【第二十四話.優しいお姉ちゃん】

 幽霊二人組が、屋上のプールサイドで影踏みしながら笑い転げている頃。


 二年一組のKY――空気が読めない――担当、藤沢美央ふじさわみおが同じ旧校舎の、電材や工材の散らばる『東側』階段を駆け下りていた。


 五時間目は体育。

 学校一のKYガールは、70キロというクラス一の体躯と俊足の持ち主でもあり、そして。

 忘れ物クイーンでもあった。


 この日も一つ年上で三年生の姉、藤沢美歩ふじさわみほの元へ体育着を借りに行っていたのだ。

 間の悪いことに、自分の忘れ物に気が付いたのが、昼ご飯を食べた後になってからだった。


「やばっ、次体育じゃん!」


 彼女は、とても焦っていた。


 だから、四階にある三年生の教室からの帰りに、工事中で立ち入り禁止のテープをわざわざ潜って。

 西側階段より体育館側にあってより近い、『東側』階段を下った。



「!」


 千紗の耳が小さな悲鳴を捉える。

 続いて、どんがらがっしゃんという、校内に居る誰の耳にも届くような雷が落ちたみたいな巨大な音が響き渡った。


「美央でしょ絶対っ」


 叫ぶと同時に千紗は駆けだす。

 犯人探しなんかしなくても、のは彼女しかいない。


 息を切らして走る。

 幽霊なのに。


 こんな子供じみた事。

 もう高二なのに。


 そうに違いない。

 そうであってほしくない。


 そうに決まってる。

 そんなのはいやだ。


 千紗は走る。


 そんなのは。

 いやだ。


 その一心で。



 美央が階段の崩落に巻き込まれたのは、彼女が三階に差し掛かったころ。


 立ち入り禁止の黄色いテープ。

 赤い三角コーン。

『ここは入ってはいけません』の赤い文字。

 それらの全ては、彼女を止めることが叶わなかった。


 それは、重さ二トンの崩れたコンクリート床に頭から押しつぶされて、辛うじて右手だけ判別できている――その結果を見れば、火を見るより明らかである。


「あんたさ」


 膝から崩れ落ちた千紗は、血にまみれたその右手を握る。

 小指の爪は、つぶされて無くなっていた。


 それがとても痛そうで。


「ばかだよ」


 痛そうで。


「ばかだよ、ほんと……」


 千紗は涙を零した。

 生前は無視を決め込んでいた、カースト下位のガサツな女の子に。


 ぽろぽろ、ぽろぽろと。


 そして。

 流れ込んでくる記憶は、KY少女とその姉の、優しさと後悔の記憶だった。



 美央と千紗は、交流こそなかったけれど、同じ中学校だった。

 その前、小学校は違う学校だったけれど。


「こおらー、男子ぃ!」


 高身長は小学校の頃からのようで、ふくよかな体格だったのもあって、一つ上の学年の男子ともまともに渡り合う、たくましい女の子だった。


 それとは逆に、彼女の姉・美歩は華奢な女子だった。

 中学生の時から千紗も知っていたし、おそらくは小学生のころも変わらず、だろう。


 ガサツ……勝気で男勝りな妹と違って、美歩は、小さな頃から食が細く、太れた試しがない。

 身長も、四年生になる前に美央に抜かされてしまった。


 美央は、引け目に感じていたにちがいない。

 お姉ちゃんの残したご飯をお腹いっぱいたべて、ずんずん大きくなる自分のことが。


 ママもパパも、美央みたいにずんぐりしている。

 特にママは、料理がとても上手で、たくさん食べる子を褒めてくれた。

 必然的に、美央の方がたくさんほめてもらえる子になった。


 でも、ママは気が付かない。


 美歩は、あまり脂っぽい食事が得意ではないこと。

 美歩は、ママが好きで、言い出せないこと。

 美央は、お姉ちゃんが大好きで、無理して食べていること。


 或る日、美歩が妹に言った。


「美央、そんなに食べなくてもいいよ」


 美央を気遣うための言葉であったが、彼女には違うふうに聞こえてしまう。


「あ、ごめん……」

「?」


 ――あんたが手を伸ばしたハンバーグは、私のなんだから。


 決してそんな意図はなかったが、五年生のこの日。

 美央は姉のものをなんでも奪う、悪い子になってしまった。


 少なくとも、お姉ちゃんが大好きな、妹の中では。



 でも、美央は忘れ物クイーンだった。


 それは、小学校一年生の頃から変わらず、学年があがり五年生になっても。

 申し訳ないと思いつつも、姉の助けが必要だった。


「お姉ちゃん。筆箱貸して。お願い」

「お姉ちゃん。絵具セット貸して。お願い」

「お姉ちゃん。習字道具貸して。お願い」

「お姉ちゃん。裁縫セット貸して。お願い」


 妹が大好きな美歩は、にこにこしてなんでも貸してくれた。

 でも。


 ――おかしいなあ。


 美央の心の中に、不安が蓄積していく。

 それはまるで、溶かした絵具が水入れの中で、分離して沈んでいくように。


 ――どうしてお姉ちゃんは私に優しくしてくれるんだろう。


 


 いつか姉に嫌われる。

 今度こそ姉に嫌われる。


 降り積もる心の声は、借り物をするたびに大きく、強くなっていった。

 それでも、忘れ物はなくならないのであった。


 だから、美央は守ろうと決めた。

 体が小さく、やせっぽちなお姉ちゃんをいじめる、男子たちから。


「こおらー、男子ぃ!」


 幸い、自分はKYだ。

 自分より大柄な六年生だって怖くなんてなかった。


 六年生の教室に上がり込んでは大暴れした。


 そんな妹を、姉がどう思っているか。

 知らないまま。



 その日の晩ご飯は唐揚げだった。

 美央の大好物。

 しかもママは、ヤンニョムソースに絡めてくれた。


 五年生の食べ盛りの少女には、宝石のように映った。


「それ、食べないの?」


 KY少女で忘れ物クイーンの美央は、向かいの席のお皿の端に追いやられた赤いソースの絡んだ唐揚げに手を伸ばした。


 あんまりお腹が減っていたから。

 あんまり美味しそうだったから。


 お姉ちゃんの中学受験の勉強仲間で、クラスメイトで、そして。

 初恋の人がに座っていることを。


 忘れていた。



「美歩の妹って、やっぱガサツだよな」



 それきり、姉は妹に心を閉ざしてしまった。

 それでも、姉は妹に優しかった。


「お姉ちゃん、体操服貸して。お願い」


 優しい姉は、五限目に体育のある妹に、『藤沢』と書かれた体育着を貸した。


 そして、こう言った。


「東側階段使いなよ。……早く行かなきゃ、でしょ」


 妹の顔がぱあっと明るくなる。


 ――そうだ。そうすれば間に合うかもしれない。

 やっぱり、お姉ちゃんは優しいなあ。


「ありがとっ、お姉ちゃんっ」


 やっぱり、お姉ちゃんは優しいなあ。



 千紗は、小指の爪がはがれた美央から、自分の手を放した。

 悲鳴が聞こえたのだ。

 四階にある三年生の教室から。


 だれかが、飛び降りた。


 悲鳴に交じって、そんな声が聞こえた。

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