【第三十七話.完璧な調律の先で】

「千紗っ? えっ? あんたなんで」


 オレンジの夕焼け。

 塩酸の臭いのする理科室。

 依央は、その中央で、びっくりした様子で千紗を見ている。


「やっぱりね、依央なんじゃないかって。そう思ったよ」

「なんで」


 状況を上手く飲み込めていない彼女に、千紗は笑顔で答える。


「私たち……地獄に堕ちちゃったみたい? なんだけど……」


 なんだか気恥ずかしくて、やや尻すぼみになってしまったが、言うべきことだと思ったから、伝えた。


『言えるじゃん、千紗ちゃん。やればできるね』


 この、永遠に続く夕焼け。

 決して出られない、学校。


「地獄……ここが」


 依央は、改めて周囲を見る。

 こそが、正しく、間違いなく地獄である。


 と、その時。


「はい、みなさん。化学の授業の時間です。……鳴海さん、白石さん。席に着いて」


 朝倉先生が理科室に入ってきた。



「朝倉先生? どうしてここに?」


 千紗が叫ぶと、彼は、いつもの優しい笑顔で言った。


「朝倉先生? ああ、、と。……まあ、それもいいでしょう」

『千紗ちゃん、ほら、ほら、見なきゃ』


 あ。

 灯里の声で、そうか、と我に返る。

 正しく見えていないんだ、と。


 依央の顔色が悪い。


『きっと、彼女には違うモノが視えているんだろうね』

「先生はね。鳴海さんの行く末を、決めるためにここに来ました。白石さん。残念ながらあなたはこのままここに居ていただきます」

「! きゃあっ」


 千紗が彼女の方を再び見ると、木の根のようなもの――あのカーストの根だ――が絡みついて、床にずぶずぶと沈みだした。


「生きているうちに一人の人間の命を奪った。その罪は大きい」

「千紗、助けて、ちさぁっ!」

「このまま永劫の期間、ここで過ごしてもらいましょう」


 千紗は知恵を振り絞って考える。

 何が正しいんだろう。

 どうするべきだったんだろう。


 ――あの時、美月にもう少しだけ、優しくできていたなら。

 私がもう少しだけ、優しく生きていたなら。


 何かが変わったのだろうか。


「待ってください!」


 千紗は叫んだ。


「おや、鳴海さん? どうしました?」

「待ってください。依央だけが悪いんじゃありません!」

「……では」


 だれが、悪かったと?


 依央の沈下が止まった。

 朝倉先生は、にっこりと優しい顔で笑う。


「……私です。私がもう少しだけ、優しく生きていたなら」

「……」


 彼はしばらく考えた後、左手を横に振った。

 ふっと、依央の姿が見えなくなった。


「依央!」

「大丈夫です。少し違う場所で待ってもらうことにしました」


 依央は、千紗の中でとても大切な存在だ。

 大丈夫ですと言われても、はいそうですかと中々納得できない。


 あんなに悲しいことだらけのことが有ったばかりなのだ。

 依央だけは――亡くしたくなかった。


「……そんなに白石さんのことが気になりますか。……鳴海さん。先生はあなたに興味が湧いてきました」

「……あの。その他にも、聞きたいことが」

「はい。なんでしょう?」


「私がここに来た後、クラスは、学校は、みんなは……どうなったんでしょう」


 朝倉先生は優しい顔のままだ。


「では、見せてあげます。それからでも遅くはないでしょう」


 つかつかと千紗の元まで歩くと、あの時みたいに頬を撫でた。

 でもなんだか、嫌な感じはしなかった。


「二十一人の命を食べてしまった千紗さんの、刑の重さを決める、大事な大事な選択は」



 遠山雛乃とやまひなのが泣いている。

 血で真っ赤に染まった制服で。


『ここは?』

『鳴海さんの知らない、二年一組のその後の世界です』


 千紗が起こした二年一組での惨劇。

 その唯一の生還者である彼女は、駆けつけた警察官に保護された。


 その場に居た、朝倉先生は、死体遺棄の疑いで逮捕された。

 学校の周りには、何台も救急車や消防車が止まり、異様な騒ぎになっている。

 救急隊員が頻繁に出入りする中、手錠を掛けられ、歩く先生。

 その正門に停められたパトカーに乗せられるまさにその時。


 事件は、起きた。


「ああああ――っ!」


 千紗の母、鳴海美雪なるみみゆきが全速力で体当たりをした。


『お母さん! やめて!』

『鳴海さんに見せているのは過去の映像。干渉は出来ません』


 その左手に――千紗も美雪も左利きだった――包丁を持って。


「ぐっ」


「返せっ、あたしの娘を、返せェッ!」


『お母さん、だめだよ……だめなのに……』


 すぐに警官に取り押さえられたが、脇から肺に達するまでの深手を負った朝倉先生は大出血をし、搬送された病院で死亡が確認された。

 美雪も現行犯逮捕された。


 母は、最後まで千紗の名前を叫んでいた。


『お母さまが壊れてしまったのは誰の所為でしょう』

『……私が、存在していたから、いけなかったんでしょうか』

『……』


 ……。


 ほどなくして、常盤聖女学院に対する立ち入り捜査が始まった。

 そして、二年一組の死体の山とは別に。


 ――千紗と依央をはじめとした二十二人分の遺骨が発見された。



『これが、私……?』



 遺体は理科準備室の棚の中に隠された大型水槽に、何かの溶液で溶かされ、骨だけになって沈められていた。


 朝倉恒一という男は。


 目を付けていた教え子の子供たちを殺しては、その頭蓋骨を蒐集していた連続異常殺人鬼だった。


『薬の味、したんでしょう』


 あの時のプールでの灯里の言葉が、蘇る。


『そうか、私は思い出そうとしていたのか』

『うん、もう少しだったんだけどね』



 そして、再びの二年一組。


「いかがでしたか。鳴海さんの死がもたらした世界の全ては」

「……」


 千紗は言葉を失う。


 まさか、お母さんが逮捕されていたなんて。

 まさか、自分の死体が理科準備室にあったなんて。


「……とても、悲しいです」

「どうして悲しむのですか?」


 朝倉先生がまたしてもお日様みたいに笑う。


「どうしてって」

「鳴海さん、あなたは証明した。この二年一組の教室で。あの合唱の練習を通じて」

「え……?」


 朝倉先生は優しく千紗の肩を叩いた。


「スクールカースト。いい言葉です」


 そしてまた、千紗を殺した時の様に背を向け、朗々と語り始めた。


「学校という世界において。……個は不要です。あなたが苦しんだのは『個』があったから。調和こそが正しい。鳴海さん、あなたはそれを証明したんですよ」

「……」

「もっと誇りを持ちましょう。どうですか? あの血の合唱の美しさを。仲間たちで一つになるという、理想の崇高さを。クラスが一つになったとき、美しかったでしょう? あれらを見て、そうは思わなかったのですか」

「……」


 何も言わない彼女に、先生はなおも続けた。


「世界にどれだけ醜い争いや、酷い諍いが存在するか、知っていますか」

「……知りません」

「思いませんか。世界が、人類が一つになれば、戦争やいじめから解放される、と。これは、先生なりの……そう、なのですよ」


 あのう。

 千紗は重くなっていく口を開いた。


「……あなた、誰ですか」


「私? ……いろいろ名前があります。閻魔と呼ぶものもいれば、『神』だなどと呼ぶものもいる。裁定者、なんて呼ばれたりもします。でも今日だけは、鳴海さんの朝倉先生でいさせてください」


 再びの、笑顔。


「……さて」


 朝倉先生は笑顔のまま、くるりとこちらを向いた。


「鳴海さんは、何を選びますか。……あなたが選ばなければ、また始まります。全員もう一度、死ぬのです」

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