【第二十二話.紗奈とドイルとお父さん】

 吉岡紗奈よしおかさなという生徒が、千紗の記憶の端にいる。


 ぼさぼさの長い黒髪に、目の下にはクマ。

 見た目はとても地味で、性格も静か。

 クラスの中で一番目立たない、空気のような級友。

 どこまでも暗く、カーストも低い、いわば二年一組の影のような女の子だった。


 千紗が、血だまりの中でもう息をしていない彼女の頭に手を当てると、記憶が聞こえてくる。


 死にたくない、死にたくないと足掻く、影の叫びが。

 聞こえてくる。



 確か、父子家庭だったはず。

 彼女と比較的仲の良かった花音から、千紗はそう聞いている。


 それも、結構遠くから――確か、小平あたりからじゃなかっただろうか――通っていたはずだ。


 記憶を手繰るように辿ってゆく。


 保育園児くらいの、古い記憶までたどり着いた。

 お父さんらしい男性が迎えに来ている。


 洗い立てのタオルケットみたいな柔らかい思い出に、千紗はそっと触った。



「おとーさん」


 紗奈は人一倍甘えんぼらしい。

 まだ生きている両親によく懐いているのが伺える。


「どした? お腹減ったか」

「うん!」

「お母さんのお見舞い行ったら、夕めしにしよう。何にしようかな。ほっともっとにする?」

「さな、なんでもいいよ!」


 なんでもいいよ。

 そういえば、彼女はいつも口癖のように言っていた。


「ねえ、おとーさん」

「んー?」

「かたぐるま! してー?」

「はは。いいよ。……ほら、乗って」


 きゃあ。

 三歳の紗奈をひょいと肩に乗せる。

 とても嬉しそうだ。

 そういえば、彼女は体育祭の騎馬戦でも上だった。


「はは、そんなに嬉しいか。ほら、お父さん、お母さんのとこまで走っちゃうぞー!」

「きゃー、あはははは!」


 クラスでいちばん影の薄い少女は、しかし確かに、この時はおとーさんとおかーさんの、世界一のお姫様だった。


 ぷつり。

 記憶が飛ぶ。


 数か月後。


 四歳になる前に、紗奈のおかーさんは帰らぬ人になったようだ。

 彼女は黒いワンピースを着て、白い棺の前に立っている。


「おとーさん」


 大好きなおとーさんは椅子に座って、ぽたぽたと涙を零している。

 大好きなおかーさんは顔だけ出して、お化粧がとってもきれいだった。


「おとーさん」


 熊本のおじいちゃんおばあちゃんも来てる。


 かわいそうにねえ、まだ二十九で。

 かなしいねえ、がんだなんて。


「ねえ、おとーさん、どうしておかーさんねんねしてるの」


 ねえ、お腹減った。

 ねえ、かたぐるま、してー。


 でもこの日から、大好きなおとーさんに紗奈の声は届かなくなった。



 紗奈は、独りぼっちになった。


 小学校に上がって学童に入っても。

 学童を卒業して家で『鍵っ子』になっているときも。


 お父さんはいつまで待っても帰ってこない。

 だから、お絵描きを覚えた。

 お絵描きしている間は寂しくなかったし、新しくお友達を作る必要もなかった。


 四年生の時、『子犬探偵ドイル』に出会った。


 紗奈にとっては衝撃だった。


 かっこいいお兄さんの名探偵が、不思議な薬で子犬になって、凶悪な殺人鬼と対峙するのだ。


 夢中になった。

 ヒロインの圭子姉ちゃんは強いけれど優しくて美人で。

 友達の零ちゃんは大人っぽくてクールで格好良くて。


 どうやったらこんなに素敵な絵が描けるか、何度も絵を写して真似た。

 めきめき絵の腕は上がった。


 相変わらずお友達を作るのは下手くそだけど。

 家で宿題を忘れてドイルのオリジナルストーリーを書き上げた。


(へえ、紗奈って、絵が上手かったんだ)


 千紗は感心した。

 誰も気づかない女の子の、隠された才能に、素直にすごいと思った。



 紗奈は高校生になった。

 志望校の都立に落ちて、滑り止めにしていた、常盤聖女に入学することになった。


 小平の古びた団地の一室で。

 誰にも気付かれない彼女が唯一帰ることのできる、痩せて骨ばったお父さんの元で。


 私立になってごめんなさいと何度も謝っていた。


 裕福で恵まれた家庭で育った千紗には想像することしか出来ないけれど、紗奈も苦労してたんだなあ、と千紗は思いを馳せてみる。


 居場所なんて、どこでもよかったみたいだ。

 大好きなドイルの絵が描けるのならば。


 半ば必然的にカースト最下位近くまで落ちてしまったけれど。

 彼女は帰宅部をえらんだけれど。


 誰にも気付かれない。


 それはそれでいいと思った。

 漫画の中の、ドイル君と圭子姉ちゃんと、零ちゃんが自分には居てくれる。

 帰って十時まで待てば、お父さんが帰ってきてくれる。

 土曜日の夕方は、一緒にドイルを観る。


 それで十分だった。

 それで。



 二年生の或る秋の日。


「どうして泣いているの」


 声をかけてきたのは、バイ菌ちゃ――依央だった。


「え」


 依央は理科部だ。

 授業は終わったし、早く行けばいいのに。

 紗奈はいま、それどころじゃないというのに。


「な、なんでも」

「?」


 同じカースト最下層の、寝不足で顔色の悪い級友は、不思議な顔をしてのぞき込む。


「なんでも……ないれす」

「よね」

「?」

「つらいよね。私も同じだから」


 依央は心配そうな目のまま言うと、視線だけ残して理科室へ向かった。


 千紗は紗奈の眼を借りて、日付を見てハッとする。

 依央が学校に通った最後の日だった。


 この時、紗奈は依央ともっと長く話していればよかったに違いない。

 そうすれば、依央は死ななくて済んだのかもしれない。


 そうすれば、紗奈もこんなことにならなかったかもしれない。


 この時、紗奈のお父さんは入院していた。

 お母さんと同じ、がんだった。


 そしてこの日が、二年一組の生徒が、になった。



 それから数日後。

 教室移動の列の最後尾を歩いていた紗奈は、何日も食事が喉を通らず、貧血を起こした。

 視界が真っ白になって、ひとつ前を歩いていた雛乃の背中が遠くなる。


 そのまま、後ろに転倒して、後頭部をコンクリートの床に強打した。


 ごんっ。


 結構な音がした。

 けれども、雛乃も、誰も、振り返ることはなかった。


 脳の、命を司る最も大切な部分を損傷して、紗奈の命の血だまりが、柔らかく広がってゆく。


 死にたくなかった。

 今日は、お父さんをお見舞いに行く日だった。


 死にたくなかった。

 ステージ4だと言われても、必死で頑張るお父さんを、励ましたかった。


 ――さなは、なんでもいいよ。


 紗奈は、なんでもよかった。

 帰宅部でも、空気でも、影でも。

 紗奈は、なんでもよかった。

 ドイル君たちの絵が描ければ。


 お父さんが、居てくれれば。


 それで。



 千紗は、紗奈の頭からその手をゆっくり離す。


 最後まで見ていられなかった。

 気づいてあげればよかった。


 影だと思っていた女の子の、その思いを前にして。


 と。


 ぶーっと、彼女の手から零れ落ちたリンゴマークのスマホが鳴っている。

 成城大学病院からと表示されている。

 十五秒ほど鳴った後、留守電であろう文字列が、文字起こし機能で内容が表示される。


『こちら、成城大学病院でございます。吉岡紗奈さんのお電話でよろしかったでしょうか。お父様のご容体について、大変重要なお知らせがあり、ご連絡差し上げました。本日正午過ぎより、お父様の状態が急激に悪化しており、現在、意識レベルの低下と呼吸状態の不安定が見られます。医師の判断により、危篤の状態と診断されております。つきましては、可能であれば至急ご来院いただき、お会いいただくことをお勧めいたします。ご不明点等ございましたら、この番号まで折り返しご連絡ください。繰り返します。成城大学病院からのご連絡でございます。お父様が危篤の状態です。至急ご来院ください。失礼いたします』


 ……そっか。


 千紗は思う。

 親子で肩車したりドイルを観たり、するといいよ。


 今なら。

 そう言える。


 お腹は、いっぱいになった。

 今なら、言える。


 紗奈の影は、渡り廊下の蛍光灯のもと、すうっと消えた。

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