【第三十七話.完璧な調律の先で】
「千紗っ? えっ? あんたなんで」
オレンジの夕焼け。
塩酸の臭いのする理科室。
依央は、その中央で、びっくりした様子で千紗を見ている。
「やっぱりね、依央なんじゃないかって。そう思ったよ」
「なんで」
状況を上手く飲み込めていない彼女に、千紗は笑顔で答える。
「私たち……地獄に堕ちちゃったみたい? なんだけど……」
なんだか気恥ずかしくて、やや尻すぼみになってしまったが、言うべきことだと思ったから、伝えた。
『言えるじゃん、千紗ちゃん。やればできるね』
この、永遠に続く夕焼け。
決して出られない、学校。
「地獄……ここが」
依央は、改めて周囲を見る。
こここそが、正しく、間違いなく地獄である。
と、その時。
「はい、みなさん。化学の授業の時間です。……鳴海さん、白石さん。席に着いて」
朝倉先生が理科室に入ってきた。
◇
「朝倉先生? どうしてここに?」
千紗が叫ぶと、彼は、いつもの優しい笑顔で言った。
「朝倉先生? ああ、鳴海さんにはそう見えている、と。……まあ、それもいいでしょう」
『千紗ちゃん、ほら、ほら、見なきゃ』
あ。
灯里の声で、そうか、と我に返る。
正しく見えていないんだ、と。
依央の顔色が悪い。
『きっと、彼女には違うモノが視えているんだろうね』
「先生はね。鳴海さんの行く末を、決めるためにここに来ました。白石さん。残念ながらあなたはこのままここに居ていただきます」
「! きゃあっ」
千紗が彼女の方を再び見ると、木の根のようなもの――あのカーストの根だ――が絡みついて、床にずぶずぶと沈みだした。
「生きているうちに一人の人間の命を奪った。その罪は大きい」
「千紗、助けて、ちさぁっ!」
「このまま永劫の期間、ここで過ごしてもらいましょう」
千紗は知恵を振り絞って考える。
何が正しいんだろう。
どうするべきだったんだろう。
――あの時、美月にもう少しだけ、優しくできていたなら。
私がもう少しだけ、優しく生きていたなら。
何かが変わったのだろうか。
「待ってください!」
千紗は叫んだ。
「おや、鳴海さん? どうしました?」
「待ってください。依央だけが悪いんじゃありません!」
「……では」
だれが、悪かったと?
依央の沈下が止まった。
朝倉先生は、にっこりと優しい顔で笑う。
「……私です。私がもう少しだけ、優しく生きていたなら」
「……」
彼はしばらく考えた後、左手を横に振った。
ふっと、依央の姿が見えなくなった。
「依央!」
「大丈夫です。少し違う場所で待ってもらうことにしました」
依央は、千紗の中でとても大切な存在だ。
大丈夫ですと言われても、はいそうですかと中々納得できない。
あんなに悲しいことだらけのことが有ったばかりなのだ。
依央だけは――亡くしたくなかった。
「……そんなに白石さんのことが気になりますか。……鳴海さん。先生はあなたに興味が湧いてきました」
「……あの。その他にも、聞きたいことが」
「はい。なんでしょう?」
「私がここに来た後、クラスは、学校は、みんなは……どうなったんでしょう」
朝倉先生は優しい顔のままだ。
「では、見せてあげます。それからでも遅くはないでしょう」
つかつかと千紗の元まで歩くと、あの時みたいに頬を撫でた。
でもなんだか、嫌な感じはしなかった。
「二十一人の命を食べてしまった千紗さんの、刑の重さを決める、大事な大事な選択は」
◇
血で真っ赤に染まった制服で。
『ここは?』
『鳴海さんの知らない、二年一組のその後の世界です』
千紗が起こした二年一組での惨劇。
その唯一の生還者である彼女は、駆けつけた警察官に保護された。
その場に居た、朝倉先生は、死体遺棄の疑いで逮捕された。
学校の周りには、何台も救急車や消防車が止まり、異様な騒ぎになっている。
救急隊員が頻繁に出入りする中、手錠を掛けられ、歩く先生。
その正門に停められたパトカーに乗せられるまさにその時。
事件は、起きた。
「ああああ――っ!」
千紗の母、
『お母さん! やめて!』
『鳴海さんに見せているのは過去の映像。干渉は出来ません』
その左手に――千紗も美雪も左利きだった――包丁を持って。
「ぐっ」
「返せっ、あたしの娘を、返せェッ!」
『お母さん、だめだよ……だめなのに……』
すぐに警官に取り押さえられたが、脇から肺に達するまでの深手を負った朝倉先生は大出血をし、搬送された病院で死亡が確認された。
美雪も現行犯逮捕された。
母は、最後まで千紗の名前を叫んでいた。
『お母さまが壊れてしまったのは誰の所為でしょう』
『……私が、存在していたから、いけなかったんでしょうか』
『……』
……。
ほどなくして、常盤聖女学院に対する立ち入り捜査が始まった。
そして、二年一組の死体の山とは別に。
――千紗と依央をはじめとした二十二人分の遺骨が発見された。
◇
『これが、私……?』
◇
遺体は理科準備室の棚の中に隠された大型水槽に、何かの溶液で溶かされ、骨だけになって沈められていた。
朝倉恒一という男は。
目を付けていた教え子の子供たちを殺しては、その頭蓋骨を蒐集していた連続異常殺人鬼だった。
『薬の味、したんでしょう』
あの時のプールでの灯里の言葉が、蘇る。
『そうか、私は思い出そうとしていたのか』
『うん、もう少しだったんだけどね』
◇
そして、再びの二年一組。
「いかがでしたか。鳴海さんの死がもたらした世界の全ては」
「……」
千紗は言葉を失う。
まさか、お母さんが逮捕されていたなんて。
まさか、自分の死体が理科準備室にあったなんて。
「……とても、悲しいです」
「どうして悲しむのですか?」
こっちの朝倉先生がまたしてもお日様みたいに笑う。
「どうしてって」
「鳴海さん、あなたは証明した。この二年一組の教室で。あの合唱の練習を通じて」
「え……?」
朝倉先生は優しく千紗の肩を叩いた。
「スクールカースト。いい言葉です」
そしてまた、千紗を殺した時の様に背を向け、朗々と語り始めた。
「学校という世界において。……個は不要です。あなたが苦しんだのは『個』があったから。調和こそが正しい。鳴海さん、あなたはそれを証明したんですよ」
「……」
「もっと誇りを持ちましょう。どうですか? あの血の合唱の美しさを。仲間たちで一つになるという、理想の崇高さを。クラスが一つになったとき、美しかったでしょう? あれらを見て、そうは思わなかったのですか」
「……」
何も言わない彼女に、先生はなおも続けた。
「世界にどれだけ醜い争いや、酷い諍いが存在するか、知っていますか」
「……知りません」
「思いませんか。世界が、人類が一つになれば、戦争やいじめから解放される、と。これは、先生なりの……そう、意識改革なのですよ」
あのう。
千紗は重くなっていく口を開いた。
「……あなた、誰ですか」
「私? ……いろいろ名前があります。閻魔と呼ぶものもいれば、『神』だなどと呼ぶものもいる。裁定者、なんて呼ばれたりもします。でも今日だけは、鳴海さんの朝倉先生でいさせてください」
再びの、笑顔。
「……さて」
朝倉先生は笑顔のまま、くるりとこちらを向いた。
「鳴海さんは、何を選びますか。……あなたが選ばなければ、また始まります。全員もう一度、死ぬのです」
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