Broken Boundary: Cube
しずえあるこ
第1話「触れられない心」
世界には、生まれたときから胸の奥にひとつずつ、心のかたちが浮かんでいる。
それは立方体だった。
六つの面を持つ、小さな光の箱。
人はそれを「心のキューブ」と呼ぶ。
喜び、怒り、哀しみ、楽しさ、恐れ、理性。
何を強く持ち、何をうまく隠し、どの面を人に見せて生きるか。
その向きは人によって違うし、同じ人間でも日によって少しずつ回る。
回るから、人は変わる。
揃わないから、人は人でいられる。
けれど、白玉モチカのキューブは、最初からどこかおかしかった。
「……また来た」
夕暮れの屋根の上で、モチカは短く息を吐いた。
見下ろした路地に、黒い制服の一団が滑り込んでくる。
統一された足音。統一された視線。胸元には鏡のような銀章。
カガミ機関。
不完全を狩る者たち。
モチカは白い髪を風に揺らしながら、眠たげな目を細めた。
逃げることには慣れている。
追われることにも。
屋根から屋根へ飛び移るために膝を沈め、すぐに跳ぶ。
視界の端で街の灯りが流れた。
ビルの壁面に映る広告板には、磨かれたキューブの映像が映っている。
『揃った心に、争いはない』
カガミ機関の標語だ。
ばかみたいだ、とモチカは思う。
争いがなくなったとして、そのあとに何が残る。
怒らなくなった人間。
泣かなくなった人間。
迷わなくなった人間。
そんなものは、ただ綺麗に磨かれた器でしかない。
「止まれ、白玉モチカ!」
背後から鋭い声が飛んだ。返事はしない。代わりに着地と同時に片手を振る。
指先から、白いものがぬるりと生まれた。
餅。
柔らかく、鈍く光るそれは帯のように伸び、隣の屋上の給水塔へ絡みつく。
モチカは勢いのまま体を引き寄せ、追手との距離を一気に広げた。
足裏に伝わるコンクリートの冷たさ、掌に残る粘り気。
自分の中から生まれた餅は、今日も静かに脈打っている。
この世界で、餅を生み出せるのは彼女だけだ。
昔から餅は“間”を繋ぐものだと言われてきた。過去と未来、人と人、昨日と明日。その曖昧な境目に入り込み、離れたものを無理なく結びつける。
だからこそ、カガミ機関は餅を嫌う。
揃えたはずの世界に、もう一度揺らぎを持ち込むから。
「包囲経路、前方へ回せ!」
下の通りから別動隊の声。
舌打ちするほどでもない。
読めていた動きだ。
モチカは古い時計塔の縁へ降り立つと、目の前に迫る空中歩廊へ視線を向けた。
そこにもすでに三人。
「しつこい」
「危険個体を放置するわけにはいかない」
中央に立つ男が冷たく告げる。
その胸元のキューブは、異様なほど整って見えた。
面の向きが揃いすぎている。
感情の角が削れて、ただ均一な光だけが残っているような、不気味な整合。
モチカはその男を見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「危険なのはそっちでしょ」
「欠損個体が何を言う」
欠損個体。
その言葉は、耳に入るたび骨の近くでひびく。
モチカは無意識に胸元へ手を当てた。
服の奥、皮膚の向こうにあるはずのキューブ。
普通の人間なら六つの面を持ち、ゆっくり回りながら生きている。
けれど彼女のそれは、一面が欠けていた。
欠けたまま、止まっている。
回らない。
どれだけ願っても、どれだけ苦しんでも、変わってくれない。
「投降しろ。お前は最初から揃わない。ならば、せめて回収されるべきだ」
「・・・断る」
短く返し、モチカは腕を払った。
白い餅が床を這う。三本。蛇のようにうねり、男たちの足首へ絡みつく。
ひとりが即座に跳んで回避し、もうひとりが刃状のキューブ光を放って餅を断ち切った。
だが中央の男は避け遅れる。
そこへモチカは迷いなく踏み込んだ。
距離を詰めるのに、迷いはいらない。
一撃で決める。
それが彼女の戦い方だった。
懐へ潜り込み、餅を拳に巻きつける。
打ち込む直前、男の胸元でキューブが強く明滅した。防御反応。構わず叩き込む。
鈍い衝撃とともに、餅が男の制服越しにキューブへ触れた。
その瞬間だった。
熱が、流れ込んできた。
冷たいはずの恐怖。
押し殺した焦燥。
命令に従っているはずなのに、心の底で震えている小さな拒絶。
感情が一気に雪崩れ込み、モチカの呼吸が止まる。
「っ……!」
殴ったはずの腕が、逆にこちらを貫いてくるみたいだった。
怖い。
やめろ。
触るな。
僕は揃っていたい。
揃っていないと、捨てられる。
知らないはずの声が、頭の内側で割れた。
モチカの足がわずかに止まる。
第1話「触れられない心」②
止まった、その一瞬で十分だった。
男の肘がモチカの脇腹へめり込む。
息が詰まり、身体が横へ弾かれた。床を滑り、空中歩廊の縁ぎりぎりで餅を打ちつけて制動する。
白い塊が手すりへ貼りつき、どうにか落下を免れた。
「今のが、お前の異常か」
男が胸を押さえながら立ち直る。
表情は冷静に戻っていたが、その奥に残る動揺をモチカはもう知ってしまった。
知りたくもなかったのに。
モチカはゆっくり立ち上がる。
脇腹が熱い。
けれど、それ以上に気持ちが悪かった。
自分の中に、自分以外の感情がまだ残っている。
怖い。
その単純な震えが、皮膚の裏側を這っている。
「……うるさい」
「何だと?」
「別に、あんたに言ったわけじゃない」
吐き捨てるように言って、モチカはこめかみを押さえた。
触れた瞬間に流れ込んでくる。
他人の感情。痛みも、怒りも、恐れも、たぶん喜びだって。
餅は間を繋ぐ。
だから触れれば、繋がってしまう。
心と心の、そのいちばん柔らかい境目が。
だから人を避けてきた。
近づけば近づくほど、境界が曖昧になるから。
「記録通りだな」
今度は別の声だった。
歩廊の反対側から、ひとりの少女が現れる。モチカと同い年か、少し上。
黒い制服に銀章。長い黒髪をひとつに結び、切っ先のような目でこちらを見ていた。
「対象、白玉モチカ。接触時に感情流入を確認。やはり未完成干渉型です」
「報告ごくろうさま」
モチカは淡々と返したが、内心では舌打ちしていた。
増援。
しかも、この空気は雑魚じゃない。
少女は歩みを止めない。
靴音だけが規則正しく響く。
その整い方が、妙に不気味だった。
胸元のキューブもまた、磨き抜かれた鏡みたいに冷たい光を放っている。
「あなた、どうして平気な顔をして逃げ続けられるの」
少女が言った。
「欠けてるのに。止まってるのに。揃わないのに」
「……それ、質問?」
「確認」
少女はすっと右手を上げた。
空気がきしむ。
彼女のキューブが回転し、透明な板のような光が幾重にも重なって生まれる。
鏡面めいた壁。
それが歩廊の左右を塞ぎ、退路を切った。
「私たちは、揃えるために生きてる。乱れた感情も、揺らぎも、いずれ争いになるから」
「感情があるから、人は人でいられる」
「非効率」
「それで済ませるんだ」
「済む話だから」
短いやりとりだった。
なのに、ひどく遠かった。
この子にはたぶん、本気で分からないのだとモチカは思った。
怒りで顔が熱くなる理由も、誰かの言葉で眠れなくなる夜も、自分の気持ちに答えが出ない苦しさも。
そういう揃わなさごと、人間なのだということが。
少女が一歩踏み込む。
鏡の板が槍のように細く伸び、一直線に飛んできた。
モチカは身をひねって躱す。
頬をかすめた一撃が後方の手すりを貫き、金属片を散らした。
続けざまに二本、三本。速い。しかも軌道が静かすぎて読みづらい。
モチカは足元へ餅を広げ、床を滑るように移動した。
射線の隙間へ潜り込み、一気に懐へ入る。
やることは変わらない。
近づいて、捕まえて、終わらせる。
だが、近づくほど思い出す。
触れたくない。
繋がりたくない。
また流れ込んでくる。
知らない誰かの心が、自分の中で暴れる。
「来ないの?」
少女が言う。
「来られない、の間違いじゃない?」
その言葉に、足が鈍る。
図星だった。
モチカは表情を動かさなかったが、胸の奥では確かに何かが軋んでいた。
自分のキューブは回らない。
どれだけ追い詰められても、感情の置き場所が変わらない。
恐怖を理性へ逃がすことも、痛みを怒りに変えることもできない。ただその場に留まり、澱のように積もる。
変われない。
戦うたび、それを思い知らされる。
「……うるさい」
小さく言って、モチカは拳を握った。
白い餅が指の間から滲み出る。
粘り気のある熱が掌に広がる。
自分だけの異物。
自分だけの、繋ぐ力。
「来られないなら、こっちから行く」
少女の姿がぶれた。
第1話「触れられない心」③
次の瞬間、少女は目の前にいた。
速い、では足りない。
存在そのものがひとつ、瞬きの間に切り替わったみたいだった。
鏡面の板を足場にして空間を滑ってきたのだと理解したのは、肩口に衝撃を受けてからだった。
モチカの身体が大きくよろめく。
少女は間髪入れず、肘、膝、掌底と無駄のない連撃を叩き込んできた。
まるで感情のない機械みたいな動き。
迷いも、怒りも、勝ちたいという熱もない。
ただ任務として最短で制圧するための軌道だけがある。
モチカは二撃目を腕で受け、三撃目を半歩下がって外し、四撃目の掌底に餅を差し込んだ。
ぐにゃりとした反発で衝撃を逃がす。
そのまま餅を伸ばして手首へ絡めようとする。
けれど少女は即座に手を切るように振り、鏡面の刃で餅を剥がした。
「その程度」
「じゃあ、もっと見せて」
言葉の終わりと同時に、モチカは低く踏み込む。右足で床を蹴り、左手の餅を一気に広げた。
帯になった餅が少女の視界を塞ぐようにうねる。
目くらまし。
その影へ滑り込むように本体が潜り、懐へ入った。
今度こそ、触れる。
怖い、と思うより先に身体が動いていた。
拳に巻いた餅を少女の胸元へ叩き込む。
柔らかな白が制服越しにキューブへ密着した。
その瞬間、また流れ込んでくる。
冷たい水を頭から浴びたみたいに、感情が一気に押し寄せた。
張り詰めた緊張。
過剰なまでの自己抑制。
失敗への恐怖。
捨てられることへの、ひどく静かな怯え。
そして、その底に沈んでいたものを、モチカは感じ取ってしまった。
悲しい。
この子は、悲しい。
「っ……!」
モチカの息が乱れる。
少女の目がわずかに見開かれた。
感情を読み取られたことに気づいたのかもしれない。
だが次の瞬間、その目はさらに冷たく細められた。
「やっぱり気持ち悪い」
少女が低く言った。
鏡面の刃が至近距離で展開される。
モチカはとっさに身を引いたが、避けきれない。
肩口から胸元にかけて浅く裂かれ、制服が切れる。
痛みが遅れて熱く広がった。
少女はそのまま距離を取り、何もなかったように乱れのない姿勢へ戻る。
「他人の中に勝手に入ってくるなんて、最低」
「……入りたくて入ってるわけじゃない」
「でも入れるんでしょ」
「だから困ってる」
「なら、なおさら危険」
容赦のない断定だった。
モチカは傷口を押さえながら、小さく息を吐いた。血がにじんでいる。
けれどそれよりきついのは、まだ胸に残っている少女の感情だった。
悲しみ。押し込められたもの。見ないふりをし続けてきたもの。
それを感じたせいで、ただの敵に見えなくなってしまう。
面倒だった。
繋がるというのは、こういうことだ。殴れば終わる相手でいてくれなくなる。
嫌いなまま切り捨てられなくなる。
相手の痛みを知ってしまえば、倒すことさえ少しだけ重くなる。
「黙った。図星?」
少女の声は冷たいままだった。
「あなた、自分でも分かってるんだ。自分が異常で、危うくて、揃わないって」
「揃わなくても、生きていける」
「揃わないから壊すのよ」
少女は胸元のキューブに手を当てた。
その動作だけは、ほんの少し強かった。
まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
「乱れた心は人を傷つける。迷いは判断を鈍らせる。哀しみは行動を止める。怒りは争いを生む。だったら、そんなもの最初から均してしまえばいい」
「……全部なくしたら、空っぽになる」
「空っぽで何が悪いの」
即答だった。
その一言に、モチカは返す言葉を失う。
空っぽでいいと思わないと、生きてこられなかったのだ。
この子はきっと。
その事実が、妙に胸に刺さった。
少女が再び構える。
鏡の槍が空中に浮かび、今度は十本以上。先ほどより多い。
決めにくるつもりだと分かった。
モチカはゆっくりと呼吸を整えた。
傷は痛む。感情の流入で頭も重い。
しかも最悪なことに、胸の奥にある自分のキューブは相変わらずぴくりとも動かない。
こんな時、普通の人なら感情の向きを変えられる。
恐怖を怒りに。
迷いを理性に。
痛みを覚悟に。
けれどモチカにはそれができない。
止まったままの心は、ただ真正面から全部を受けるしかなかった。
少女が言う。
「あなたは最初から壊れてる」
モチカは目を細める。
「……そうかもね」
否定はしなかった。
「でも」
掌の上で、白い餅がゆっくり形を変える。
刃でもなく、槍でもなく、ただ柔らかい塊のまま脈打つ。
「壊れてるなら、壊れてるなりにやる」
少女の眉がわずかに動いた。
モチカは半歩、前へ出る。
痛みがある。怖さもある。
繋がってしまう気持ち悪さも、まだ消えていない。
それでも退かなかった。
「来なよ」
短く言う。
「次で終わらせる」
第1話「触れられない心」④
少女は何も言わなかった。
ただ、浮かんだ鏡槍が一斉に角度を変える。
空気が張りつめる。
引き金のない銃口を何十も向けられているみたいな圧迫感だった。
次の瞬間、放たれる。
一直線に飛ぶもの、途中で屈折するもの、床へ潜るように低く滑るもの。
すべてが静かで、正確で、ためらいがない。
モチカは一歩目を左へ切り、二歩目で姿勢を沈め、三歩目で餅を地面へ叩きつけた。
広がれ。
念じるより先に、白い餅が床一面へ薄く伸びた。
鏡槍が餅に触れた瞬間、勢いが鈍る。
刺さるはずの先端が、粘りに呑まれてわずかに沈む。
完全には止められない。
けれど、軌道はずらせる。
モチカはその隙間を縫うように駆けた。
頬をかすめた一本で髪が散る。
太腿の横を裂いた一本で熱が走る。
けれど止まらない。
痛みは足を鈍らせるが、迷いはもうなかった。
むしろ、痛みのぶんだけ輪郭がはっきりする。
届く。
もう一歩で。
「無駄」
少女が右手を振る。
床に沈んだ鏡槍が一斉に反転し、下から突き上げてきた。
逃げ場を塞ぐ檻。モチカは咄嗟に両腕から餅を噴き出させ、自分の身体を包むように丸める。
激突。
鈍い衝撃が全身を揺らし、白い餅の表面にひびが走る。
完全には防げない。背中を打ちつけ、膝をつく。肺がつぶれたみたいに息が抜けた。
「終わり」
少女の声が近い。
顔を上げると、最後の一本がまっすぐこちらの胸へ向けられていた。
急所。避けても浅くは済まない。
モチカは膝をついたまま、その切っ先を見返した。
怖い。
はっきり、そう思った。
死にたくない。痛いのは嫌だ。ひとりで消えるのも、たぶん嫌だ。
けれど、自分のキューブはやはり回らなかった。
恐怖は恐怖のまま胸に居座り、どこにも逃げてくれない。
普通ならここで変われる。
覚悟に塗り替えたり、怒りで押し切ったりできる。
モチカにはそれがない。
変われないまま、進むしかない。
「……ほんと、不便」
小さく呟いて、モチカは笑いもしないまま立ち上がった。
少女の目がわずかに揺れる。
「まだ立つの」
「立つしかないから」
モチカは片手を上げた。
指先から生まれた餅は、今度は細く、長く、糸のように伸びていく。一本、二本、三本。風に震えるほど頼りない白い糸。
「そんなもので何を」
「繋ぐだけ」
言い終わるより先に、モチカは踏み込んだ。
鏡槍が発射される。
真正面。避けない。
代わりに、餅糸を自分の足首、手首、腰へ絡めた。残る先端は床に広がった餅膜へ接続される。
ぐん、と身体が横へ引かれた。
自分自身を餅で引っ張り、強引に軌道を捻じ曲げたのだ。
鏡槍が胸のわずか横を貫く。
すれ違いざま、モチカの掌が少女の胸元へ届いた。
べちゃり、と柔らかな音がした。
押し当てた餅は攻撃じゃない。
覆うように、包むように、キューブ全体へ貼りつく。そしてモチカはそのまま指を閉じた。
「固定する」
少女のキューブが止まった。
光の向きが、その一瞬だけ凍りつく。
「……な、に……!」
「回らないなら、回らないままでいい」
モチカの声は低かった。
「でも、あんたは回りすぎてる。整えすぎて、何も感じないふりをしてる」
触れたことで、また感情が流れ込んでくる。
悲しみ。息苦しさ。泣きたかった夜。怒れなかった悔しさ。全部まとめて押し込めて、綺麗な面だけ表に並べてきた痛み。
苦しい。
吐きそうになる。
それでもモチカは手を離さなかった。
「やめて……!」
初めて、少女の声が乱れた。
その震えは
たしかに人間のものだった。
第1話「触れられない心」⑤
「やめて……見ないで……!」
少女の顔から、初めて無機質な静けさが剥がれ落ちた。
鏡のように整っていた瞳が揺れる。
押し込めていたものが、固定されたキューブの隙間から一気にあふれ出そうとしていた。
モチカの掌に触れた餅は、ただ止めるだけじゃない。
繋いでしまう。
閉ざしていた感情の行き場を、無理やり開いてしまう。
痛い。
少女にとっても、モチカにとっても。
流れ込んでくる感情は、さっきまでとは比べものにならなかった。
整えることを強いられてきた苦しさ。
揃っていないと価値がないと言われ続けた記憶。
泣けば弱い、怒れば醜い、迷えば不要だと切り捨てられてきた小さな傷の積み重ね。
モチカの喉が詰まる。
自分のものじゃない痛みのはずなのに、胸の奥がきしむ。
「……あんた」
言葉にしようとして、やめた。
可哀そう、なんて軽々しく言いたくなかった。
そんな一言で片づくものじゃないと、流れ込んできた感情が教えていたからだ。
少女は震える手でモチカの腕を掴んだ。
振り払うためじゃない。
ただ、崩れそうな自分をどうにか支えるみたいに。
「私は……揃っていれば、いられると思ってた……」
かすれた声だった。
「そうしないと……捨てられないためには、それしか……」
そこで言葉が切れる。
モチカは静かに目を伏せた。
たぶん、自分も似たようなものだった。
変われないから距離を取った。
触れたくないから関わらなかった。
傷つかないために、最初から繋がらない方を選んできた。
違う形で、同じように閉じていたのかもしれない。
少女の背後で、最初に殴った男がよろめきながら立ち上がる。
「対象を引き離せ! その接触を続けさせるな!」
別の隊員たちも歩廊の入口に現れる。
銃口のようなキューブ端子がこちらへ向けられた。
まずい。
ここで囲まれれば終わる。
モチカは少女のキューブからそっと手を離した。
固定が解け、光がわずかに揺れる。
けれど、もう先ほどのような完璧な均一さには戻っていなかった。
「動ける?」
モチカが問うと、少女は呆けたようにこちらを見た。
「……どうして」
「今、説明してる暇ないから」
言いながら、モチカは片手を振る。
床一面に広げていた餅が一気に持ち上がり、白い壁になって追手の視界を塞ぐ。
直後、鏡弾が何本も撃ち込まれ、餅の壁が大きくえぐれた。
「こっち」
少女の返事を待たず、モチカはその手首を掴んだ。
触れた瞬間、また感情が流れ込む。
戸惑い。混乱。消えかけた恐怖。
そしてほんの少しだけ、信じていいのか分からないという微かな熱。
うんざりする。
ほんとに面倒だ、とモチカは思う。
他人と繋がるのは、痛い。重い。自分の輪郭が曖昧になって、息苦しくなる。相手の痛みまで背負わされる。
ろくなことがない。
それでも。
それでも手を放せなかった。
「逃げるよ」
「……敵、なのに」
「今は違うかも」
それだけ言って、モチカは餅を射出した。
白い帯が夜の向こう、隣の塔へ絡みつく。ぐん、と身体が持ち上がる。少女を連れたまま、二人は歩廊を飛び出した。
背後で追手の怒号が上がる。
鏡光が夜気を裂く。
けれど、もう届かない。
冷たい風が頬を打つ中、モチカは胸元にある自分のキューブを思った。
回らない。欠けている。相変わらず、どうしようもない。
でもさっき確かに知ってしまった。
変われなくても、繋がってしまうことはある。
それは痛くて、厄介で、全然綺麗じゃない。けれど、完全に閉じたままでいるよりは、たぶん少しだけ前に進める。
夜の屋根へ着地したとき、モチカは小さく息を吐いた。
「……最悪」
「え?」
「なんでもない」
そう言って前を向く。
カガミ機関はまだ追ってくるだろう。自分のキューブが回ることも、たぶんない。欠けた一面の意味だって、まだ分からないままだ。
それでも、今夜ひとつだけ分かったことがある。
触れてしまった心は、なかったことにはできない。
そしてその痛みは、きっと終わりじゃない。
むしろ、ここから始まる。
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