第2話「繋がる痛み」
第2話「繋がる痛み」①
夜の街を渡る風は冷たく、屋根の上に降り立った瞬間、少女の足がふらついた。
モチカは掴んでいた手首を離し、少しだけ距離を取る。
近すぎると、相手の気配が肌の内側まで入り込んでくる気がした。
さっき触れた感情の残滓も、まだ消えていない。胸の奥で、見知らぬ悲しみが鈍く揺れていた。
「ここなら、少しは時間を稼げる」
古びた雑居ビルの屋上だった。
錆びたフェンス、止まった室外機、雨水の染みついたコンクリート。
街の光は遠く、下の喧騒だけが別の世界みたいにくぐもって聞こえる。
少女は息を整えながら、じっとモチカを見た。
その視線には警戒も混乱もあったが、さっきまでの刃のような鋭さは少しだけ薄れていた。
「どうして助けたの」
「助けたわけじゃない」
「じゃあ、何」
モチカは答えに少しだけ詰まる。
自分でも、うまく言葉にできなかった。
「……あんたをあそこに置いていくと、たぶん面倒なことになると思っただけ」
「それ、助けたって言うんじゃないの」
少女の声はかすれていた。
感情を押し殺すことに慣れていた喉が、急に別の使い方を思い出したみたいな声だった。
モチカは肩をすくめる。
「好きに解釈して」
少女は少し黙り込んだあと、胸元へ手を当てた。
制服越しに透けるキューブの光は、まだ不安定に揺れている。
さっきモチカが餅で固定した影響が残っているのだろう。整っていた面の向きが、完全には戻っていない。
「……変」
「何が」
「静かじゃない。頭の中が」
「それが普通」
モチカが即答すると、少女は眉をひそめた。
「普通が、これ?」
「…たぶんね」
正解かどうかは分からない。
でも、少なくとも何も感じないふりをしなくていい状態の方が、人間には近い気がした。
少女はフェンスのそばまで歩き、夜景を見下ろした。
背筋は伸びているのに、その立ち姿には妙な頼りなさがある。
ずっと誰かに「崩れるな」と言われ続けてきた人間ほど、ひとりになった時の立ち方が分からなくなる。
「私、任務に失敗した」
「そう」
「あなたを取り逃がして、その上……」
少女は言いよどみ、唇を噛んだ。
「乱れた」
その言葉は、自分に対する断罪みたいだった。
モチカはしばらく何も言わず、右手のひらを見下ろした。
白い餅が小さく脈打ち、指の間からとろりと滲む。相変わらず気味が悪いくらい素直な力だと思う。
「名前」
「え?」
「あんたの名前」
少女は少し驚いた顔をした。
そんなことを聞かれると思っていなかったのだろう。
「……四方鏡アヤメ」
「長い」
「あなたに言われたくない」
「私はモチカでいい」
アヤメ。
名前を知るだけで、敵の輪郭が少し変わる。
ただの追手だった存在に、急に生活の匂いが宿る。
面倒だ、とまた思う。
知らなければ、もっと楽だったかもしれない。
でも…。
「…白玉モチカ」
アヤメは確かめるように呟いた。
「あなた、本当に危険」
「褒めてる?」
「違う」
だろうね、とモチカは思ったが、声には出さなかった。
その時だった。
屋上の端、暗がりの向こうで、ぴしりと乾いた音が鳴る。
モチカの視線が鋭くなる。
空気の中に、薄い鏡膜が展開されていた。
街の光を反射して、蜘蛛の巣みたいにきらついている。
「もう来た」
アヤメの顔色が変わる。
「追跡面……私のキューブ反応を辿られた」
「便利すぎるでしょ、それ」
「機関は無駄を嫌うから」
言いながらも、アヤメの声には焦りが混じっていた。
次の瞬間、鏡膜が弾ける。
その向こうから、黒い制服の影が三つ、屋上へ滑り込んできた。先頭にいたのは、歩廊で最初にモチカを殴った男だった。
「四方鏡アヤメ。対象から離れろ」
低い声が夜気を切る。
「接触汚染の可能性あり。直ちに保護する」
汚染。
その言い方に、モチカは目を細めた。
アヤメの肩も、わずかに揺れる。
「私は……」
彼女が何かを言いかける。
だが、その迷いを断ち切るように男が一歩前へ出た。
「白玉モチカ。今度は逃がさない」
「そう。じゃあ試してみて」
モチカは静かに腰を落とした。
掌から溢れた餅が、月明かりの下でぬめるように光る。
けれど前回と違うのは、敵が三人いることだけじゃない。
自分のすぐ横に、アヤメがいる。
その気配だけで、心の境目がまた曖昧になる。
戦えば、また触れる。
触れれば、また流れ込んでくる。
痛い。
重い。
できれば、もう嫌だった。
それでもモチカは前を向く。
逃げる方が楽だと、もう知っている。
でも楽な方へ逃げ続けた先には、何も残らないことも少しずつ分かり始めていた。
「アヤメ」
「……何」
「下がってて」
「命令しないで」
「じゃあ忠告。今から近いと巻き込む」
アヤメは一瞬だけ迷い、結局モチカの半歩後ろで止まった。
男がそれを見て、眉をひそめる。
「やはり乱されているな」
その言葉が落ちた瞬間、三人のキューブが同時に発光した。
鏡面の刃が夜の空中に幾重にも生まれる。
モチカは白い餅を広げながら、小さく息を吸った。
「……ここからが、もちもちタイムだ。」
自分で言っておいて少しだけ変な感じがしたが、昔いつの日か観たヒーロー番組での決め台詞がでてきた。
そうか、私好きだったんだ…あれ。
でも次の瞬間にはもう、そんなことを気にしている余裕はなかった。
第2話「繋がる痛み」②
最初に飛んできたのは、刃ではなかった。
薄く磨かれた円盤状の鏡面が、音もなく三枚。回転しながら空気を裂いてくる。
切断ではなく拘束用。軌道が嫌らしい。
避けた先へ、残り二枚が追い込むように曲がっていた。
モチカは右へ跳び、着地と同時に餅を床へ叩きつける。
白い塊が円盤に貼りつき、回転を鈍らせた。
そのまま引き寄せようとした瞬間、別方向から細い鏡線が走る。
餅だけを正確に断ち切る一撃だった。
「連携、上手じゃん」
モチカが呟くと、先頭の男が冷たく答えた。
「統一された判断に無駄はない」
つまらない返事、と内心で吐き捨てる。
だが厄介なのは本当だった。
三人の動きには個人差がほとんどない。
互いの呼吸を合わせるというより、最初からひとつの機械として設計されているみたいな連携だ。
乱れがないぶん、隙も薄い。
右から二人目の隊員が手をかざす。
屋上の床に鏡膜が展開され、そこへモチカの姿が映り込む。
次の瞬間、映った自分が下から伸び上がってきた。
「っ…!」
反射的に身を引く。
鏡から生まれた偽像の腕が、モチカの足首を掴みかけた。
「『影写し』……」
アヤメが低く言った。
「接触した相手の動きを一瞬だけ模倣する機構」
「嫌な能力ばっかり」
「機関は効率重視だから」
言っている間にも、男が距離を詰めてくる。
拳ではない。
掌底でもない。
五指を揃えた貫手。
キューブへ直接干渉するための型だと直感で分かった。
モチカは左腕に餅を巻きつけて受ける。
鈍い衝撃。
餅がへこみ、そのまま押し切られそうになる。
重い。前より力が乗っている。
おそらく相手もこちらの餅対策を切り替えてきたのだ。
「白玉モチカ」
男の目はひどく静かだった。
「お前の干渉は不安定だ。接触時の感情逆流も制御できていない。戦闘技術として未熟すぎる」
「わざわざ講評どうも」
「だが、危険性は高い。だからここで封じる」
瞬間、左右から鏡円盤が戻ってくる。
挟み込むつもりだ。
モチカはその場でしゃがみ込み、両手を床についた。
餅が一気に広がる。
鏡膜のように薄く、だが粘りだけは失わない白い層が屋上一帯を覆っていく。
戻ってきた円盤がそこへ沈み、わずかに減速する。
そこへモチカは滑るように突っ込んだ。
狙うのは男ではない。
後衛だ。
連携を崩すなら、核を切るしかない。
餅を槍のように尖らせて放つ。
だが後衛の隊員は即座に鏡板を立て、防ぐ。
その横からもう一人が割り込み、鏡線で餅槍を裂いた。
速い。揃いすぎていて気味が悪い。
「一人ずつならまだしも……」
モチカが舌打ちした、その時だった。
横を、一筋の光が駆けた。
鏡の刃。だが敵のものではない。
…アヤメだった。
彼女が前へ出ていた。
細い腕を振り抜くと、鋭い鏡片が後衛の防御面にぶつかり、わずかに角度をずらす。
その一瞬、連携のリズムが崩れた。
「何してるの!」
モチカが思わず言う。
「巻き込むって言ったのはそっち」
アヤメは前を見たまま返した。
「私は下がれって命令されるの、嫌いだから。」
さっきより少しだけ声に熱がある。
不安定なまま。
それでも、自分の意思で踏み出した声だった。
先頭の男の目が険しくなる。
「四方鏡アヤメ。対象への加勢は規律違反だ」
「加勢じゃない」
アヤメの喉が揺れる。
一瞬だけ迷い、それでも言い切った。
「…私は、確認したいだけ。揃ってることが…本当に正しいのか。…私たちは正義なのか。」
空気が凍った。
その言葉は、機関にとっては刃物より危険だ。
男の表情から温度が完全に消える。
「汚染、認定」
短い宣告だった。
「回収優先順位を変更。
四方鏡アヤメも対象に含める」
アヤメの肩がぴくりと震えた。
モチカはその横顔を見て、胸の奥がまた少し軋む。
流れ込んでくる。
恐怖。裏切られたみたいな痛み。
居場所を失う予感。
もう嫌になるくらい、全部分かってしまう。
「……ほんと、面倒」
吐き捨てて、モチカは前へ出た。
餅が両腕から溢れ、拳を包む。
「でも、見捨てる方が後味悪い」
男が踏み込み、三人の隊員が同時に動く。
アヤメもまた鏡片を展開する。
白と銀が、夜の屋上で正面からぶつかった。
第2話「繋がる痛み」③
衝突した瞬間、夜気がびり、と震えた。
モチカの餅拳と、男の鏡掌が正面から噛み合う。
柔らかいはずの餅がぐにゃりと形を変え、衝撃を逃がす。
だが相手はその変形ごと読んでくるように角度を変え、力を捻じ込んでくる。
まともに押し合えば不利だと悟り、モチカはすぐに腕を引いた。
その判断は正しかった。
直後、男の掌の下から細い鏡針が何本も伸びる。
もし押し合いを続けていたら、餅ごと腕を縫い止められていた。
「容赦ない」
「排除に私情は不要だ」
言いながら、男はさらに踏み込む。
左右の隊員も同時に動き、モチカの退路を塞いだ。
上から鏡円盤、下から影写し、正面から本体。三方向の圧力。
たしかに綺麗だ。
綺麗すぎて吐き気がするくらいに。
モチカは後ろへ飛ぶふりをして、半歩だけ沈んだ。
次の瞬間、足元の餅膜を一気に盛り上げる。
白い床が波のように持ち上がり、後衛二人の足をすくった。
完全には崩せない。
だが、ほんの一拍だけ連携が遅れる。
その隙にモチカは男の懐へ潜った。
拳ではなく、掌を開く。
べちゃり、と白い餅を男の胸元へ押し当てた。
「またそれか」
男は冷静だった。
片手でモチカの手首を取り、剥がそうとする。
「接触すれば、お前も無事では済まない」
「知ってる」
言った瞬間、流れ込んでくる。
冷たい義務感。
自分を消すように磨き上げた従順。
恐怖。
その奥底に沈んだ、ひどく薄い怒り。
モチカの喉がひりついた。
この男もまた、最初から空っぽだったわけじゃない。
削って、削って、削りきって、ここまで均されたのだと分かってしまう。
「…っ!、ぁ……」
膝が揺らぐ。
視界の端でアヤメが何か叫んだ気がしたが、うまく聞き取れない。
頭の中に他人の感情が流れ込みすぎて、自分の輪郭が霞む。
その一瞬の隙を、男は逃さなかった。
モチカの手首を捻り上げ、そのまま肩口を打ち抜こうとする。
だが、そこでアヤメの鏡片が飛んだ。
男の肘へ鋭く食い込み、軌道を逸らす。
「四方鏡アヤメ!」
後衛の隊員が怒声を上げる。
「うるさい!」
アヤメが叫んだ。
その声には、昨日までなかった熱が宿っていた。
「私の気持ちを、勝手に汚染扱いしないで!」
鏡片が連続で走る。
荒い。まだ迷いがある。
けれど、その荒さが逆に読みづらかった。
揃った軌道じゃないからこそ、機関側の連携が微妙に噛み合わなくなる。
モチカは捻り上げられた腕を無理やり餅で滑らせ、拘束を抜けた。
距離を取りながら荒い息を吐く。
気持ち悪い。
胸が痛い。
吐きそうだ。
けれど今ので、ひとつ分かったことがある。
ただ触れるだけじゃ駄目だ。
感情が流れ込んで、自分が潰れる。
でも、さっきアヤメにしたみたいに、キューブの向きを一瞬でも止められれば話が変わる。
相手の揃いすぎた流れを断てる。
固定。
それが鍵だ。
「モチカ!」
アヤメの声。
見ると、後衛の一人がアヤメへ鏡線を放っていた。
反応が一瞬遅れている。
迷いがあるぶん、防御の精度が落ちているのだ。
モチカは考えるより先に手を伸ばした。
白い餅が空中を走り、アヤメの腰を引っ張る。
ぐん、と彼女の身体が横へずれ、鏡線が頬のすぐ前をかすめていく。
アヤメが目を見開く。
「今の……」
「貸し一つ」
軽く言ったつもりだったが、その直後にまた感情が伝わってきた。
助かった安堵。驚き。
少しだけ、信じたい気持ち。
重い。
ほんとに重い。
でも、嫌なだけじゃないと分かってしまう自分がもっと面倒だった。
男が再び距離を詰める。
「馴れ合いで勝てると思うな」
「思ってない」
モチカは静かに腰を落とす。
「でも、揃いすぎてるあんたらよりは、少しだけやりやすい」
両手の餅を、今度は刃にも槍にもせず、薄い帯にした。
柔らかいまま。
巻きつき、貼りつき、止めるための形。
男が一歩。
後衛も左右から挟む。
モチカは真正面から迎え撃った。
まず左の隊員へ餅帯を投げる。
防がれる前提の一手。
鏡線がそれを断ち切った瞬間、切れた餅が逆に飛び散り、小さな粒になって隊員の腕と胸元へ貼りついた。
「何」
「分けただけ」
モチカが指を握る。
散った餅粒が一斉に縮み、隊員の腕とキューブの動きを一拍だけ固めた。
完全な拘束じゃない。
でも、その一拍で十分だった。
アヤメの鏡片がそこへ突き刺さり、後衛一人が膝をつく。
連携が崩れる。
モチカはそのまま男へ踏み込んだ。
今度は真正面ではなく、半身で滑り込みながら胸元へ餅帯を巻きつける。
男が剥がそうとするより早く、もう片方の餅を背中側から回し、キューブごと挟み込んだ。
「固定する!」
白い餅が男の胸元で収縮する。
ぎし、と空気がきしむ音がした。
男のキューブが、ほんの一瞬だけ止まる。
その瞬間、感情が雪崩れ込んできた。
命令。
恐怖。
怒り。
そして、叫びたいのにずっと押し潰してきた、ひび割れそうな苦しさ。
「……っ!」
モチカの頭がぐらりと揺れる。
けれど、今度は離さなかった。
潰されるだけじゃ終わらせないと、歯を食いしばる。
「……逃げない…!」
小さく、でも確かに言う。
「痛くても、今回は逃げない」
男の目が初めて大きく揺れた。
第2話「繋がる痛み」④
男の目が揺れたのは、ほんの一瞬だった。
けれど、それで十分だった。
完璧に噛み合っていた連携に、微かなずれが走る。
後衛のひとりが踏み込むタイミングを迷い、もうひとりはアヤメへの牽制を優先した。
均一であることを前提に組まれた動きは、核の一角が乱れた途端、急に脆さを見せる。
モチカはその変化を見逃さなかった。
「アヤメ! 右!」
叫ぶより先に、アヤメが反応する。
右後方から迫っていた鏡線へ、自分の鏡片をぶつけた。
甲高い音。
光と光が擦れ、軌道がずれる。
その隙にモチカは男の胸元へ押し当てた餅をさらに薄く広げた。
固定するだけじゃない。
流れを止める。
揃いきった回転を、ほんの少し鈍らせる。
白い餅が男のキューブ表面を包み、面の向きに食い込んでいく。
柔らかいくせに、離れない。
男は眉ひとつ動かさず引き剥がそうとしたが、餅は千切れても千切れた先からまた貼りつく。
「無意味だ」
男の声はまだ静かだった。
「お前の干渉は自滅を伴う。長くは持たない」
「知ってるって言った」
実際、限界は近かった。
流れ込んでくる感情が多すぎる。
頭の中で、他人の声が何重にも響く。
怖い、苦しい、命令に従え、揃えろ、捨てられるな。
自分の思考と混ざって、足元が揺らぐ。
それでもモチカは食いしばった。
痛みがあるから、ここにいると分かる。
苦しいから、まだ切れていないと分かる。
男が低く息を吐く。
次の瞬間、その背後の鏡面が一斉に立ち上がった。無数の小さな反射板。
そこに映るのは、モチカでもアヤメでもない。
…幼い頃のアヤメだった。
白い訓練室。
まっすぐ立たされる小さな背中。
失敗のたびに冷たい声が降る。
『揃えなさい』
『揺れるな』
『感情はノイズです』
映像ではない。
記憶だ。
キューブが揃いすぎた者同士が共鳴したのか、男の中に押し込められていた記録が表面へ滲み出ている。
アヤメの顔色が変わる。
「やめて……」
だが鏡面は止まらない。
今度は男自身の記憶が映る。
同じような訓練室。
少し年上の少年が、泣くことも許されず膝をついている。
彼もまた、最初から空っぽだったわけじゃない。
ただ、空っぽになるまで削られたのだ。
モチカの胸がきしむ。
見たくもないのに、触れているせいで全部入ってくる。
「これが、あんたたちの揃うってこと……」
声が掠れた。
「こんなの、ただ消してるだけじゃん」
男の瞳がわずかに歪む。
「消していない。最適化だ」
「言い換えてるだけ」
その言葉は、思ったより鋭く飛んだ。
男の無表情に、初めて明確な亀裂が走る。
怒りだ。
薄く、でも確かにあった。
均されたはずの面の下に、まだ怒りが残っている。
モチカはそれを感じた瞬間、餅の使い方を変えた。
押さえ込むのではなく、キューブの角と角をつなぐように帯を走らせる。
ひとつの面だけを止めるのではなく、複数の向きを同時に縛る。
雑でもいい。完全じゃなくていい。
揃っていないまま、動けなくすればいい。
「モチカ、それ……」
アヤメが息を呑む。
「固定の応用」
モチカは短く答えた。
「きれいに止めなくても、絡ませれば崩れる」
男が振りほどこうとした瞬間、後衛の隊員が援護に入る。
鏡円盤が三枚、一直線にモチカへ。
避けきれない。
そう判断した時、アヤメが前へ出た。
彼女の鏡片が荒い軌道で飛ぶ。
正確さでは機関に劣る。
だが今の彼女の刃には、均されていない揺らぎがあった。
読みにくい、不揃いの角度。
そのせいで円盤のひとつが弾かれ、もうひとつがずれ、最後の一枚だけがモチカの肩をかすめた。
血が散る。
熱い。
でも致命傷じゃない。
「アヤメ!」
「借りは返した」
強がるように言った彼女の声は震えていた。
怖いのだ。
まだ。
それでも前へ出た。
その事実が、モチカの中で何かを強く押した。
変われない。
自分のキューブは回らない。
だけど、繋がった相手が動いたことで、戦いの流れはたしかに変わっている。
「……そっか」
モチカは小さく呟いた。
「私ひとりで変える必要、ないんだ」
男がその言葉を聞き取り、眉をひそめた。
モチカは白い餅をさらに広げる。
男のキューブから、床へ。
床から、アヤメの足元へ。一本の太い帯ではなく、いくつもの細い線で。
繋ぐ。
止めるためじゃない。
今度は、支えるために。
アヤメの目が見開かれた。
「これ……」
「感情、少し来るかも」
「最悪の注意喚起」
「でも動きやすくなる」
実際、その通りだった。
餅の線を通して、アヤメの位置と重心が少しだけ分かる。
逆にアヤメにも、モチカの踏み込みの気配が伝わる。
痛みを伴う、雑な接続。
けれど、だからこそ呼吸が合った。
男が初めて一歩退いた。
モチカはその一歩を見て、静かに言う。
「…逃げないって、決めたから」
「……」
「今度は、最後まで受け止める」
そう言って、前へ出た。
第2話「繋がる痛み」⑤
男が退いた、その一歩で決着の気配が生まれた。
ほんのわずかな後退。
それだけのことなのに、今まで寸分の乱れもなかった空気が変わる。
揃いきった連携は、誰かが下がることを想定していない。
前へ、前へ、均一に詰めることで成立していた流れに、初めて綻びが走った。
モチカはその瞬間を逃さなかった。
「アヤメ、左」
短く告げる。
言い終わるより先に、アヤメが動いた。
餅の線で繋がったままだから、足の運びが読める。彼女の迷いも、怖さも、まだ伝わってくる。
けれど同時に、踏み込む覚悟も分かった。
アヤメの鏡片が左後衛の足元を裂く。
隊員が反射的に防御面を展開した、その一瞬の硬直へ、モチカは餅を散弾のように撃ち込んだ。
白い粒が制服と胸元へ貼りつく。
さっきと同じだと思ったのか、隊員はすぐに鏡線で払い落とそうとする。
遅い。
モチカが指を握る。
餅粒が一斉に収縮し、腕、肩、胸元のキューブの向きをばらばらに引っ張った。
「っ!」
後衛の一人が体勢を崩す。
そこへアヤメの鏡片が正面から突き刺さり、防御面ごと弾き飛ばした。完全な戦闘不能にはならない。
だが連携からは外れた。それで十分だった。
残る二人。
先頭の男と、もう一人の後衛。
後衛が即座に男の死角を埋めるように入る。
さすがに立て直しが速い。
だが、さっきまでの無機質な精度には届いていない。
核が揺れたせいで、全体が微妙に遅れる。
モチカは深く息を吸った。
胸が痛い。
頭も重い。自分の中に流れ込んできた感情が渦みたいに回っている。
怖い。苦しい。吐きたい。
全部そのままだ。
それでも、もう分かっていた。
この痛みは、逃げる理由にはならない。
繋がった証拠だ。
「モチカ! 前!」
アヤメの声。
男が踏み込んでいた。
鏡掌が一直線に胸を狙う。
速い。鋭い。躱しても追ってくる軌道だ。
モチカは避けなかった。
代わりに、自分から前へ出る。
掌と掌がぶつかる直前、白い餅がモチカの腕から噴き出し、男の手首へ巻きついた。
止めるのではない。
逸らす。力の方向を半歩だけ横へ流す。
男の一撃が胸の横をかすめた瞬間、モチカは空いた左手を男の胸元へ叩き込んだ。
柔らかな衝撃。
白い餅が、今度は厚く、深く、キューブ全体を包み込む。
「固定する」
低く呟く。
「悲しみも、怒りも、消させない」
男のキューブが強く明滅した。
次の瞬間、感情が雪崩れ込む。
押し殺してきた怒り。
泣けなかった悔しさ。
従うしかなかった諦め。
見ないふりをしてきた、かつての自分への憎しみ。
あまりの濁流に、モチカの膝が折れかける。
視界が白くなる。
それでも離さない。
アヤメが背中側の餅線を強く引き、モチカの体勢を支えた。
その気配が伝わる。
ひどく不器用な支え方。でも、十分だった。
「離せ……!」
男の声が、初めて大きく乱れた。
「離さない」
モチカは歯を食いしばる。
「受け止めるって決めたから」
後衛が援護に入ろうとする。
だがその前へ、アヤメが立った。
「行かせない!」
鏡片が荒々しく弧を描き、後衛の進路を塞ぐ。
綺麗じゃない。
洗練もされていない。
けれど、その刃にはちゃんと感情が乗っていた。
守りたいという意志が、揺れたままでも前へ出ている。
男のキューブに巻きついた餅が、ぎしぎしと音を立てる。
完全な静止ではない。
無理やり止めれば、たぶん壊れる。
だからモチカは止めきらなかった。
代わりに、揃いすぎた向きをずらした。
喜怒哀楽恐理、そのどれかひとつへ均され続けていた流れを、ほんの少しずつ解いていく。
きれいに整え直すのではない。
絡まった糸を指先でほぐすみたいに、乱れを戻していく。
男の瞳が揺れた。
鏡みたいだった光が、初めて人間の目に見える。
「俺は……」
掠れた声が漏れる。
「俺は、ただ……要らなくなりたく、なかった……」
その一言で、全部が分かった気がした。
アヤメが息を呑む。
後衛の隊員も、一瞬だけ動きを止めた。
たぶん、同じだったのだ。
この機関にいる者たちは皆、捨てられないために揃えられてきた。
モチカはゆっくりと手を離した。
男はその場に膝をつく。
キューブの光はまだ不安定に揺れていたが、さっきまでの冷たい均一さはもうなかった。
後衛の隊員は動揺しながら男を支え、モチカたちを睨む。
だが、追撃してくる気配はない。
連れて退くか、ここで続行するか、判断が割れているのだろう。
「撤収しろ」
膝をついたまま、男が低く言った。
「これ以上の接触は……危険だ」
その声は命令口調の形をしていたが、もうどこか疲れていた。
後衛の隊員は迷った末、男を抱えて鏡膜の向こうへ下がっていく。
去り際、ひとりがアヤメを見る。
その目には敵意だけじゃない、言葉にできない揺れがあった。
やがて屋上に静けさが戻った。
風が吹く。
切れた餅の欠片が床で揺れ、鏡片の残光が夜に溶ける。
モチカはその場に座り込んだ。
「……気持ち悪い」
「ひどい第一声」
アヤメも荒く息をつきながら隣に膝をつく。
「…でも、分かる」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
敵だったはずの距離は、もうさっきまでの形をしていない。
近いのか遠いのか、自分でも分からない曖昧な間がある。
でも、その曖昧さが嫌じゃなかった。
「ねえ」
アヤメがぽつりと言う。
「繋がるのって、ずっとこんなに痛いの」
モチカは夜空を見上げた。
答えはまだ、ちゃんと持っていない。
「たぶん」
「たぶん?」
「でも、痛いだけじゃない」
自分でも意外なくらい、言葉は素直に出た。
アヤメが横で目を瞬く気配がする。
「今日、分かった」
モチカは胸元へ手を当てる。
そこにある自分のキューブは、相変わらず回らない。
欠けたまま、止まったまま。
何も変わっていない。
なのに、景色だけが少し違って見えた。
「繋がるって、弱くなることじゃない」
静かに言う。
「痛みをごまかせなくなるだけ。相手のぶんまで重くなるだけ。面倒で、息苦しくて、ほんと最悪」
「褒めてるように聞こえない」
「褒めてない」
モチカは少しだけ間を置いて、続けた。
「でも、それでも切りたくないって思ったなら、たぶんそれは弱さじゃない」
アヤメは何も言わなかった。
ただ、少しだけ俯いて、肩の力を抜いた。
遠くで警報音が鳴り始める。
機関が体勢を立て直すのも時間の問題だろう。
モチカは立ち上がった。
「行くよ」
「どこに」
「追いつかれない場所」
「そんな場所あるの」
「ないかも」
モチカは白い餅を指先でくるりと回す。
「でも、探すくらいはできる」
アヤメが小さく笑った。
本当に小さい、ぎこちない笑みだった。
整った顔に初めて生まれた乱れみたいで、少しだけ人間らしかった。
モチカはそれを見て、ほんのわずかに目を細める。
繋がることは、やっぱり痛い。
触れれば流れ込んでくるし、知れば切り捨てにくくなる。ひとりの方がきっと楽だ。
それでももう、前みたいには戻れない。
触れてしまった心は、もう無関係ではいられないから。
夜の屋上を蹴って、モチカは跳ぶ。
白い餅が闇の向こうへ伸び、次の足場を掴む。
少し遅れて、アヤメも後を追った。
風の中、モチカは誰にも聞こえないくらい小さく呟く。
「……悪くないかも」
痛みごと繋がる、この感じも。
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