【第三十話.ずるい子、澄玲】
世田谷区立成城中学校。
澄玲は、ずるい子。
彼女は自身をそう認識している。
死ぬのは、自分の方でもよかったのに。
花音と由依が目の前で刺し殺された今この瞬間、その認識がじりじりと心を焦がす。
大切な友人が二人も死んだという、異常な現実を目の前にしても。
まだ、仲が良い
そんなことを考えている。
この期に及んでも。
なお。
◇
澄玲は、立ち回りが上手い子だった。
その能力のおかげで、小学校の頃からいじめることもいじめられることもなく、平穏に過ごすことが出来た。
かといってトップに出ることも、下位に甘んじることも無かった。
いい子だね、いい子だね。
周りの大人からは常にそう言われながら育った。
両親は、物心つく前に離婚。
お母さんは六歳の時に今のお父さんと再婚するまで、女手一つで育ててくれた。
澄玲はわがまま一つ言わず、言われた通りの『いい子』として振る舞った。
もちろん、それはお母さんの為、お父さんの為、そして。
大好きなお兄ちゃんの為であった。
彼の名前は立花健斗。
新しいお父さんの、連れ子だ。
二つ年上の新しいお兄ちゃん。
勉強も出来てスポーツ万能。
去年まで所属していた野球部は、都大会決勝まで勝ち進んだ。
多少強引なところはあるけれど、もったいないくらい、優しくてよく出来た人だ。
本当に。
良い子に振る舞っているだけの自分には、もったいないくらい。
大好きだった。
妹として。
大好きだった。
一人の少女として。
◇
血濡れの二年一組。
柚葉が震えながら弾く、キーボード。
何度も繰り返される、合唱。
花音と由依が死んでからは、みな、だれも麗華に逆らわなくなった。
……いや、違う。
逆らえないのは麗華に、ではない。
このクラスに連綿と続く構造に逆らえないのだ。
と、柚葉が音を外す。
「ストーップ。……柚葉? そこ、前も間違ったよね」
「……」
「半音上げるの、どうしていつも忘れちゃうかな」
「……める」
んー?
麗華は天使のようにも人魚姫のようにも見える美しい笑顔で聞き返す。
「私もうやめる! こんなの、こんなの間違ってるよ!」
ばぁーん。
思いっきり両の手のか細い指で鍵盤を叩いた。
◇
「どうして?」
或る夏休みの日のことである。
あれは、中学生の、一年生だったか、二年生の頃だったか。
――お兄ちゃんが受験勉強していたから、中一か。
千紗と花音と由依が、澄玲の家であるマンションに遊びに来ていた。
みんなで恐怖の心霊動画を、動画配信サイトで見ていて、花音がお家に帰れないと言って泣き出して。
千紗と由依と澄玲とで彼女を送ろうという話が出た時、澄玲は言った。
「大丈夫、みんなは家で続き見てて。私が花音を送ってくるよ」
「ラッキー、ありがとね」
千紗が現金に笑う。
「ごめーん、花音のこと、よろしくー」
由依はすまなそうに両手を合わせた。
とはいえ、夏真っ盛りの午後。
花音の家は徒歩で二十分はかかる。
澄玲は往復四十分の道のりを、汗だくになって帰ってきた。
リビングに行って、ふうふう言いながら冷えた麦茶を飲んだ。
その時のことである。
「大丈夫?」
丁度リビングにやってきたお兄ちゃんと鉢合わせた。
お兄ちゃんは開口一番、静かに澄玲を直視し、そう尋ねた。
「大丈夫だよ、麦茶、たくさん飲んだし!」
いつもみたいに笑って答えて、そのまま自室で騒いでる――声がリビングまで聞こえてきていた――千紗たちの元へ行こうとして。
ぱし。
お兄ちゃんが澄玲の手を掴んだ。
「え」
「……ほんとうに、大丈夫?」
「……」
澄玲はあちこちに目配せして、視線から逃げようとした。
けれどそれもかなわず、その後はただお兄ちゃんの『目』を見つめるしかなかった。
「どうして?」
そう答えるのが、辛うじてやっとだった。
「だって、澄玲」
「うん」
「……」
そう言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
「……大丈夫! 私、うまくやってるから!」
にっこり笑うと、お兄ちゃんはその手の力を弱めたので、するりと抜いた。
本当は、嫌だった。
みんなの顔色の為、炎天下のなか四十分も歩くのは。
でもこの時、彼の視線の先に気が付いた。
――お兄ちゃんは、私のやせ我慢に、気付いているのかもしれない。
だから、お兄ちゃんは千紗たちに怒るかもしれなかった。
それは、嫌だ。
そう思った途端。
怖くて仕方がなくなった。
自分の弱い所を、見られた気がして。
いや、違う。
仲間想いという殻に被って身をひそめる自分の浅ましさを、『ずるさ』を、見抜かれた気がして。
大好きなお兄ちゃんが、『自分を嫌うかもしれない人』に変わった瞬間だった。
◇
再びの、血濡れの二年一組。
ぴくり。
麗華の顔の、瞳の温度が急降下してゆく。
手にしたナイフを、順手に持ち変える。
「そんな風に脅しても無駄。私、もう弾けない。……もう弾かない」
ああ。
クラスメイトのどこからともなくそんな声が漏れる。
――柚葉は、もう駄目だ。
誰が言うでもなく、ただただ、彼女の生存を絶望視する諦観が教室に満ちていく。
「そう、そうなのね。柚葉。合唱コンクール、出られなくなっちゃうの? 私、こんなにお腹が減っているのに……とても。とてもよ」
今なら容易く命を奪えてしまう、カーストの頂点捕食者は、とても悲しそうな瞳をした。
だが、その後ろに立つ立花澄玲という少女は、幸いにもずるの澄玲だ。
柚葉は、澄玲が高校に入学してから出来た、千紗たち以外の初めての友人だ。
今なら柚葉は、彼女だけは助けられるかもしれない。
今なら。
◇
『みんなへ。学校が休校になったこんな時にごめんなさい。大変なことが起きてる、それはわかります。でも、私は、こんな時だからこそ、合唱コンクールで優勝したい。困難な時だからこそ、悲しいことは歌うことで吹き飛ばしたい。みんなの歌声には、その力があると、私は信じます。明日、朝の十時に、二年一組の教室で。……待ってます』
「どこ行くの」
午前九時四十五分。
お兄ちゃんが声をかけてきた。
しかしながら、このメッセージはクラスの大切な極秘事項である。
今まで通り、嫌われないように、やんわりと疑問を受け流す。
「あー……。花音の家! なんかさ、宿題、一人じゃ終わんないって」
すると、お兄ちゃんはソファから立って、澄玲とリビングのドアの間に立った。
「だめだっ! ……今日はいかないで」
ぎくり。
澄玲は背筋を強張らせた。
まただ、また『あの目』をしている。
澄玲を射抜く、こころを読む目。
「嫌な予感がする。行かないで」
強引で勘の鋭いお兄ちゃんのことだ。
澄玲にはわからない、なにか嫌な予感がしているのかもしれない。
けれども繰り返しになるが、麗華からのMINEはクラスの大切な極秘事項であり、立ち回りが得意な澄玲には、絶対に従わなくてはならない命令でもある。
澄玲はずるい子だった。
だから。
お兄ちゃんもクラスのみんなも、傷つけたくなかった。
「大丈夫だよ、ちょっと外出てくるだけ」
「休校中でしょ」
「うん。知ってる。でも、行かなきゃ」
「なんのため」
……。
クラスメイトたちを、真っ黒な『死』が覆っていくのが、想像できた。
きっと、何か良くないことが起こる。
次は自分かもしれない。
でも、今度こそ友達を守りたかった。
だから、澄玲は精一杯の笑顔を作った。
「クラスのみんなの為。それ以上は……」
ニコッと歯を見せて、そしてお兄ちゃんのほっぺたにちゅうをした。
「帰ってから、話すね! じゃあ、いってきまあす!」
澄玲は玄関まで走る。
ずるの不意打ちを食らったお兄ちゃんは、不思議な顔をしていた。
きっと澄玲の気持ちに、気付いてくれたのかもしれない。
きっと、そうだ。
◇
交渉は、大成功。
柚葉は泣き叫んでいるけれど。
少なくとも彼女は、キーボードを弾くことを許してもらえた。
交渉は、大成功。
澄玲は、ずるだから。
麗華のルールを、柚葉に代わってその胸に受けた。
温かな血が喉から、胃からあふれて、ゆっくりと倒れた。
もう、悲鳴も起こらない。
でも、これでまた、クラスは合唱コンクールの練習を続けられる。
クラスの規律を守れた。
お兄ちゃんにはもう会えないけれど。
そこで嬉しそうにしている千紗に会えたから。
よかった。
そのはずだ。
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