ繋がれる」


その瞬間、流れ込んできた。


冷たさ。

静けさ。

何も感じないように整え切った、深い深い停止の感覚。

けれど、その底にひとつだけ残っていたものを、モチカは確かに触れた。



孤独だ。



誰とも繋がらず、誰にも揺らされず、完璧に静止したままいた果てに残った、ひどく透明な孤独。


「……あんたも」


モチカの喉が震える。


「ひとりだったんだ」


トウカの呼吸が初めて乱れた。


「違う」


「違わない」


モチカは手を離さない。


苦しい。

冷たい。

頭が割れそうだ。



それでも離せない。



「全部凍らせても、なくならなかったんでしょ」


「違う!」


トウカの声が初めて大きく響く。


その瞬間、キューブの静止がぶれた。

ほんの一拍。

ほんのわずか。

でも、確かに止まりきっていた光が揺れる。


「アヤメ!」


モチカが叫ぶ。

返事より先に、アヤメの鏡片が飛んだ。

真っすぐではない。不揃いで、少し震えた軌道。

けれど今のトウカの揺れへ食い込むには、それで十分だった。

鏡片が、餅の貼りついたキューブの縁へ刺さる。

ぱきん、と音がした。

砕けたのはキューブではない。

その表面を覆っていた、凍結の層だった。


トウカが一歩よろめく。

周囲を覆っていた霜が一斉に薄れ、屋上を支配していた凍結領域が静かに後退していく。

モチカの掌の餅が、ようやく少しだけ本来の柔らかさを取り戻した。

勝負は、それで決まった。


トウカは胸元を押さえたまま、モチカを見た。


いつもの無機質な冷たさは、もうそこにない。

揺れを隠しきれない目で、ただ静かに立っている。


「……未完成、ね」


掠れた声で言う。


「こんなものに、崩されるなんて」


「崩したわけじゃない」


モチカは荒い息を整えながら返す。


「凍ってたのを、少し戻しただけ」


トウカは何も言わなかった。


やがて踵を返す。

屋上の端に薄い氷鏡が立ち上がり、その向こうへ姿が溶けるように消えていく。

撤退だった。

完全な敗北を認めたわけではない。

ただ、これ以上の接触を危険と判断したのだろう。


静けさが戻る。

モチカはその場に膝をついた。

肩も脚も痛い。

冷気の名残で指先が痺れている。

全身がひどく重かった。

少し遅れて、アヤメも隣に座り込む。


「……生きてる?」


「たぶん」


「便利な返事」


「そっちこそ」


二人でしばらく、何も言わなかった。

朝の光が少しずつ強くなって、屋上の霜を薄く溶かしていく。

モチカは掌を開いた。

そこには、ぐずぐずに崩れた餅の欠片が残っている。


綺麗じゃない。まとまりも悪い。

でも、確かに繋がった痕だった。


「一人じゃ、無理だった」


ぽつりとモチカが言う。

アヤメが横を見る。


「うん」


「餅が使えなくなった時、終わったと思った」


「私も」


「でも、終わらなかった」


モチカは欠片を見つめる。


「繋がる手段がなくなったんじゃなくて、ひとつの形を失っただけだったのかも」


アヤメは少しだけ目を細めた。


「つまり?」


「……たぶん、誰かを思い出すのも、支えられるのを受け入れるのも、繋がるってこと」


「ずいぶん素直」


「今だけかも」


「貴重」


その返しに、モチカはほんの少しだけ口元を緩めた。

自分のキューブは、やっぱり回らないままだ。


欠けたまま、止まったまま。


でも、そのことが前より少しだけ絶望じゃなくなっていた。

変われなくても、繋がることはできる。


ひとりでは進めなくても、誰かとなら前に出られる。


その事実が、まだかすかに痛みを伴いながら、胸の奥に残っていた。


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